十三
「おば様、プリンよ!」
夢は毎日おばあさんに会いに病院に来ています。術後の状態も落ち着いたので病院に紹介状を書いてもらい、今居る病院へ転院してきたのです。クイナに少し近くなり、おばあさんも知る場所なのでみんなはとても喜びました。また、おばあさんを担当する泌尿器科は病棟の七階にあるので、外の光がそのまま入ってきてとても開放的でした。
夢はおばあさんに笑みを向けると、ベッドの左隣にある小さな冷蔵庫を開けました。病院には一つのベッドにテレビと冷蔵庫が一つずつ備え付けられています。液晶テレビはアームスタンドに固定されていて、一定の範囲であれば伸ばしたり角度を変えたりと自由に動かす事が出来ます。夢が冷蔵庫の中を覗くと杏仁豆腐とヨーグルトがありました。転院してから半月が経ち、いつの間にかここでの習慣が出来たみんなが訪ねて来る度に手土産を持って来るのです。
「あいおうえ」
「どういたしまして! お昼の後で食べましょ!」
手を合わせたおばあさんの「ありがとうね」の言葉に、夢は笑顔で返事をしました。会話には文字盤を使うこともあるのですが、ありがとうを対面で伝えたいおばあさんは言葉や仕草で表します。仕草で表す時は手を合わせて「ありがとう」を伝えるのです。
いつものように夢がベッドの周りの整理をしていると、病院の制服を着た男性が病室にやって来ました。ここは四人部屋ですが、今はおばあさんしかいないので誰に会いに来たのかはすぐに分かります。
「こんにちは。ミロクさん、僕の事覚えていますか?」
おばあさんはニコリと笑って会釈をしました。夢も「おはようございます」と挨拶をし、同じように笑顔で会釈をしました。
病室に来た男性はリハビリテーション専門のスタッフで、入院中に低下した患者の運動機能や言語等の機能を回復したり、関節の拘縮を予防したり、社会復帰や自立への支援等、身体に関わる様様なサポートを患者と家族と共に行います。
「すいません、この時間で大丈夫ですか?」
スタッフがそう声を掛けると、夢はおばあさんに目をやりました。いつもどおりおばあさんは笑顔で頷いたので夢が代わりに答えました。
「はい。お昼までまだ時間があるのでお願いします」
夢がそう言うと、スタッフは手に持っているファイルと文字盤をサイドテーブルに置き、ベッドのリモコンを操作し始めました。
「足を動かしますね。昨日少ししか出来なかった座る練習しましょうか」
スタッフがリモコンのボタンを押すと、上がっていたおばあさんの膝は下りてゆき、ベッドの足の部分が水平になると、おばあさんは足を伸ばして座った状態になりました。
「足をベッドの横から下ろしますよ」
そう声を掛けたスタッフは、とても上手におばあさんの足をベッドの横から下ろしました。これでおばあさんはベッドに腰を掛ける姿勢になれたので、背中が開放されました。おばあさんの体を支えるスタッフも同じようにベッドに座りました。おばあさんのように長時間ベッドの上に居ると常に背中は圧迫され、正常な呼吸がしづらくなってしまいます。様様な姿勢にチャレンジする事で、呼吸のリハビリや床擦れの予防を行っているのです。そもそも人の体の健康は、歩く事や動く事を前提として維持できるようにできているのです。人の体はどこにいても重力というものに大きく依存しています。満腹状態で逆立ちをすると戻してしまうのと同様、重力に合った体の構造をしているのです。つまり寝たきりになってしまうと、人の体の正常な機能に悪い影響を与えてしまうのです。ただ、それは簡単に克服出来るものではありません。だからこそ夢達はとても重要な事だと感じ、病院でのリハビリを見学して勉強しているのです。そして、おばあさんとコミュニケーションを取ることができる、まさに今がとても大事な時期なのです。
次は関節のリハビリが始まりました。水平にしたベッドで横になったおばあさんの手や足や首等の様様な関節を、ゆっくりと細かく動かしてゆきました。
「おば様、眠い?」
おばあさんはウトウトしながら夢の言葉に笑顔で返事をしました。その表情は本当に気持ち良さそうで、「おば様眠ってしまいそう」と呟いた夢の心は幸せな気持ちで溢れていました。
