黒猫ノ譚 下(終)
「驚いたね」
それは、こちらのセリフだ。閉めて出たはずの窓が開いていて、カーテンが揺れている。侵入したのか。ここは2階なのに。架空の人物は、首を傾げた。
「ひとまず、中に入ったら?」
部屋の主である私に、不法侵入者が招く。私は体が動かなかった。なんとも異質で、自分の部屋だと思えない。黒い羽根を踏んで歩くのも気持ちが悪い。
私は凍りついたまま、何も言えずに突っ立っていた。
「おーい。聞こえてるー?」
痺れを切らしたソレが、こっちに向かって歩きだした。羽根がきしむ音がする。目の前に男のリボンが見えた瞬間、勢いよくドアを閉めた。大きな音を立てて、壁を作る。
冷たい廊下は静まり返っていた。心臓がうるさい。
何が起こっているの?あれは何?
何?ナニ?なに?
「びっくりするんだけど」
真横で声がした。ひっ、と声が上がる。
目だけ動かせば、男の顔が、私の右にある。黒い瞳とかち合った。
「びっくりは、俺の専売特許」
「やぁっ!?」
咄嗟に離れようとしたが、足が滑って転んでしまった。
「なにしてんの」
呆れた声が聞こえた。体の震えが止まらない。そんなこともお構いなしに、男に襟首を掴まれ、ぐいと引っ張りあげられる。一瞬息が止まった。
「早く入るんだよ」
男が言うと、ドアが勝手に空いた。
「自分で歩いてよ。重いんだから」
手を離されて、自分の足で立つ。涙目で、首を横に振るけれど、足は私の意思に関係なく動き出す。床の真っ黒な絨毯の上を、男は優雅な足取りで、目の前の大きな満月に照らされながら、歩いていく。
「さてと」
勝手に動いた私の椅子に、勝手に腰かけ、足を組んでから比較的穏やかな表情で、闇夜は口を開いた。
「どこから説明したらいい?」
私はあやつり人形のように、闇夜の前に立たされたが、力が抜けて座り込んでしまった。
恐怖で、息が上がっている。
「何、面白くないなぁ。言いたいこと見つけて、さっさと言って」
肘掛に肘を立てて、退屈そうにした男に、口をパクパクさせながら、どうにか言葉を出す。
「なんで、あなたが、ここに」
あぁ、と闇夜は妖しく笑った。
「さっきは、向こうで会っただけ。せーらんが抜け出したから、追ってきたの。コレでさ」
悪戯を思いついたような、深い笑みとともに、バサリと音が鳴った。黒いものが現れる。月明かりが遮断されて、部屋が暗くなった。
大きな鴉の翼が、背中にあった。
呆然とそれを眺めていると、闇夜はまたにやりと笑う。次の瞬間、手品のように翼は消えた。
「ハイ、次」
闇夜の笑みは、始終消えない。私の様子を見て、笑い続けている。
ふと、思った。
そうか。まだ、夢の続きなんだ。
よく言う。夢で夢を見たということだ。つまり、ここで眠ると、本当のところに戻っていくだろう。私は目を瞑った。
「なにしてんの」
不機嫌そうな声がする。パチンと指を鳴らされれば、目が冴えた。
「君はこちらの住人でしょ」
どうしたことか。この、無機質な男は、本当に私の前にいるらしい。
夢が、現実になっている。
「ねぇ、もっと何か聞きたいことあるでしょ?闇夜様の好きな飲み物は何ですかー?とか、尊敬する人は誰ですかー?とか」
おかしな者は、頬杖をついてつまらなそうに言う。私は必死に言葉を発する。
「……なんで、来たんですか」
「え、なんでって?」
男は不思議そうにくり返す。
「せーらんが、俺らのお客だから。最後まで、ちゃんと世話しなきゃでしょ?」
仕事しなきゃね、と、にやにやとした笑い方は成りを潜めて、先ほどよりかは真剣な顔をして見せた。
「なんでせーらん、逃げたわけ?」
「逃げたって、」
別に、逃げたつもりは無い。けれどあそこから立ち去りたいとは、思った。
「帰りたいって、思っただけです」
「それが逃げだよ。俺らの場所から逃げた」
頬杖をついて、偉そうに男はしゃべる。あまり机の上の物をいじらないでほしい。特に、陶器で出来た私のうさぎちゃん。
「なんで帰ろうと思ったわけ?うちは解決しないと出れないはずだし、せーらんには損しかないのに」
「それは、えっと」
言葉に悩む。どう表現すればいいのだろう。隻眼がじっと見下ろす。
「嫌な、場所だったから」
「はぁ?嫌なって明露がぁ?」
「怖かったし」
「あんなにいい所を、そう感じるとはねぇ」
不機嫌そうに、背もたれにもたれかかって、男は言う。
「せーらんが出ていったのは、イレギュラーもイレギュラー。それができたのは、君が変なモノに憑かれたから。向こう側で君が迷子になる原因」
男は私を指さした。
「君は、“夢遊”者、なんだよ」
***
「夢遊病?」
「違うよ。君が『夢遊』ってモノに取り憑かれてるだけで、病気じゃない」
えーっとねぇ、と闇夜は空中をくるくると回す。
「迷子迷子って言ってたけど、君の場合はね、君自身の夢じゃなくて、ヒトの夢の中に入り込んでたの」
「え」
「え、じゃない。夢の中じゃ気配はないけどさ、『夢遊』はそれを持たせるから。君は気配というハンマーを持って、次々と人の夢に入り込んで、場面を変えて、迷子って言ってた」
男は楽しそうに笑っている。
