十二
秋もそろそろ終わりの今日は、いつもと違う朝になりました。夢は毎朝自宅からおばあさんの家へ手伝いに来るのですが、今日はおばあさんの家で夜明けを迎えました。
「おはようございます」
玄関から女性の声がしました。訪問診療や訪問看護等の介護サービスに関する人には、予定の時間であればインターホンを鳴らしてそのまま玄関から入ってきてもらう事にしています。
「あ、おはようございます」
夢が玄関に行くと、今日の担当である二十代の若い女性のヘルパーがいました。今は三人のヘルパーに交互に来てもらっています。看護師にも週に一度来てもらい、サービス内容を徐徐に増やしていっています。夢は朝の日課として昨日から今日までの事をヘルパーに伝えました。
「今日はいつも通り手浴足浴で大丈夫です。でも、昨日から体調が悪そうで」
昨日の夜からおばあさんの具合が悪かったので、夢はずっと側にいたのです。今は夢が来た時よりも落ち着いているように見えるのですが、むしろ落ち着き過ぎて心配になってきていました。
「すいません、やっぱり今日はキャンセルしていいですか?」
「あ、はい。分かりました。明日はどうしますか?」
「一応通常通りでお願いします。もし何かあったら、変更があったら電話します」
「分かりました。じゃあここで失礼します」
「ありがとうございました」
玄関を出るヘルパーを見送った夢はすぐにおばあさんの所へ駆け寄りました。
「おば様大丈夫?」
おばあさんの呼吸は少し浅く、回数も増えているように感じました。さらに夢の呼び掛けに対する返事も弱く、朝起きた時よりもあきらかに悪くなっているのが分かりました。夢の胸の中で怖さや焦る気持ちがジワリと広がりました。躊躇ってはいけない、そう思った夢は急いで救急車を呼びました。
「すぐ来てくれる、おば様」
夢は受話器を置くとおばあさんの側へと駆け寄りました。救急車が到着するまでの間、自分はどうすればいいのか分からない夢は、おばあさんの背中を擦りながら「大丈夫。大丈夫」と声を掛け続けました。夢はおばあさんの顔を見つめながら、判断が遅くなった自分自身を責めました。自分で何とかしようと考えてはいけない、特におばあさんの場合は前提としてALSがあるのです。相談できる地域の窓口を事前に調べておき、判断に迷いが生じた時でも迅速に対応出来るようにしておく必要がありました。しかし、それらも常に万全というわけではありません。予期せぬ隙間が生ずる事で、前に進めなくなる場合もあるのです。
数分すると救急車のサイレンの音が聞こえてきました。
夢は茶箪笥の引き出しから事前に用意しておいたお薬手帳や必要な証明書を取り出し、慌ててリュックサックに詰め込みました。そして部屋の暖簾をずらして道を空け、玄関先で隊員が来るのを待ちました。
遠くで響いていたサイレンの音は近くなり、あっという間に救急車が現れました。
「大丈夫かい?」
突然背後から声が聞こえ、夢が振り返ると隣に住むユアおばあさんが立っていました。
「あ、はい、体調が悪くて」
「そうかい。ミロさんを頼んだよ夢」
「ありがとう。ユアさん」
夢は安心してもらえるようにと頬を上げ、冷静さを作ってそう言いました。
隊員が救急車から降りてくると夢は玄関のドアを開け、おばあさんの所へ導きました。おばあさんも隊員の存在に気づいたのですが表情は変わらず、その事がより一層事態の深刻さを物語っていました。夢は隊員達に今の状況と病気の事、搬送先はALSの診断を受けた病院へ向かってほしいと伝えました。そして状態の確認が終わるとすぐにおばあさんをストレッチャーに乗せ、救急車まで運んでゆきました。夢はリュックサックを手に取ると、おばあさんに続いて救急車に乗り込みました。救急車のバックドアは閉められ、いつでも動き出せる状態になりました。搬送先が決まるまで隊員達の確認作業は続き、夢もおばあさんの情報と現状をより詳しく説明しました。希望していた病院から受け入れ可能の返事をもらい、すぐさま搬送が開始されました。搬送中も隊員との確認作業は続いたのですが、夢はおばあさんから目を離しませんでした。
走り出してから十数分経過すると、車窓の外は別の街に変わっていました。