関節を一通り動かし終えるとスタッフはおばあさんの体を真っ直ぐに戻し、「ミロクさん、終わりましたよ。じゃあ次にいきましょうか」と伝え、リモコンでベッドの頭を上げて上体を起こしました。おばあさんをベッドに座る姿勢に戻すと、スタッフはサイドテーブルに置いた文字盤を手に取りました。文字盤にはひらがなの五十音や記号や数字の他に、はい、いいえ、痛い、背中、右、喉が渇いた、というような言葉や、様様な体勢の絵が載っています。もちろんコミュニケーションを取る方法は文字盤だけでなく他にも沢山存在します。例えば障害者の視線を読み取り、その視線をマウスとして機能させてコミュニケーションを取るコンピューターといったものも製品化されました。それらの成果はALSだけでなく、悩みを抱えた多くの人達を救う事になるのです。沢山の人達が、誰かのために頑張っているのです。
「今日来てくれている女性の名前は分かりますか?」
スタッフの質問に、おばあさんは慣れたように「ゆ、め」と文字盤の文字を指差しました。日常の中には決してない文字盤を通して伝わる言葉は、他の何よりも夢の胸の奥に温かな気持ちを届けてくれました。
そうやって今日も色色な質問に答えていったおばあさん。その反応も色色で、おばあさんや夢達にとっていつも楽しい時間になるのです。
「じゃあ、今度来てくれるお孫さんですか? お孫さんの名前はどうでしょう?」
スタッフが質問すると、おばあさんは文字盤の上の文字を指でたどり始めました。集中しているからなのかおばあさんの開いた口から、言葉ではない力んだような微かな声がもれました。夢はそんな一生懸命なおばあさんの表情や仕草が大好きです。
しかし、少し時間が経ったのですが、おばあさんの指はまだ文字盤の上の文字を探していました。頭をかしげたおばあさんは笑いながら「夢がやっておくれ」と伝えるように夢に目をやると、文字盤を夢に渡そうとしました。
「まだおば様の番よ!」
夢は頬を上げ、なるべく明るく話しました。
「じゃあヒントね、おば様! 一文字目は、け!」
おばあさんはまた文字を探し始めました。文字盤の上をあっちこっちと指でたどり、最後に「ん」を指差しました。
「ん」
夢がそう言うと、おばあさんは文字盤の上を目でたどり「し」を指差しました。
「正解!」
そう声を上げた夢はおばあさんと笑い合いました。
孫の名前を思い出せなかった時、おばあさんは笑みを見せます。思い出せなかった事は今日が初めてではないのですが、いつも笑みを見せます。大切な人の名前を思い出せない事がおばあさんにとってどれほどショックだったか、笑って紛らわすおばあさんの顔を見ると、夢は胸の奥がとても痛くなるのです。何とかしたいと焦る気持ちをその胸の中で抑え、夢も一緒に笑いました。
リハビリを終えたスタッフが病室を出ると、丁度昼食の時間になりました。病院から出る食事もあるのですが、おばあさんの好きな食べ物をみんなが持って来るので、栄養を考えながら両方バランスよく摂るようにしています。
「おば様、ベッドの頭少しだけ起こすわ」
リモコンを手に取った夢は、ベッドの上体の角度を調節して座った状態にし、サイドテーブルをおばあさんの前まで移動させました。
「見ておば様!」
夢は持って来ていたリュックサックの中から、なでしこの花の模様が綺麗な巾着を取り出しました。夢の巾着が目に入った瞬間、おばあさんは笑顔になりました。
「気付いたおば様! シルバーカーと同じなの!」
すると突然、病室の外から森のくまさんのメロディーが聴こえてきました。
「待ってて!」
夢はそう言うと巾着をサイドテーブルに置いて小走りに部屋を出て行きました。おばあさんは夢の後ろ姿を見送ると、その巾着にそっと触れました。手の親指以外は同時に動き、指は軽く握ったように曲がっているので少しぎこちないのですが、物に対する愛情が伝わってきます。この巾着は、夢が作ってくれたシルバーカーと同じ模様の同じ色です。この巾着に触れていると、夢の綺麗な心に触れているような気持ちがしました。
「見ておば様!」
手にお盆を持った夢が、慎重に早歩きをしながら部屋に戻ってきました。
「今日はそぼろと餡が掛かったお豆腐のお料理だわ!」
夢はそう言いながらお盆をサイドテーブルの上に置きました。おばあさんは夢に笑顔を向け、手を合わせて「ありがとう」と言いました。夢も同じように手を合わせ「どういたしまして」と頬を上げました。
