「どうだったの?」

 オッカが唐突にそう話し出しました。みんながミロクおばあさんの家に集まり、卓袱台の上に昼食が用意され、「いただきます」と手を合わせた直後の事でした。オッカは先日喫茶店で話した事の結果が早く知りたかったのです。ケンジとフミがオッカの方に顔を向け、フクも箸を止めて視線を上げました。

 おばあさんは箸を手に取ると、ケンシとのやり取りを話しました。

「朝は早く起きるからこの広間でいいって。このままでいいって言ってたよ」

「ほんとかい。良かったよ。ならこのままにしとこうかね」

 笑みを浮かべながら頷いたオッカは仕切り直して白飯の茶碗を手に持ちました。

「そういや今日お医者さんに診てもらったんだろ? どうだったの?」

 オッカは箸先を味噌汁に浸けたまま、おばあさんと夢にそう尋ねました。

「ベッドのレンタルをする事になったの。ヘルパーさん看護師さんも少しずつ入るわ」

「なんだ、良かったじゃないのさ。姉さん、任せるとこは任せないと」

 オッカの大きく陽気な声に、フクも「そうそう」と大げさに頷きました。心配そうな顔のフミがおばあさんを元気付けようと言葉を掛けました。

「ばあちゃん最近外に出れないだろ。顔を見れないのは寂しいけどさ、今のままでも心配なんだよ。俺達でも何でも手伝うからさ、元気出してよ」

 おばあさんは笑みを浮かべ頷きました。

 今年の夏は特に暑い日が続き、シルバーカーを使ったとしても外に居る時間は長くなってしまいます。熱中症等の不安があったので、夏に入ってからのおばあさんの外出時間はほとんどありませんでした。もし外出する事に不安を感じているのなら、買い物や用事は代わりに行うので家に居た方がいいのではと夢が聞くと、おばあさんは安心した表情で頷いてくれました。夢も、外の暑さとおばあさんの体力に少し不安を感じていたのです。夏が終わればまた一緒に外へ買い物に行ける、夢はそう思っていました。

 ただ、それ以上におばあさんを悲しませたのは、言葉が伝わりづらくなった事でした。意識をしないと発音が曖昧になってしまうのです。その状態を補おうと使うようになったのが、文庫本サイズのホワイトボードでした。夢とオッカがそれをプレゼントするとおばあさんは「木の枠が可愛いね」と気に入り、いつも側に置くようになりました。サイズや重さも丁度良く、ホワイトボードなので少ない力で書けるのです。用件を伝える時や、最近では会話にもホワイトボードを使い、伝わらない部分を補っています。今でこそ、側にある事が普通になったホワイトボードも、初めはやはり見るだけで辛い気持ちになっていました。玄関に置かれたままのシルバーカー、使い始めたホワイトボード、ALSの進行が目に見える形で分かるからです。ただ、少し救いだったのは、おばあさんとの会話は夢達となら問題なく行えた事です。そんな時間が少しでも長く続けばいいなと、夢達は願っています。

 カタッ。おばあさんは卓袱台の上のホワイトボードを手に取りました。

 この夏にあった色んな事。そんな中で夢達の想いに触れ、病気の進行に直面した時の悲しみは薄れたようで、今では楽しそうな笑顔が見れてみんなは喜んでいるのです。ただ、これで問題解決という訳ではありません。呼吸に関する不安はそれぞれの胸の奥に恐怖を生み、やがて深くなってゆきました。心のケアの大切さを、この時ほど目の当たりにする事はありませんでした。さらに誤嚥による肺炎も心配で、このタイミングでおばあさんは夢と人工呼吸器の話をしました。夢は、直接的な言葉を使うのはとても辛く、更なる恐怖心が生まれないように喜んでもらえるように言葉を紡いでゆきました。そんな夢の気持ちが伝わり、おばあさんは真正面から受け取ってくれました。そしておばあさんは夢に「頑張り過ぎるのはよくないよ」と言葉を掛けました。外の庭に顔を向け、夢はそっと頬の涙を隠しました。

 最近では、おばあさんの代わりに病院や福祉関係の人から話を聞くことも多くなりました。「大変ですよ。大丈夫ですか?」夢達が多くの人に掛けられた言葉です。でも夢は心に決めていたのです。それでもいい、おばあさんが望んでくれるのなら一秒たりとも迷わず動き出す、そう決めていたのです。今日の集まりは、そんな色んな事の報告をするためでした。

