雨音と新緑と低気圧

宮杜 有天

雨音と新緑と低気圧

 大きく開け放たれた障子戸の向こうには、和風の庭が広がっていた。

 榛色はしばみいろをした高めの塀と、どんより曇った空を背景に、新緑の楓たちが小さな森を形作っている。庭石とそれを覆うように苔むした地面は森の中へ誘う小道だ。

 雨が緑を濡らし、色合いを際だたせていた。磨き抜かれた廊下の床板には鮮やかな新緑の色彩が映り込んでいる。


 八畳の和室の中央に布団が敷いてあり、その上で少年が一人起き上がって、庭を見ていた。鎖帷子柄の浴衣寝間着の上に、藍色の薄手の半纏を羽織っている。

 随分と線の細い少年だった。さらさらの黒髪に細いおとがいをもった輪郭。やや大きめの目と小作りな鼻と口。顔からは中性的な印象を受ける。

 風が吹き、雨の匂いを少年の鼻へと運んだ。


「坊ちゃま。紫陽しよう坊ちゃま」


 襖の向こうから女性の声がする。昔からいる御手伝いさんの声だ。


「はい」


 少年――雨月うづき紫陽しようは、声のした襖に向かって返事をした。それに応えるように襖が開く。着物姿の中年女性が正座していた。その横にはセーラー服姿の少女が立っている。手にはブラウンのスクールバッグを持っていた。


葵彩あおい様がおいでになりました」


 少女――足立あだち葵彩あおいが和室へ入ると同時に、静かに襖が閉じられる。

 葵彩は布団のそばまでくると、横座りした。


「調子はどう? 許嫁が来てあげたわよ」


 ショートレイヤーの黒髪にアーモンド型の目。鼻は小さいが、口はやや大きく唇も少し厚みがある。可愛いと言って差し支えない顔立ちだが、目に力があることから気の強さが伺えた。


「今日は体中が痛い」


 紫陽が言う。その顔には苦笑が浮かんでいる。


「アンタも大変ね」

「低気圧が居座る季節はつらいね。梅雨時つゆどきはホント嫌だよ」


 紫陽は小さい頃から体が弱かった。倦怠感や微熱は日常茶飯事。酷いときには全身に激痛がはしることもあった。

 病院にかかったが原因は不明。ハッキリしているのは低気圧が発達した時ほど症状が出やすいということだった。


「アタシも梅雨は嫌い。気分も晴れないしね。これ、今日の分」


 葵彩が鞄からノートを出した。授業のノートだ。紫陽と同じ高校に通う葵彩が、いつも持って来てくれる。症状が酷いと休みがちになる紫陽にとっては非常にありがたい。


「ありがと。いつもすまないねぇ」

「それは言わない約束でしょ」


 おどけた調子で言う紫陽に、これまたおどけた調子で葵彩は返す。


「ところで葵彩。このやりとりには続きがあるて知ってた?」

「続き?」

「うん。続きって言うかね……正確には『いつもすまないねぇ』の後に『おっかさんさえいてくれたら』って続くんだ」

「え? じゃあ……」

「そう」紫陽は勘の良い許嫁を見て満足そうに頷く。「『言わない約束』なのは『いつもすまないねぇ』に対してじゃなくて『おっかさんさえいてくれたら』になるんだよ」

「お礼なんて言わなくていいから……ってやりとりじゃなかったんだ」

「まぁ、それでも意味は通じるからね」


 そう言った紫陽の顔が僅かに歪んだ。


「痛い?」

「ちょっとね」


 葵彩は紫陽の後ろに回ると、そっと抱きしめた。紫陽は俯き、されるがままだ。


「不思議だ」

「何が?」

「昔から、葵彩にこうしてもらうと痛みがなくなるんだ」

「痛いの痛いの飛んでいけ……って、お祈りしているからね」


 冗談とも本気ともつかない調子で葵彩が言う。


「葵彩は後悔してない?」


 紫陽は俯いたまま、ポツリと呟く。


「何を?」

「古いしきたりに従って、僕の許嫁になったこと。雨月と足立の約束なんて、曾祖父の代に交わされたものだ。大正だよ? 令和の今になってまで、守るようなもんじゃない」

「アンタは嫌なの?」

「そんなことない。僕は葵彩が好きだ。昔はそりゃ、いじめられてばっかりだったから嫌いだったけど」

「アタシも好きよ。昔っからね。好きな子はいじめたくなるって言うでしょ?」

「それ、男の子が女の子にするやつじゃん」

「紫陽は女の子みたいなんだし、いいでしょ」

「酷いな、それは」紫陽が苦笑する。「……ありがとう。だいぶ楽になった」


 葵彩の腕に力がこもる。


「もうしばらく、こうしておいてあげる」


 新緑の庭を背景に、紫陽と葵彩の影が重なって見える。

 雨音が二人を包んでいた。


                     了

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雨音と新緑と低気圧 宮杜 有天 @kutou10

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