三十六

「やっぱりそうか」

「ごめんなさい。言えなくて」

「ううん。夢はなんも悪くないよ。でも強いな、夢は」

「おば様が居たから。でも、ケンシさん」

 夢はそこで言葉を止めて俯くと、少し頬を上げました。

 ガラス戸から射し込んでいた夏の光は時間と共に引いて行き、向かい合って座っている夢とケンシを薄暗く覆いました。

 夢は囁くような声でケンシに聞きました。

「いつから?」

 するとケンシは「うーん」と声を漏らし、宙を凝視しながら答えました。

「あー、はっきりとは分からんねんけど、それかな、長袖」

 ケンシはそう言うと、夢の左腕を指差しました。夢はつられるように左の腕に目をやると、その腕をギュッと掴み、みんなの事を想いました。話の間を空けようと視線を落としていたケンシがふと顔を上げると、悲しそうな笑顔を浮かべる夢が瞳に映りました。

「他にも色色ある。だから、みんな、何か気付いてると思うで」

 ケンシのその言葉に夢は俯いたまま、「うん」と小さく頷きました。そして夢の顔に残っていた笑みは、少しずつ、薄くなってゆきました。

「夢」

 ケンシは力強く声を掛け、話し出しました。

「俺の気持ちだけ言っとくわ。生きてほしい」

 ケンシの真っ直ぐなその言葉に夢は俯いたまま、「うん」と頷きました。

 しかし、目蓋を閉じたケンシの表情には辛い気持ちが現れていました。ケンシは気付いていたのです。夢が抱いている本当の気持ちに。

「でも」

 話し出したケンシは、自分の声が涙で滲んでいる事に気付きました。それでもケンシは言葉を続けました。

「夢が想う、生きる事の選択がもし、何もせえへんって事やったら」

 顔を上げた夢の瞳に、涙を流しながら優しく頬笑むケンシが映りました。

 ケンシは力強い声で、夢の心へ届くように言葉を掛けました。

「みんなに会えるその時まで、全力で幸せにしてみせる」

 ケンシの瞳に映った夢の笑顔は、まるで天使のようでした。


「もっと早うに気付いてやれば良かったな。すまんな」

「違うわ! 隠してた私が悪いの」

 みんなを想う夢の気持ちに、言葉を止めたケンジは悲しい笑顔になりました。ミゲロの時と同じように何かを感じていたケンジでも、現実を前にしてしまうと、考える方法を忘れてしまったかのように頭が動きませんでした。ケンジは落ち着こうと卓袱台の上に片肘を乗せ、息をもらしながら視線を落としました。

「もう、誰が説得しても、無理かな?」

 ケンジの隣に座っていたフミがとても真剣な眼差しを夢に向け、そう話し掛けました。

 その時でした。夢よりも早くケンシが話し始めたのです。

「ばあちゃん時とは違う」

 俯いていた夢は縁側に立つケンシを見上げ、そしてまた、視線を下に戻しました。そして唇をギュッと閉じ、みんなの想いを心の中に注いで行きました。ただ、今日はまだ、前に座るオッカの顔を、夢はちゃんと見る事が出来ていません。

「ばあちゃんの気持ちは俺がちゃんと分かったから。でもな、夢は違うねん。選択は違うけど、どっちも一生懸命生きるんや。多分、夢は」

 ケンシは声を震わせながら、瞳に溜まった涙を流さないよう、夢に優しく頬笑み掛けました。

「死ぬために、一生懸命、精一杯、生きてるんやと思う」

「どうしてそんな事言うのさ!」

 涙を流しながら聞いていたハツエがそう声を上げました。

「違う、はっちゃん、悲しい意味じゃないねん」

 ケンシはそう声を上げると俯き、またすぐに顔を上げて話を続けました。

「今日みんなが来る前、夢と二人で話して、すごい気持ちが分かってん。一緒やってん」

 その言葉に驚いた夢は顔を上げると、涙を堪えながら話すケンシを見つめました。

「長く生きたいとか、短いとかじゃない。呼吸器が嫌とか胃瘻が嫌とかじゃない」

 ケンシはゆっくり深く息を吸い、想いの全てを吐き出しました。

「変に思うかもしれんけど、一生懸命生きたら、またみんなに会えるって、夢は、本気でそれを夢見てんねん。俺もな、そう信じてんねん。だから、生きていけんねん」

 ケンシは鼻に力が入り、唇に力が入り、震える声はもうどうでもよくなりました。

「だから、死にたいわけじゃない。最後の瞬間に、やっと会える、そう想うだけ」

 ケンシは涙を流すことなく、笑顔のままでいれました。これから最後へ向かう夢に、もうこれ以上、悲しみを見せたくないのです。ケンシは夢に視線を寄せ、大きな笑顔になると、いつものように明るく話し掛けました。

「ごめんな。上手い事言われへんわ」

 すると、自分のために説得してくれている事が嬉しかった夢も目蓋を細めて頬笑み、顔を左右に振りました。

「ううん。私の気持ちのまま。ありがとう」

「夢」

 突然聞こえた夢を呼ぶ声。夢はずっと、その人の声を待っていました。本当は誰よりも早く伝えたかったのですが、心配させてしまうかもしれないという不安が強く、今はもう話せなかった罪悪感で心は一杯でした。でもこのままでいいはずがない。そう思った夢は俯くと小さく深呼吸をし、オッカと向き合うように座り直しました。