おばあさんは少し楽になれたのか、普段の表情に戻っていました。夢は、窒息し掛けた心の中にやっと酸素が入ってきたような、そんな安心感が広がって行くのを感じました。
今もまた、おばあさんはあくびをしました。夢はおばあさんのあくび姿が大好きです。その瞬間に間に合えば夢はいつも写真を撮り、おばあさんに見せて笑い合うのです。夢にとっておばあさんのあくび姿はなぜか、心を落ち着かせてくれるのです。
走り出してから三十分後、車窓に目をやった夢は、病院のすぐ側まで来たのだと気付きました。救急車が救急搬入口に到着するとサイレンは止まり、すぐさま夢は救急車を降りました。おばあさんを乗せたストレッチャーは救急車から降りるや否や検査を行いに病院内に入って行きました。夢は、搬入口で待機していた看護師に付いて行き、手続き等を行いに救急の受付へ向かいました。
救急外来受付前には長椅子が置かれていて、手続きを終えた夢はそこで待機する事になりました。病院に着いてから少し時間が経ったのですが、心が水の中に閉じ込められているような不安は消えず、落ち着くことができない夢は目蓋を閉じて呼吸を整えようとしました。しかし目蓋を閉じると、ストレッチャーに乗ったおばあさんが離れてゆく、そんな光景が映り、一人で怖い想いをしているのかもしれないと考えてしまうのです。今の夢には祈る事しか出来ません。頑張れ、頑張れ、と祈る事しか出来ません。
次第に夢は自分の無力さに目を向け始めました。自分は一体何が出来るのか、考えれば考えるほど後悔が強くなってゆきました。壁沿いに連なる長椅子に等間隔に座る人達の声や存在も薄れてゆき、夢は少しずつ自分の心の中に入ってゆきました。次次に現れるおばあさんの表情が後悔から恐怖へと夢の感情を変えてゆきました。
いなくなってしまう。
そんな、言葉にもしたくない恐怖心が「頑張れ……おば様は大丈夫……ごめんなさい……私のせい」と、夢の心を掻き乱してゆきました。
待機し始めてから一時間が過ぎました。その間、事あるごとに医師から経過の報告を受け、おばあさんの状態が少しずつ分かってきました。さらに医師が持ってきたのは報告だけでなく、検査や治療に関する同意書も幾つかあり、説明を受けた夢はサインをしてゆきました。その中には、状態に急変があった場合はどこまで何をするか、つまり心肺蘇生法に関する処置の話もありました。この事については搬送後にケンシと電話で話し合って決めていたので、出来る限りの事をしてほしい、夢はそう伝えました。
それからしばらくすると再び医師が夢の所へやって来ました。おばあさんの状態が悪くなった原因になりうる可能性を見つけたそうなのです。それは、おばあさんの腎臓に形成された結石でした。そして医師は、その原因の除去のため現在対応している救急科からALSでおばあさんを担当している神経内科へ代わると夢に伝えました。
そしてここから医師の話はALSに関わる問題へと繋がってゆきました。
「全身麻酔を行うと気管挿管が行われます。その後人工呼吸が始まります」
「はい」
この話は以前説明を受けていたので夢は把握をしていました。おばあさんとの話し合いも何度もありました。勇気を出せなかった夢がその事を遠回しに話すので、真意が伝わりづらく時間が掛かりました。ただ、時間を掛けたおかげで分かってきた事もありました。それは、明るい未来の話をするとおばあさんは素敵な笑顔になるという事でした。その未来を想い描くだけでキラキラとした笑顔になれるということは、おばあさんには触れたい未来があるんだと、生きたいんだと、夢は想うようになりました。そして夢は、やはりそうなんだと気付いた事もありました。それは、生きたいという気持ちに対して後ろめたさがあるとするならば、その原因は人工呼吸器を付けた後の介護の生活にあるという事を。
「人工呼吸が始まると、手術が成功したとしても、術後、場合によっては自発呼吸が出来なくなっている事があります。その場合は抜管、気管チューブを抜くことは出来ません」
「はい」
