十一

 重く唸るような機械の音、リズムに乗って噴射する水の音、工場内に響く男性の声、只今三ツ星鉱泉所はジュースを製造中です。

「親父、アップルの用意できたわ」

 工場内のロフトの中で作業をしていたカッチが顔を出し、一階で瓶の洗浄作業をしているジフィに声を掛けました。ジフィは手元から視線を外すことなく「ああ」とだけ返事をしました。ロフトから出ていたカッチの顔がスッと引っ込むと、梯子から勢いよく下りてきました。

「親父、ケンボウは行った?」

「トイレおるわ」

 すぐさまカッチは工場の奥にあるトイレへ向かって走り出しました。

「おいケンボウ!」

 ガチャッ。カッチはノックもせずにトイレのドアを開けました。

「何しよんねん!」

 そう声を上げて振り向いたケンジは、和式の便器にしゃがみ込むところでした。それでもカッチはドアを閉めず、逆に怒り出しました。

「お前まだおったんか! もう生まれるんちゃうんか!」

 するとケンジは「これが終わったら行く」と言い、カッチにドアを閉めさせました。カッチは「早よ行けよ」とドアに向かって声を投げ、ジフィの所へ戻って行きました。


 ジーカチャッ、ジーカチャッ、ジーカチャッ。金属の音が工場の中で響きます。

 ジーカチャッ、ジーカチャッ、ジーカチャッ。ここにある大型の機械は創業時から稼働しています。タイプは古いのですが、丁寧なメンテナンスのおかげで今でも問題なく動いていて、寧ろその機械の古さと瓶のジュースが子供の頃を懐古させると町のみんなに人気なのです。そして工場内にはポータブルラジオの放送が流れていて、音符に合わせてリズムよく作業は進んでゆきます。

 カッチはベルトコンベアのスイッチに手を掛け、流れ出した新しい瓶にジュースを充填しようとした時でした。

「電話!」

 事務所の近くで作業をしていたジフィがそう声を上げました。それを聞いたカッチが慌てて事務所に入ると、またほんの数秒で出てきました。

「産まれた! おいケンボウ! 産まれた!」

 カッチはさらに慌てて声を上げながらトイレに駆け込むと、中で手を洗っていたケンジはそのまま走って工場を後にしました。


 長男のリッキーは出生時三七三〇グラム、分娩時間も短く安産でした。今日生まれた女の子も三四五〇グラムあったのですが、思っていた以上に早く出生できたので、マイペースなケンジは立ち会い出産に遅刻しました。ただ、今のハツエにとってそれはもうどっちでもいい事なのです。よく頑張った赤ちゃんの顔、見え隠れする手や足や後頭部、横顔、私の全てが同じ世界に生まれてきてくれた、ハツエの心はそんな幸せな気持ちでいっぱいなのです。

「ばあちゃん! 夢!」

 二人が振り向くと、息を切らして歩いてくるケンジがいました。数百メートル走ってきたので半袖から見える焼けた肌は汗で光っていました。分娩室の前で待機していたおばあさんは車椅子に座っていて、夢は横に立っていました。二人は、デリカシーのない人を見るような笑みをケンジに向けました。夢が「もう少し待ってって、看護師さんが。で?」と意地悪っぽい笑みを向けてそう聞くと、ケンジはニカッと笑いごまかしました。

「赤ちゃんの声聞こえた?」

 分娩室の方に顔を向けたケンジはソワソワとしていて表情が安定していません。

「ハツエも、赤ん坊も。二人ともよく頑張ったよ」

 おばあさんの声はとても温かく、色んな想いで溢れていました。

「強いやろ。ばあちゃんみたいやろ」

 顎を上げたケンジが自慢げに言うので、思わずおばあさんは「フフフ」と笑いました。

 二人の様子を頬笑みながら眺めていた夢が分娩室の方へ顔を向けました。すると、分娩室のドアがガララッと開き、中から女性の看護師が出てきました。ケンジと目が合った看護師は、皆に向かって軽く会釈しました。

「ケンジさんですか?」

 看護師に名前を呼ばれ、自然と背筋が伸びたケンジは「ハイ」と返事をしました。

「おめでとうございます。ハツエさんが待っています。どうぞ」

 頬を上げた看護師は軽く会釈をすると部屋を離れて行きました。

「じゃあ、ちょっと行ってくるわ」

 二人に声を掛けたケンジはソワソワとしたまま部屋へ駆け込んで行きました。

 おばあさんと夢は顔を合わせると自然と笑みがこぼれました。


 分娩室に入ったケンジはそっとドアを閉めました。

「抱っこしてあげて」

「ばあちゃんがよう頑張ったなって」

 ケンジはそう伝えると、ベッドの上の赤ちゃんをそっと抱きました。弱く重い命を両腕に受けた瞬間、生まれてきてくれた喜びが電気のように体中を走りました。それはリッキーの時と同じ喜びでした。この子のためにどう生きようか、世界が変わるほどの勇気が芽生えた瞬間でした。ケンジは体を揺り籠のように揺らし、赤ちゃんに微笑みかけました。