「ねぇおば様、この巾着もう一つあるの」
夢はリュックサックから同じ巾着をもう一つ取り出しました。おばあさんは口を少し開けたまま、「へぇー」と何度も頷きました。
「貴重品入れとかお箸とか歯ブラシとか、何かに使えるかなと思って持ってきたの。おば様に会いに来る時私が何か入れて使うのもいいかもしれないわ!」
するとおばあさんは視線と手で「文字盤を取ってほしい」と夢に伝えました。そして夢から文字盤を受け取ると、おばあさんは指をたどらせ「ほ、し、い」と言いました。
「ほ、し、い、ほしい? ホント!」
夢が喜びそう言うと、おばあさんは笑顔で頷きました。
「嬉しいわ! 受け取ってくれたら嬉しいなって。実は私が作ったの」
またおばあさんは笑顔で頷きました。
「分かるの? 嬉しいわ」
そして夢は隠しきれない笑顔のまま「良かった」と声を零すと、巾着を開いて食事の用意を始めました。
「夢来とったやろ? 飯食うたんか?」
恥じらいのない声が聞こえ、振り向いたおばあさんは笑顔になりました。夢が帰って二時間ほどが経った頃でした。ケンジは二重にしたレジ袋を椅子の上にガチャンと置き、もう一方の椅子に「ヨイショッ」と腰を掛けました。ケンジは今日も作業着姿に長靴です。休みの日以外は家に帰るまでこの服装なので、むしろこちらの方がみんなにとっては普通なのです。椅子に座ったケンジは、作業着の胸ポケットから携帯電話を取り出しました。
「ばあちゃん見て」
ケンジは座っていた椅子をガガガッとベッドに引き寄せ、おばあさんに携帯電話で撮った動画を嬉しそうに見せました。
「ほら。リッキーがミーナいじめよんねん。お母さん取られる思てんのかな?」
画面には、楽しそうにはしゃぐ二人の子供が映っていました。子供達と会えるのは退院してからだろうとおばあさんは思っていたので、驚きと同時に幸せな気持ちが体中に広がって行きました。ケンジは他にも写真や動画を沢山撮っていて、寝顔や泣き顔、笑った顔やあくびの顔、そんな普段の色色な姿一つずつを説明しながらおばあさんと見てゆきました。
「また撮ってくるわな。退院したら子供連れて行くから! あそこは夢もおるしハツエが当てにしとるわ」
ケンジがそう言いながらニヤニヤ笑うと、おばあさんも笑みを浮かべ頷きました。
ケンジは携帯電話を胸ポケットに戻し「よし」と声を出して立ち上がると、持ってきたレジ袋を手に取り、中から瓶のジュースを取り出して冷蔵庫に入れてゆきました。
「ラムネにアップルにメロンや。飲むやろばあちゃん?」
「ありあろう」おばあさんは笑顔で手を合わせ「ありがとう」と言いました。
ケンジは毎回瓶のジュースを持って来るのですが、冷蔵庫に入るかどうか考えないで持って来るのでみんなで早めに飲み切るようにしています。この事はみんなのちょっとした話のネタになっているのです。
「じゃあ行くか!」
ケンジがそう声を掛けると、おばあさんは笑みを浮かべて頷き、手を合わせました。
「ちょっとおってや」
小走りに部屋を出たケンジはナースステーションに向かい、看護師と少し話すと、またすぐに戻ってきました。そして病室の入り口に常備されている折り畳んだ車椅子を押してきました。おばあさんはその間、ベッドの上で移動できる所まで自力で体をずらしてゆきました。車椅子の扱いに慣れてきていたケンジは折り畳まれていた車椅子を広げ、おばあさんのベッドの横でブレーキを掛けて固定しました。
「ばあちゃんいけるか?」
おばあさんは右手を少し上げて、合図を送りました。ケンジはおばあさんの膝下と腰に手を回し、姿勢を整えると「いくで?」と声を掛けました。その合図と共にケンジはおばあさんを少し抱え上げ、車椅子にゆっくりと乗せました。問題なく車椅子に落ち着くと、おばあさんはケンジに手を合わせ「ありがとう」と嬉しそうに言葉を掛けました。笑みを浮かべたケンジが「おう」と返事をすると、ベッドの周りを見渡しました。
「あれ、電話と財布は?」
ケンジがそう聞くと、おばあさんはサイドテーブルの上の巾着に手を伸ばしました。それを見たケンジが巾着を取って差し出すと、おばあさんは手のひらでそっと握って受け取り、自分の膝の上に乗せました。
「それに入ってんの? 夢が持ってきたん?」