夢は自分の想いを話さずに、人工呼吸器を使うことについてどう思うのかケンシに訪ねたことがありました。ケンシは迷う事なく使う事を望みました。例え夢がいなくても、自分が面倒を見ると言い切ったのです。この言葉を聞けた夢は、本当の想いをケンシに打ち明けることが出来ました。それから夢達は、丁寧に介護の環境を調えてゆきました。やがておばあさんは大好きなみんなに涙をし、想いを受け取ってくれました。
そして最後はケンシの言葉がおばあさんの気持ちを動かしました。夢はケンシへの報告の後、おばあさんに携帯電話を渡しました。
「病気治ったらまた喉塞いで喋れるようになるし心配せんでええから。俺がずっと面倒見るから。呼吸器つけたら息も楽なって大丈夫やから」
ケンシは声が震えないように堪えながら言葉を掛けました。ベッドの上で座っていたおばあさんは、うつむきながら嬉しそうに頬笑むと「ほんと」とささやくように返事をしました。そんな二人をそばで見てきた夢は、その絆の深さに心が温かくなりました。
「自発呼吸が確認出来ない場合、そのままにする事は出来ません。人工呼吸器の使用が始まる事になります。つまり、今回の手術をするという選択は、人工呼吸器の使用と処置の同意も含まれる事になります。もちろん、自発呼吸が再開されれば必要ありません。もし必要になった場合、人工呼吸をせずにという事は出来ません」
「はい」
みんなはとても喜んだのですが、その数週間後の検診で、おばあさんの脳の萎縮が確認されました。要因は多岐にわたり断定出来ないのですが、認知症の可能性があります。
「成功率は高いですが、このまま手術をしないという選択肢もあります。どうしますか」
「はい。大丈夫です。手術をお願いします。必要な時は、人工呼吸器を使います」
おばあさんの手術が間もなく始まります。
夢が救急外来受付前で待機していると看護師がやって来ました。手術についての説明を受けながら看護師に付いて行くと、ベッドの上で横になったおばあさんが居ました。おばあさんの口からは気管につながる十ミリほどの硬いチューブが出ていて、何が起こっているのか分からない不安と恐怖が入り交じった顔であちこち視線を動かしていました。言葉を失った夢は心を無数の針で刺されるように痛くなりました。
手術室への移動が始まると、夢は自分の姿がおばあさんの視界に常に入るようにと側を離れませんでした。乱れてしまったおばあさんの髪の毛が目に入らないように整え、安心するよう手を握り、膝を擦り、「大丈夫。大丈夫」と声を掛けて笑顔を向けました。外来患者の人達が居る場所を抜けてさらに行くと、手術を行う部屋の前に着きました。看護師はカードキーで自動ドアを開けました。
「では、この待ち合い場所で待っていて下さい。終われば呼びに来ます」
夢は「はい」と答え、おばあさんを見つめました。
「頑張ってね」
夢は溢れそうな涙をぎりぎりにまで堪え、なんとか気持ちを伝えました。
そして夢は看護師に「お願いします」と声を掛けました。看護師はベッドを押して手術室へ向かって行きました。ベッドで運ばれてゆくおばあさんの姿は一人ぼっちでした。ドアが閉まったその後も、夢は見えなくなったおばあさんを見つめ続けていました。次第におばあさんに伝えたい事や話したい事が心から溢れ、夢の頬を伝いました。
夢は近くの長椅子に腰を掛け、ゆっくりと深く肺に空気を入れました。
夢は自分の周りを見渡しました。ここが待ち合い場所だということは分かるのですが、病院のどの位置に居るのか、何階なのか、おばあさんから視線を離さないようにしていた夢には分かりません。この場所には十脚ほどの長椅子が置かれているのですが、今はまだ誰もいませんでした。広い空間で一人になった夢は、おばあさんのことだけを想いたいと、熱くなった目蓋を閉じました。心の中に映ったのは未来のおばあさんの姿でした。車椅子で買い物をする、何もない日常のおばあさんの姿でした。「またおば様の肉豆腐が食べたいな。そう、ソース焼きうどんもおいしいわ。いつも作ってくれる料理がおいしいの」そこに居たのは元気になったおばあさんでした。
「夢!」
突然聞こえた声に夢が目蓋を開き振り返ると、小走りに向かって来るオッカの姿がありました。心が弱くなっていた今の夢にとって心強い仲間が来てくれたのです。