「フミ、皆」

 声を掛けたおばあさんはマーカーペンを握り締め、力強く言葉を書いてゆきました。ふと書かれた言葉が見えたオッカは口元に力が入り、流れそうな涙を堪えました。

 卓袱台の上に、そっと、置かれたホワイトボード。おばあさんの言葉が夢達の瞳に映り、溢れた涙が頬を伝いました。手の力が入りづらくなり、ペンは握り締めて持つので文字は角張っています。兄達には厳しくて末っ子であるミロクおばあさんには優しかった父が綺麗な字を書くようにと子供の頃に教えてくれた、おばあさんは以前そう言っていました。でも、今のおばあさんの字は違います。自分の全てを受け入れ、変わり行く自分を見つめ、強く生きている、この字こそおばあさんの人生そのものなのです。

 視線を落とした夢達は何か言おうとするのですが、言葉と一緒に涙が溢れてしまうので声が出せませんでした。ほんの数秒、自分の音を感じました。

「ケンシとはもう話したの?」

 フミが話し出すきっかけを作りました。夢は指で目元を拭い、おばあさんの代わりに話し出しました。

「ケンシさんは後二か月ほどで来てくれるわ。私は会った事がないから。でも皆は知ってるみたいだから良かったわ」

 おばあさんの介護に関して、クイナの町で決まった事は夢がケンシへ報告することになっています。

「今度みんな集めるからさ、夢が説明して、しっかりこの後の事を決めていこう」

 フミがみんなにそう声を掛けると、夢は笑顔で「うん」と頷きました。

 これから夢達が歩むのは本格的な介護の世界です。とても不安な介護の世界です。外に居る人達から見れば別の世界に思えるほどです。しかし、介護は寧ろ、普段の生活にどこまで近づけることが出来るか、それが大切なのです。そして、そこで生まれたギャップを何で埋めるのか、どう埋めるのか、近づけるのか、その生まれた隙間に心を寄せて行動することが、QOLの維持や向上につながるのです。

「あの、皆でお金を出し合って、ビデオカメラを買うのってどうかしら?」

 話し合いが終わり、緊張していた空気が解けた時、夢がみんなにそう切り出しました。介護に関して説明が必要になった時、口頭や文書だけでなく映像があればより正確で簡単に伝わると夢は考えたからです。その事を皆に伝えると「今から買いに行こう」という事になりました。

「ばあちゃんのためだけじゃないねんから。わしらの想い出にもなんねや」

 自分が全額払うと言ってみんなの話を聞かないおばあさんと、どちらかといえば自分が全額払いたいと思っているケンジとの小さな言い合いは、これをもって終了しました。みんなで分けて出し合う事で、物に対して同じ分だけの責任や想いが芽生えるのです。「分かったよ。ありがとう」うつむきながらぽつりとそう言葉を掛けたおばさんは、嬉しそうに頬笑みました。良かったと笑顔で頷いたみんなは、もう一つの、話さなかった夢の想いに気付いていました。これからの生活の中で、得るものだけでなく、失ってゆくものもある、夢は記憶の中だけでなく、映像の中にも残しておきたかったのです。

 それは、ミロクおばあさんの笑顔です。

 言葉にするのはとても辛く、夢は話しませんでした。動かなくなる筋肉、それはもちろん体だけでなく表情も作れなくなるという事です。しかし、動かなくなるのは筋肉です。表情の奥にある心は何も変わりません。たとえ体が何一つ動かせなくなったとしても、心は変わらず色鮮やかに彩られ、夢達に向けられているのです。そんな、きらきら輝くミロクおばあさんの姿も、夢はどうしても残したかったのです。そして夢はその想いをそっと胸の奥に秘めました。ビデオカメラの中のみんなには、悲しみのない笑顔であってほしいと想ったからです。

 夢は卓袱台の上のホワイトボードを手に取り、携帯電話で撮影しました。

 写真にして、私の最期の時に見よう。頑張って生きて褒めてもらおう。そのとき夢は、ふとそう思ったのです。

 夢は携帯電話の画面を見つめました。

 おばあさんの字は角張っていて、とても優しい字でした。

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