おばあさんは嬉しそうに頷くと、両手で裁縫をするような仕草をしました。ケンジはそれをしばらく眺め、「あー」と頷き理解しました。
「夢が作った?」
伝わった事が嬉しくて、おばあさんは何度も頷きました。
「まあ夢やったら出来るか。綺麗な花柄やな」
おばあさんは嬉しそうに巾着を眺め、小さく何度も頷きました。そして巾着に優しく触れ、落ちないように大事に膝の上で支えました。
「じゃあ持っててな、ばあちゃん。行くで!」
そして、今日もいつものようにおばあさんとケンジの散歩が始まりました。
ケンジが押す車椅子がゆっくりと動き出すと、おばあさんの顔にフワッと風圧が届きました。移動の風を感じる事が出来るこの時間は、おばあさんにとってとても刺激的です。
病室を出た二人はナースステーションの前を通ったのですが、ケンジは大げさにゆっくりと移動しました。おばあさんが入院して間もない頃、調子に乗ったケンジが車椅子のスピードを少し出し過ぎたせいで新人の看護師にやんわり怒られたからです。子供がされる様な注意をされて恥ずかしかったケンジはその日以来、ナースステーションの前を通るとついつい緊張してしまうのです。そうして七階の廊下を少し進むと大きな窓が見えてきました。二人の散歩コースで、まず始めに来る場所です。
「こっからの眺め、ほんま良えなぁ。何かぼーっとしてまうわ」
穏やかに話したケンジに、おばあさんは静かに頷きました。そんな二人が見つめる先にはクイナの町にはない都会の街並が広がっていて、中央にはとても広い道路が南へ真っ直ぐ続いています。その道路を中心に街は分かれ、縦にも横にもアーケードが設けられています。夏にはここへ沢山の人達が集まって、大きな祭りが行われます。広い道路の中央には線路が設置され、それぞれの人生を生きる沢山の人たちが同じ路面電車に乗って今日もどこかへ向かって行きます。さらに広い道路のずっと先には山があり、自然の緑も眺めることができます。そして、その山と空のまだ向こうにクイナの丘があるのです。
「今度行こか祭り。でも中央は人が多いから空いとうとこな」
おばあさんは笑いながら頷くと、ケンジに手を合わせて「ありがとう」と言いました。
「次の夏が楽しみやな。さ、買い物行くか」
おばあさんの頷きを合図に、二人はエレベーターに向かいました。
病院の周りには幾つものマンションが立ち並んでいます。病院前の建物の一階にはショッピングセンターがあり、フードコートやスーパーや様様な店が並んでいて、自由に買い物や飲食が楽しめます。
「ばあちゃん、どこ行こっか?」
ショッピングセンターに入ると、ケンジが中を見渡しながらそう聞きました。おばあさんは少し考え、道の奥の方を手で差しました。ケンジは「分かった」と返事し、車椅子を押してさらに道の奥へと進んで行きました。そのままフードコートを抜けると、そこには色色な店が並んでいました。それぞれの店を眺めながら少し歩くと、おばあさんは左側に現れた店を手で差しました。
「服?」
ケンジがそう聞くと、おばあさんは店内を見回しながら「うん」と頷きました。
ケンジはふとおばあさんに目をやりました。ケンジの瞳に映ったのは、いつも通りのおばあさんの姿でした。変わらない、そんな姿を見れたケンジはとても嬉しくなりました。おばあさんとの出会いがあったからこそ、あたりまえというものは、何ものにも代え難い存在なのだという事に気付くことが出来ました。なくなれば、見えなくなれば、そこにポッカリと穴が空く、それは二度と埋めることの出来ない穴です。そのあたりまえがなくなった時に初めて、その存在の大きさに人は気付くのです。だからこそ限られた時間の中で、今この瞬間を精一杯生きているのです。失う事を恐れ、存在するこの瞬間に喜びを感じ生きているのです。
「おし! 見て回るぞ! どこでも行くぞ!」
声だけでも分かるほどにケンジの様子が変わったので、おばあさんは可笑しくて笑ってしまいました。でも、そんなケンジの元気な声に、おばあさんはいつも勇気をもらっているのです。
「何か着たいのあるか?」
楽しく話しながら店内を見渡していたケンジが突然「アッ」と声を漏らすと、車椅子を置いて壁の棚に掛かっている服に駆け寄りました。そしてそれを手に取ると、またすぐに戻って来ました。おばあさんはケンジの手にある服に目をやりました。その瞬間、おばあさんはケンジが何を持ってきたのか理解し、すぐに手を振り拒否しました。