「どうしたんだい」
まだ状況が分からないオッカは間を置かずにそう言いました。夢はこれまでの事を詳細に順を追って説明しました。オッカは動揺することなく、じっと聞いていました。
「呼吸器の話は大まか分かってたからさ。後は姉さんの気持ちだよ」
オッカの言葉をしっかりと受け取るように、夢は何度も小さく頷きました。どんなに事前に話をしてきたとしても、直前になると気持ちが揺さ振られてしまうのです。
「長く生きたいおば様の気持ちだけは曇らせたくない。でも」
夢はうつむくと、直前まで一緒にいたおばあさんの顔が目の前に浮かび、その一瞬、言葉が出ませんでした。
「でも、悲しそうな、苦しそうな顔を見ると、おば様にとって良くなかったんじゃないかって、胸が痛くなる」
「でも姉さんの生きたい気持ちは嘘じゃないのさ」
オッカがそう言うと、夢は大きな選択をしたおばあさんの心を想いました。人工呼吸器の選択は、きっとどの道を選んだとしても恐怖や不安がおばあさんには見えてしまいます。どの選択をしたとしても笑顔でいてほしい、そう想った夢の中におばあさんの笑顔が現れました。
「うん。オッカさん、私決めたわ」
夢の声から迷いが少し消えていました。
「私、おば様が帰ってきたら笑顔になってくれるように頑張るわ。笑顔の人生になってくれたら、それは良い人生だと思うの」
介護の生活が始まってからの夢は、どうしてこんな想いをさせてしまったのか、どうしてもっと予防してこなかったのか、そうやって自分自身を責めることが増えていました。何度も何度も後悔をし、そのたびに何度も何度も決意をする、人は弱いものなのです。
そんな夢の決意にはいつも、おばあさんへの想いが溢れていました。
何があったとしても、夢の瞳の中にはおばあさんの笑顔があるのです。
手術が始まり一時間が経ちました。
「オッカ、夢」
呼ばれるのを待っていた二人の背中にミゲロが声を掛けました。
「どうだ?」ミゲロは手に持っていたレジ袋からペットボトルのコーヒーを取り出し、夢とオッカに渡しました。
「ありがとうミゲロさん。今まだ終わってないの」
夢が説明しようとした時、ミゲロの向こうからフクとフミが歩いてきました。
「ありがとう、夢。側にいてくれたって聞いたよ」フミは声を掛けながら手に持っていたレジ袋からミネラルウォーターを取り出し、夢とオッカに一本ずつ渡しました。夢は「ありがとう」と頬笑み、長椅子の背もたれにペットボトルを二本立て掛けました。
「ケンジももう来るよ」
フミが壁の時計を見て言いました。
時間に意識が向いた夢は、頑張っているおばあさんの姿を想いました。一人で頑張るその姿に、苦しくて辛くて涙が出そうになりました。「一人じゃない、一人じゃない。帰ってきたおば様を抱きしめたい」胸の中の不安を消そうと夢は何度も心でそう願いました。そして、今すぐにでも会いたくて堪らなくなりました。
「おば様は今頑張っていて、もしかしたらこの手術で気管切開、人工呼吸器を使う事になるかもしれないの」
自然と心が内向きになっていたみんなは、話し出した夢に目をやりました。ミゲロも夢に「おう」と返事をすると、「そうか。まずはおばさんが元気にならねぇとな」と希望を込めて力強く言いました。その言葉にみんなは頬を上げて頷きましたが、夢だけはうつむいたままでした。
「私、皆にあやまらないと」
夢が話し出した瞬間、作業着姿のケンジが現れました。長靴をドンドンドンと言わせ、左手のレジ袋をカチャカチャと鳴らし、騒がしくみんなの所へ歩いてきたのです。
「ばあちゃん大丈夫か?」
ケンジは間を置かず夢にそう聞きました。
「まだ分からないの」
「そうか」
ケンジは長椅子にドンと座り、レジ袋をガチャッと隣に置きました。
「夢、お前はよう頑張っとうからな」
突然ケンジが夢にそう言葉を掛けました。そしてフクも続けて話し出しました。
「なあ夢、さっき謝ろうとしただろ? ばあちゃんの事だろ?」
すると夢はそっとうつむき、口をギュッと閉じてしまいました。
そんな夢を見ていたオッカが話し掛けました。
「自分を責めるんじゃないよ」
「ごめんなさい」
謝る夢の正面にオッカは立ちました。