「わかるかミーナ。おとうさんやで」

 ハツエは嬉しそうにクスクスと笑いました。

 ミーナを包んでいる温かな布の腹部の辺りがプルプルとしています。可愛く膨らんだその場所には、二人を繋いでいたへその緒があります。それは、この宇宙で唯一無二、母と子の間にしか存在しない命の絆です。そして、生まれた命の源は父と母の命そのものなのです。

 リッキーとミーナはこれからクイナの町で育ってゆきます。

 クイナの町は思います。例えどんな環境であったとしても、例えどんな事が起きたとしても、自分自身に言葉を掛けることが出来る場所を見つけてほしい。心をゼロにし、自分に語り問い、心の中の誰かが答えてくれる、そんな場所を見つけてほしい。

 クイナの町は思います。それは想い出の場所なのか、愛するものの側なのか、愛するものとの記憶の中なのか、皆それぞれ違うけれど、そんな場所を見つけてほしい。

 リッキーとミーナはこれからクイナの町で育ってゆきます。

 一番最初に愛してくれて、一番最初に愛した人と、永遠に。


 ケンジが分娩室から出てきました。

「怒ってたろ?」

 そこに居たのはニヤニヤと笑うオッカでした。ケンジが分娩室に入った後に来たようで、どうやら遅刻した事を夢から聞いたのでしょう、そんな笑みを浮かべていました。同じように頬を上げたケンジは「怒ってへんわ」と小声で言うと、改めた表情で三人の前に立ちました。

「どうしたんだい? 行かないのかい?」

 オッカは笑顔のままそう尋ねました。

「三人とも入ってくれへんか」

 ケンジの言葉に皆は驚いてしまいました。三人は去年のようにハツエの出産を見守り帰るつもりでいたのです。どうしたらいいのか分からずに戸惑っていると、ケンジが笑顔で言いました。

「大丈夫。先生には言っといたから。これはハツエのお願いやねん」

 顔を見合わせた三人は、驚きと嬉しさが混ざったような表情になり、体中に緊張が走るのを感じました。ケンジが分娩室のドアを開けると、夢はおばあさんが座る車椅子を押して中に入り、その後からオッカが続きました。最後に入ったケンジはそっとドアを閉めました。部屋に入った一人一人はハツエと目が合うと、途端に照れ出し頬を上げました。そんなみんなの笑顔に触れたハツエは、自然と笑みを浮かべました。出産で疲れていないか心配していたオッカでしたが、みんなを見つめるハツエの笑顔が瞳に映った瞬間、今日会わせたい理由が何かあるんだと気付いたのです。

 オッカはハツエの側に歩み寄ると、ささやくような声で言葉を掛けました。

「ハツコ。おつかれさま」

 優しく響いた幼馴染みの声に、ハツエは瞳が熱くなるのを感じました。そして、頬に温かい感触が流れ、心が光で包まれたような、そんな安心感が広がったのです。

 ハツエはオッカに「子供を見て」と目で伝え、「抱っこしてあげて」と言いました。オッカはハツエの言葉に小さく頷くと、顔をクシャクシャ動かすミーナを抱き寄せました。腕の中の赤ちゃんは、夢中で指を舐めています。この世界に全てをゆだね生まれてきた、そんな重さをオッカは感じました。

「おばさんにもお願いね」

 小さく何度も頷いたオッカは、ミーナの横顔を見ていたおばあさんの腕の中へ、赤ちゃんをそっと寄せました。おばあさんは心配そうな表情でハツエに聞きました。

「大丈夫かい? ここは家族だけが入れるんじゃないのかい?」

「だから入ってもらったの」

 ハツエの真っ直ぐな言葉に、おばあさんの表情はそのまま止まってしまいました。

「おばさんは家族なのさ。何があっても。頑張るからさ。おばさんは一人じゃないから。だから一緒に頑張ろうね」ハツエは心強くそう話そうと決めていたのですが、その声には涙が少し混ざっていました。ハツエの心はおばあさんへの想いで溢れたのです。

 ハツエはおばあさんが病気だと知った日から、今日までずっと考えてきました。安心してほしい、笑ってほしい、元気になってほしい、私達が居るから、そんな気持ちをどうやって伝えたらいいのかずっと考えてきました。

 そして思ったのです。今日がその時なのだと。

 おばあさんの手元にあったホワイトボードにポトポトと涙がこぼれ落ちました。おばあさんは何度も頷き、こぼれ落ちた涙を親指で何度もさすりました。側にいたオッカの嬉しそうな笑顔にも、同じ気持ちが溢れていました。そして、涙が伝う唇をギュッと閉じた夢の心にも「一人じゃない」そのハツエの言葉が伝わりました。