 優しく微笑んだオッカは夢の手を見つめ、穏やかな声で話し始めました。

「手を見せてごらん」

 それは、いつもと違うオッカの声。優しさと寂しさが伝わってきました。夢は瞳に涙を溜め、閉じた口元にグッと力を入れました。そして夢は頷き、ゆっくりと自分の手を差し出しました。オッカは、初めてちゃんと見る夢の手を、そっと自分の手のひらに乗せました。そしてもう片方の手のひらで、夢の手のひらを優しく強く撫でました。夢の手のひらにあった筋肉はもう、張りを失っていました。オッカは長袖で隠れた夢の手首に触れました。ある日から夢は、長袖を着るようになりました。夢は細くなった腕をずっと隠していたのです。夢は今日まで一人で戦ってきたんだと、オッカは気付きました。夢の細くなった腕を、オッカは何度も何度も優しく撫でました。オッカの瞳から、ぽろぽろぽろぽろ、温かな涙が止めどなく溢れ、頬を伝いました。

「こんなに細くなって」

 ぽつりと話したオッカの声はとても小さく、涙の声をしていました。

 そんなオッカを見つめていた夢は、ぽろぽろぽろぽろ、幸せに満ちた涙を流しました。

「ごめんなさい」

「どうしてあんたが謝るのさ」

 そしてオッカは「バカだね」と優しく言うと、夢を強く抱き締めました。オッカの愛に抱かれた夢はまるで大空の中にいるような、そんな自由を心の中に感じました。

 そうして時の無い時間は流れ、ようやく言葉を交わし始めた二人を見つめていたケンシは、夢に話し掛けました。

「なあ夢。お願いがあんねん」

 話し掛けたケンシの声はとても真剣でした。その事に気付いたにオッカは抱き締めていた腕を広げ、夢の頭にポンと優しく触れました。すると、嬉しさや恥ずかしさで頬を染めた夢は俯き、ギュッと瞳を閉じました。顔を隠した夢の表情は、まるで子供のような笑みで溢れていました。そして夢はそのままケンシの方へ振り向くと、何も言わずに頷きました。ケンシは笑みを浮かべ、今度はいつもの口調で話し始めました。

「ケンちゃんと話しててな、俺は今まで通り子供三人の手伝いとかしてあげたいねん」

 頷きながら聞いていた夢はふとケンジに目をやりました。夢と目があったケンジは笑みを見せ、小さく頷きました。明るく元気なケンジとハツエ。そんな二人に負けないくらい三人の子供達は活発で、どんな話なのか夢にはまだ分からないのですが、子供達に振り回されているケンシの姿が目に浮かび、何だか楽しい気持ちになりました。

「だからもし、夢が辛くないんやったら」

 夢はケンシに視線を戻しました。

「俺の代わりにこの家におらへんか?」

「えっ」

 夢は想像もしなかったケンシの言葉に驚くと、そのまま動けなくなってしまいました。ただ夢は、ケンシが話した言葉の意味は分かっています。

「どうして?」

 夢の質問に、どう答えれば伝わるのかすぐに思い付かなかったケンシは笑みを浮かべながら俯くと、「うん、まあ」と呟き、そのまま考え出してしまいました。

 葬儀が終わってから十数日が経ち、おばあさんとの介護の日日を過ごしたこの部屋も、まるで何もなかったかのように昔の懐かしい姿に戻りました。そして夢自身も、すぐに前の生活に戻るとケンシに話していたのです。その話を聞いた時ケンシは、自分がいつまでも居たら迷惑だ、夢はそう感じたのだろうと思いました。ただ、ケンシは内心迷っていたのです。自分の気持ちと夢の本当の気持ちは一緒だろうとケンシは感じていたからです。

 ケンシの気持ち、それは、この家に遊びに来て玄関を開けた時、おばあさんの事が大好きな夢がそこに居てくれたら、そんな不思議な気持ちです。

 ケンシが感じた夢の本当の気持ち、それは、おばあさんとの日日が溢れるこの家を離れたくない、そんな悲しくて寂しい気持ちです。そして夢は、その気持ちを誰にも絶対話さないだろうともケンシは分かっていました。だからケンシは色色と理由を考えてきていたのですが、複雑に考える事を止め、想いのまま話す事にしました。

「夢はここにおれたら幸せか?」

 ケンシは夢の顔に迷いが見えたので、後悔しないようにもう一度聞きました。

「幸せじゃないんか?」

「ううん! 違うでも」

「じゃあ」

 ケンシは夢の声を遮るようにそう言うと、感謝の気持ちを込めて話し始めました。

「ばあちゃんを幸せにしてくれた、そのお礼をさせてほしい。じゃないと俺、一生後悔する。もし迷惑じゃなかったら」

「迷惑じゃない!」

 感情のままに立ち上がった夢は、ケンシの言葉を遮るようにそう声を上げました。

「なら決まりじゃねぇか」

 そっと二人を見守っていたフクが笑顔でそう言いました。

 いつもみんなの幸せを願い行動する仲間達。心が一杯になった夢は俯き、笑顔になろうと流れる涙を袖で拭いました。しかし、何度目元や頬を拭っても、瞳から溢れる涙を止めることができません。照れた夢は「えへへ」と笑みを零しました。

 するとケンシは揶揄うように「えへへ」と真似をして、夢に笑顔を向けました。

「もお、やめて」

 とても明るい夢の声。いつの間にか夢は無邪気な笑みを浮かべていました。

 かつて夢がそうしたように、みんなは夢の人生に心を寄せました。

 かつておばあさんがそうしたように、夢はみんなの想いに感謝しました。

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