「あたしはそんなあんたが嫌いなのさ」
オッカの言葉に夢はうつむいたまま、固まってしまいました。
「あたしは夢が大好きなんだ。大好きなあんたを責めるあんたが嫌いだ」
オッカはそっと、夢の肩に手を添えました。夢はそっと、涙の顔を上げました。
話し出したオッカの言葉はとても厳しく、とても優しい声でした。
「あんたは全ての事が出来るのかい? 全ての事が分かるのかい?」
夢は小さく左右に首を振りました。
「そらそうさ。世の中に全てが出来る人なんていないよ」
オッカは優しく夢を見つめました。
「夢はその時、出来る事をしたかい?」
「でも今なら私」
「今のあんたが過去に戻れば出来ただろうね。もっと未来のあんたがここに来て、また今のあんたを否定するように。今の夢が正しいと思ってやり直したい事も、もっと未来の夢が現れてそれを否定するかもしれない」
夢は、言葉が出なくなってしまいました。
「夢。どこまでいっても、変わらないんだよ。一番大事なのは、あんたはどの瞬間も、頑張り続けている事だよ。頑張って来た人を、結果で否定しちゃいけないんだ」
オッカはそう言うと、夢を強く抱きしめました。夢の瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちました。みんなの深い優しさとおばあさんの手術と、色んな気持ちが夢の心から溢れてきました。
「頑張り続ける事は大変なんだ。ハツコが前に言っただろ、一人じゃないって」
「うん」
そんな二人の会話に心を寄せていたフミが「夢」と声を掛けました。夢は少し鼻をすすり、顔を上げました。オッカは夢の横に立ち、背中を優しく撫でました。
「俺達は、夢の事もばあちゃんの事も大好きなんだ。だから一緒に頑張ろうよ。良かった事もダメだった事も分け合って、全部一緒に頑張ろうよ」
フミがいつもの笑顔でそう言うと、ケンジも続けて話しました。
「そうやで。一人で頑張りたい気持ち分かるけど、これじゃあまるでわしら、ばあちゃんの側におらんみたいで寂しいねん」
ケンジの言葉に夢は衝撃を受けました。夢は気付いていなかったのです。おばあさんのために頑張ろうという気持ちが、知らず知らずのうちに色んなことを一人で背負い込み、その結果みんなを遠ざけてしまっていたということに気付いていなかったのです。もちろんみんなに負担を掛けないようにと想っての事なのですが、それが逆におばあさんに何も出来ない寂しさをみんなに抱かせてしまっていたのです。
夢は「うん、うん」とみんなの言葉に頷き、「私、みんなと一緒に介護をしていると思ってた。けど、間違ってみんなをおば様から遠ざけてしまっていたのね。みんながこんなにおば様の事を想ってくれていて、本当に嬉しい」と溢れた気持ちを言葉にしました。
オッカが夢に言いました。
「夢、あんたは間違ってないよ。あんたはいつだって誰かのために、心から頑張ってるんだ。みんなは、そんな夢と一緒に頑張りたいんだよ」
夢はとても温かい気持ちになり、何度も「うん。うん」と頷きました。そして、みんなに向かって話しました。
「おば様へのみんなの想いが嬉しくて。今おば様は本当に頑張っているの。手術が成功して、人工呼吸器を使う事になったら、」夢は「ううん」と顔を横に振りました。
「何があってもおば様と、これからの人生ずっと、みんなと笑顔でいたい」
幼い子供のように真っ直ぐな夢の言葉に、みんなは温かい笑顔で返事をしました。
そんなみんなの優しさが、頑張っているおばあさんの所へ少しずつ届いて行きました。
手術が始まってから四時間が経ちました。昼を過ぎると、誰も居なかった待ち合い場所にも人の姿が見え始めました。長椅子に座り、待機をしている他の家族や関係者はとても落ち着いて見えました。手術は成功するので普段通りでいい、そう気持ちを強く持とうとしているのかもしれません。
そして夢達も、静かに終わるのを待ちました。
「ケンボウ、何を持って来たんだい?」
声を掛けたオッカが見ているのはケンジが持って来たレジ袋でした。ケンジはレジ袋を開いてみんなに見せると、中には瓶のラムネが七、八本入っていました。
「兄貴が持っていけって」