 おばあさんはオッカに視線を向けて「ありがとう」と声を掛けました。オッカはおばあさんに笑みを向けると、ミーナをそっと自分の腕の中へ抱き寄せました。

「オッカ」

 ハツエが優しく呼び掛けると、オッカは顔を上げました。ハツエはミーナに目をやり言いました。

「その子はミーナっていうんだ」

「可愛い」思わずそう声を上げて話を止めてしまった夢は「ルンルも素敵だけどミーナも素敵だわ!」と誤魔化そうとしました。その名をもう聞くことはないと思っていたおばあさんは目を細め、眉間にしわを寄せました。そして諦めたようにうつむくと、「ほんとにもう」とポツリと呟きました。

「何? ルンルって?」経緯を知らないハツエにオッカがそっと「姉さんが考えたこの子の名だよ」と耳打ちしました。

「アンタは黙っときな!」おばあさんは、夢は良くてもオッカは許しませんでした。

 オッカは笑顔になるのを堪えながら「ごめん」と謝り、楽しそうに目を逸らしました。

「なんか真剣な話するつもりだったのにさ、笑っちゃうのさ、あんた達はいっつも」

 まるで町で偶然会った時のように、何も考えずに話しているみんなの姿が妙に可笑しくて、ハツエは思わず今の状況を忘れ笑ってしまいました。

「ねぇ、オッカ」

 心がほころんだハツエはいつもの声で話し掛けました。

 顔を向けたオッカはさっきとは違う、いつもの笑顔のオッカでした。

「オッカ。リッキーもこの子もアンタの子だよ」

 オッカは何も言わず笑顔のまま、ハツエを見つめました。

「クイナの町に、この子達のお母さんは二人なんだ」

 それは、オッカを想い向けられた大切な言葉でした。その想いに気付いたオッカの心にハツエの優しさが少しずつ広がってゆきました。

「なんだい急に」

 オッカは涙の声になり、頬にそっと優しい気持ちが溢れ出しました。

 そばに居たおばあさんも夢もケンジも、そっと二人の世界に心を寄せました。

「もしこの子達が悪さなんてしたら、怒ってあげて」

「うん。わかった」

「頑張ったら、褒めてあげて」

「うん。わかった」

「ありがとね。オッカ」

「バカ。あたしのセリフだよ」

 そして、幼馴染みの二人は、いつものように頬笑み合ったのです。


 オッカは抱いていたミーナをそっとベッドに戻すと、少しの間、無垢な表情に視線を寄せました。小さな体が冷えないようにと、ミーナを包んでいた布を綺麗に整えました。

「二人とも、ゆっくり休むんだよ」

 オッカの言葉にハツエは笑顔で頷きました。

「そろそろ行こか。時間来そうやし」

 四人のそばで待っていたケンジはそう言うと、部屋の出口へ向かいました。

「あんた居たのかい!」

 オッカの驚いた声が部屋に響くと、ケンジの存在を忘れていたみんなは思わず声を上げて笑ってしまいました。

「早く帰って! 笑うとお腹痛いんだから!」

 顔を上げて笑うハツエは楽しそうに怒りました。



 仕事の引き継ぎがなかなか終わりません。悪い意味で縦割りではない会社の体質の付けがケンシにきているのです。ただ、仕事を辞められる日が決まったあの瞬間、喜びでフワリと体が軽くなったのを今でも鮮明に覚えています。まさに肩の荷が下りた、そんな感じでした。そしてその日の帰り道、ふと若い頃の自分を思い出しました。音楽で成功して世界的に有名なタレントと結婚する、そう強く信じていた頃の自分です。しかし、その赤く燃える炎のような想いは、種火のような情熱しか持たないメンバーによって見事に下火になってしまったのです。そしてとうとうそのバンドから脱退する事になり、その帰り道で感じた、まるで自分の背に羽が生えたような体の軽さ、それが今の自分と同じだと気付いたのです。

「やっとばあちゃんの側に行ける。喜んでくれるかな。早く会いたい」

 難病だと知った日から、ずっとケンシの心は苦しかったのです。側に居られる距離ではない、そんな場所に自分が居るという事が苦しかったのです。

「分かった。スーパー寄るからまた連絡するわ!」

 夢からの電話でした。電話で今日の事を報告し、後の段取りは夢達に任せる事にしました。そしておばあさんとも少し話をしました。声を聞けて安心したのですが、ケンシは最近おばあさんの言葉を聞き取ることが難しくなってきていました。少しずつ変わって行く状況に怖さも感じていたのです。ただ、そばに居てくれるのはクイナの町に住む夢です。ケンシは夢を知っています。深い悲しみも生きる喜びも知る夢は、おばあさんにとって心強い人なんだとケンシは知っています。

「夢がいてくれてよかった」

 ケンシは夕食を買いに商店街へと走り出しました。

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