「え、あかん? 前住んどったとこではみんな着とったで?」
ケンジが嬉しそうに持ってきたのは、かなり個性の強い柄がデザインされた服でした。落ち着いた服装を好むおばあさんには、違った意味での勇気が必要になってきます。
「そうかぁ。じゃあ、えっと」
ケンジはそう言うと、また何か勧めようと周りを見渡しました。
「おれ、おれ」
するとおばあさんは慌てて「これ、これ」と声を掛け、すぐにでも走り出しそうなケンジを止めると膝の上の巾着を手で差しました。
「その模様の服?」
ケンジがそう聞くと、おばあさんは頭を左右に振り、また巾着を手で差しました。
「あ、夢?」
おばあさんは喜びながら「そう、そう」と何度も頷きました。
「そうか夢か。でもあいつ漫画の服ばっかじゃなかったか?」
ケンジがニヤニヤしながらそう言うと、同じイメージを持っていた事におばあさんは思わず笑い出してしまいました。夢はよく、キャラクターやアーティスティックな絵や和の模様といった様様なジャンルの絵がデザインされたシャツを着ていたのです。
二人はそんな夢のイメージに合ったデザインの服を探そうと、店内を見て回ることにしました。
「なんかネズミのやつが多なかったかな?」
ふと思い出したケンジがそう聞くと、おばあさんは「うんうん」と大きく頷きました。そして二人はそれらしいデザインのシャツが並んでいるコーナーへ向かいました。
「なんか夢が着そうなんばっかやな」
ケンジが棚のシャツを眺めながらそう言うと、おばあさんは笑みを向けて頷きました。
どれが似合うのか、服を見ながらイメージを膨らませていたおばあさんの前に、まだあどけない頃の夢の姿が現れました。アーティスティックなネズミがデザインされたTシャツと愛らしい夢、やっぱり夢にピッタリだとおばあさんは頬を浮かせました。
ケンジはハンガーラックから一枚一枚Tシャツを取り、おばあさんと見てゆきました。
「夢は何でも似合いそうやな」
シャツの色も絵の構図も様様あるので二人は少し迷っているのですが、とても楽しい気持ちに満たされていました。
「ばあちゃんこれは?」
十枚ほど見た後、ケンジが広げて見せたのはねずみ色のTシャツでした。おばあさんは、同意する気持ちと良い服を見つけた嬉しさをいっぱい表そうと何度も頷きました。濃い絵の具で雑に描いたようなネズミのキャラクターがシャツの真ん中で手を広げて笑っていて、全体の色はねずみ色、袖口とネックラインは黒色でデザインされています。
「背中の絵見て。後ろ向きのネズミやで」
夢の事を想いながら話す二人は、ふわふわとしていて、とても幸せなのです。
おばあさんもケンジもこのTシャツをとても気に入りました。Tシャツをレジに持っていく途中、ケンジが自分の財布を取り出そうとしたのでおばあさんは手で遮り、自分で払いたい想いを伝えました。
「じゃあ今度はわしがばあちゃんにプレゼントするわ」
おばあさんは喜んで「あの服以外で」とお願いしました。ケンジは嬉しそうに残念がりました。
「なあばあちゃん」
帰り道、車椅子を押しながらケンジはポツリと声を掛けました。
「胃瘻の手術、頑張ってな」
ケンジは悔しい気持ちを隠しながら、何度も頷くおばあさんの後ろ姿を見つめていました。代われるものなら代わってあげたい。ケンジは心からそう想いました。
ゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロ。道を転がるタイヤの振動がおばあさんとケンジに伝わります。おばあさんは車椅子を押してくれるケンジの存在を感じながら揺られています。ケンジはかけがえのないおばあさんの存在を感じながら車椅子を押しています。同じ速度で進み、同じ風景を眺め、同じ風に吹かれ、お互いを想い合い歩いています。夢達は、共に並んで歩いていた時以上に心が一つになれました。
もしかしたら、お腹に子供がおった時のハツエはこんな気持ちやったんかな。ケンジはそんなふうに想いました。
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