「ミロクさんのご家族の方! ミロクさんのご家族の方!」
突然、夢達を呼ぶ女性の声が響きました。夢達はすぐに立ち上がり、呼んでいる看護師の所へ駆け寄りました。
「はい」夢が返事をすると看護師は案内するように歩き出し、そのまま簡単な状況説明が始まりました。
「おつかれさまです、手術は終わりました。呼吸が戻ったので。ミロクさんは今ICUにいます。面会は少数に出来ますか? それと面会の時間は通常よりも短いので」
どうすればいいのか分からず夢が立ち止まると、ケンジがこの場を仕切りました。
「夢とオッカが行ってくれ。わしらは下で待つ。状況が分かったらオッカが来て、夢はばあちゃんの側におってくれ」
「分かった」
オッカがそう言うと三人は自動ドアを通り、姿は見えなくなりました。
ICUの中はとても静かでした。それぞれ置かれたベッドは卵色のカーテンで区切られていて、一つの部屋のようになっていました。その中の一つのベッドで眠るおばあさんの周りには、見た事もない医療機器がいくつかありました。
夢とオッカはベッドに歩み寄り、そっとおばあさんの手を握りました。夢は目に涙を浮かべ、おばあさんの頭を優しくそっと撫でました。
「よく頑張ったね、おば様。すごいわ。よく頑張った。よく頑張った」
ささやくような夢の声は、涙で微かに揺れていました。
オッカは安心したような笑顔でおばあさんを見つめ、夢の話す言葉と一緒に何度も何度も小さく頷きました。
おばあさんに会えて少し冷静になった夢は、髪や服装が乱れている事に気付きました。夢はおばあさんの目に沢山掛かっていた髪を綺麗に整え始め、オッカはおばあさんの姿勢や患者衣を整え始めました。基本的に病院では、術後の患者の着衣や体は雑に扱われます。もちろん患者自身が動けるのなら問題ないのですが、体が不自由な人やコミュニケーションを取る事が難しい人には、看護師の業務の忙しさや資質により、そういったしわ寄せがくるのです。
「すいません。先生が来られましたので、どなたか来てもらえますか?」
夢とオッカが振り向くと、看護師と担当の医師が立っていました。
「おば様をお願い」
「分かった。そっちも頼んだよ」
夢は「うん」と頷き、部屋を離れて行きました。
夢を見送ったオッカはまたおばあさんの患者衣を整え始めました。とても慣れた手付きで、すぐに綺麗になりました。
「姉さん」
オッカはおばあさんの口元に付いた血を拭い始めました。辛かったのかもしれない、痛かったのかもしれない、そんな想いを癒すように口元の血を綺麗に拭い取りました。オッカの目から、涙がぽろぽろと溢れてきました。
「よく頑張ったね。よく頑張ったね。もう大丈夫だよ。よく頑張った」
そう何度も言葉を掛けながら、今度は優しく撫でるように顔を綺麗に拭いてゆきました。そうしていつものような姿に戻ったおばあさんをオッカはしばらく見ていました。
そんな静かな時が少し過ぎ、オッカはふとおばあさんの左腕に目をやりました。そしてオッカはそっとそのおばあさんの左腕に触れました。少し痩せて細くなった腕、自分の体が変わってゆく事に気付いてゆく姉さんの気持ちはどんなだろう、そう想えば想うほど胸の奥がジワリと痛くなりました。
晴らすことができない悲しい気持ちの中にいると、夢だと分かる足音が近付いて来ました。オッカが顔を上げると、夢の姿が見えました。
「オッカさん。救急病棟に移るみたいなの」
オッカは「分かった」と声を掛けると、夢と一緒におばあさんの着ていた衣服や自分達の荷物をまとめ始めました。
おばあさんが次に移るのは救急病棟です。ICUから出られる状態になったとしても、高度な医療が必要な場合や、一般病棟に移るにはまだ早い段階の場合に入ります。病院によってはHCUと呼んだり、またその環境も様様です。
おばあさんはベッドで眠ったまま、夢とオッカと一緒に救急病棟に入りました。救急病棟には壁や扉がほとんどなく、開放的な空間なので流動的な中の様子がよく見えます。
おばあさんのベッドが入る場所まで来ると、一緒に来た看護師に、ベッド周りの機器の設置が完了するまで待つようにと言われたので、二人は待ち合い場所で待機することにしました。長椅子に腰を掛けた二人は、今後の事を話し始めました。介護の事や制度の事、色色な事を確認しようと話し始めた時、以外に準備が早く終わったのか十五分ほどで看護師が夢達の所へ呼びにやって来ました。
夢達がおばあさんの所へ戻ると、そこは片面がカーテンで閉じられた半個室のような一人部屋になっていました。二人が部屋に着くと、すぐにまた夢が看護師に呼ばれました。
「おば様をお願いね」夢はオッカにそう声を掛けると看護師に付いて行きました。
「よし。姉さんちょっと待ってておくれ」
オッカは持ってきた荷物を適当な場所に置いてゆき、ベッドの位置を少し変え、部屋の中の整理を終えて少し落ち着いた時、オッカはふと周りを見渡しました。病院というのはもっと清潔で整頓された場所なのだとオッカは思っていたのですが、そうではありませんでした。一般病棟に比べ一人の患者が一つの場所に居続ける時間が短いのが救急病棟で、次次変わる状況にそれらを維持し続けることは難しいのかもしれません。オッカはベッドの横の色色な医療用の物品が乗っているワゴンを見てみました。個包装になっているアルコール綿がケースの中に用意されていたのですが、そのケースの底には埃が溜まり、とても衛生的とは言えませんでした。
「オッカさん」
突然聞こえた声で、オッカの中で膨らんだ色色な考えがパッと消えてゆきました。
「話しは終わったのかい?」
まだ麻酔で眠っているおばあさんに寄り添った夢に、オッカが話し掛けました。
「うん。手術は大丈夫みたい。ただ今後、口から食事を取るのが難しくなるから、胃瘻の手術をする事になりそうなの」
夢の言葉が耳に入ると、オッカの視線はスッとおばあさんの寝顔で止まりました。夢達は、誤嚥による肺炎や栄養不足という問題に対しても日頃から懸念していたのです。
「避けては通れない道だね」
実際にその現実に直面すると、心が後ろに引っ張られるような、そんな気持ちに二人はなってしまいました。一歩、一歩、進む病気からどうしてもおばあさんを遠ざけたくなってしまうのです。
「呼吸は大丈夫だったのかい?」
オッカが一番心配していた事でした。
「今回は大丈夫だったけど、ちゃんと人工呼吸器のためだけに準備したいと思うの」
力強く穏やかにそう話した夢は、選択を迫られるような形で人工呼吸器の使用を始めたくないと思っていたのです。ただでさえ苦しい入院の中で、いくら事前に決めていたとはいえ、目が覚めたら切開された喉から管が出ていた、それはあまりにも辛い現実だと夢は想ったのです。
「賛成だね。ミゲロ達にも話しておこうかね。姉さんも目覚めたら話しがしたいね。話したい事がいっぱいあるよ」
「ほんと」
夢とオッカの顔からやっと、安堵の笑みがこぼれました。希望ある未来を感じた二人はしばらく時を忘れ、眠るおばあさんを見つめていました。
「あ!」夢が何かを思い出し、オッカの方に振り向きました。
「胃瘻は別の日になるの。ケアマネさんにも伝えて、介護タクシーを用意しなくちゃ!」
もちろん救急車は救急の為のものなので、あらかじめ予定が決まっている場合は介護タクシー等の業者を利用します。しかし退院はまだ先の話です。夢は安心感でついつい先の事まで考えてしまっていたのです。
「じゃあ夢が下に行ってくれるかい? みんなも聞きたい事いっぱいあるだろうし」
「分かったわ! みんなを安心させてくるわ。おば様をお願いね」
「分かったよ」
そして夢は小走りに部屋を出て行きました。
夢の背中を見送ったオッカはベッドの横の椅子に座りました。優しく丸まったおばあさんの手。オッカはそっと両手で包み込み、おばあさんの顔を見つめました。
すると、おばあさんの目蓋がうっすらと開き、新しい朝が始まったかのように目覚めました。おばあさんの表情は何も変わらず、そのままでした。
「起きた? よく頑張ったね。姉さん」
今日の日は、みんなにとって始まりの日になりました。
道を決めたその先には、見たことのない世界が広がっています。
おばあさんは夢達の愛に包まれ、夢達はおばあさんの存在に包まれ歩いて行くのです。
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