「君は、人を巻き込みながら、夢の中を遊び歩いてたんだよ」
言葉も出なかった。まるで夢のような話だ。男は口を止めない。
「夢は記憶の整理だよ。でも君は全く知らない人に干渉していくわけね。君は夢のルール違反をしている……あーこんな話、どっかで聞いたことあるなー」
急に訳の分からないことを男は項垂れた。
「私は、どうなるんですか?」
「あ、玉兎から。早く戻って来いって」
「えっ」
「これ以上大事になる前に、夢遊と分離させるってさ」
首を傾げる。
「戻るって、夢にですか?」
「そう、戻るんだよ。せーらんは、夢を見たら明露に戻る。それで、夢を見なくなる」
「え?なに、どういうことですか」
コトンと兎は机の上に置かれた。男はにんまりと笑う。
「君を、夢の中の君と切り離すの。取り憑かれてるのは、夢の方の君だから」
***
ガタン、と車両が揺れる。
外の景色は緑豊かで、向こうに海が見える。僕はページをめくった。クリーム色の紙が指に馴染んで、次の文字たちが並んでいる。
ゴトン、と横に揺れる。列車は木々のトンネルに入り、葉の影が本に写る。少しして、栞を挟んで小説を閉じる。
ゆっくり背もたれにもたれかかる。どこへ向かう訳じゃない。眼鏡をかけなおす。僕の終点は、ずっと先だ。
がたん、と音がした。後ろから、人が歩いてくる気配がする。車掌かと顔をあげると、少女が立っていた。サイドテールの紺色が揺れる。
「あの、とても素敵な景色ですね」
明るい声に、そうですねと頷いた。にっこり笑って、少女は言う。
「ところで、ここはどの辺でしょう?」
一瞬ぽかんとした。列車は走り続ける。
「私、迷子なんです」
はっきりと言っていたから、僕は彼女の切手を見た。ところが、駅名は書いていない。2文字が並んでいる。
『明露』
「あれ?」
彼女は首を傾げた。
「さっきまで、こんな文字なかったのに」
呟いて、少女はポケットに切手をしまった。
「ありがとうございました」
頭を下げて、少女は車両を移っていった。ガトン、と開いた扉の向こうは、白く光っていた。
トンネルを抜ける。ガガガ、と車輪の音と振動が伝わって、海原が見えた。ぼうっと眺めて、もう一度本を開く。
そこで、視界がぼやけた。
ふっと軽くなった意識は、暗い部屋の中にあった。寝返りを打つ。なんとも素敵な景色だった。
***
「今君の体は、悲鳴をあげてるんだよ。日常生活では、体は休めない。休もうと思って眠っても、夢遊のせいで脳は休まずまだ動く。だから倒れるんだよ。まずは、夢を見る君を、君から引き剥がす。ってこと」
「……なるほど」
「せーらんにも利益があるでしょ?それ以上に、利益しかないでしょう?」
「はい」
「じゃあ契約成立ってことで」
それよりも、と足を組んで、
「不思議の国のアリス気取り?どこを目的に、フラフラ歩き回ってたの」
「……わかりません」
「目的地をって言ってたじゃん。君が、ここに住んでる君は、何を探して、夢に頼ってたの」
夢は願望も表す。私は、ここでの私は、いつも願っていた。と、言うのか。
「……毎日が退屈で」
「ふーん」
違うらしい。もっと深く、私の事を。
「……親が、帰ってこなくて」
「へぇ、親が」
男はにっこり笑った。
「私を置いて、行ったから」
「それは、夢じゃ解決しないから。ちゃんとここで探して、現実で生きていきな」
ギッと椅子がなった。憎らしく感じる、笑みだった。
「じゃあ、おやすみ。二度と夢見ないことを」
***
窓の向こう側で、満月が揺れていた。
「探しましたよぉ」
少年は笑顔で私を迎え、両手で私の手を握った。私は、何故ここに来たのか、わからなかった。
『明露』
堂々とした、建物だった。
***
「ただいま戻りましたー!!」
「おかえりー」
男が椅子に腰かけて、ココアの匂いのするカップを傾けていた。
「さっきぶり」
「な、なんで、私はここに」
戸惑いを隠せない。私はここを出て、確か、確か。
「君は、脳にできた腫瘍の、切り離された断片ってこと。正式に君は『夢遊』の憑き物になった」
甘ったるい香りを漂わせながら闇夜が言う。
「夢遊ってなんですか。病気ですか?」
「このくだりさっきしたからパス」
手を振って闇夜はそっぽをむく。
「私は帰りたくて」
「どこに帰りたいんですか?」
思わず言葉に詰まった。さっきまで、目的があったはずだ。もう、思い出せない。帰る場所も、わからなかった。
「
「や、やっかい」
「もう、迷子になったらダメなんです」
「迷子になる理由がないでしょ」
私は何も言えなくなった。少しの沈黙の後、ため息が響く。
「もう君を“夢遊”と呼んでも過言じゃないくらいだよ。ねぇ、
暗闇の中で、書類整理をしていた、メガネが動く。
「……お前は、忘れ者になった」
「え?」
「お前は、向こうのお前から忘れられた、忘れ者になったんだ。ココに保管される対象だ」
バチンとハンコが押される音がした。
刻辰も、声を上げた。
「よかったですね‼ここは安心で、安全な場所です」
にこにこと、これまでの闇夜のことを忘れているような、嬉しそうな笑顔だった。
「ここが、お前の帰る場所だ」
心に響く言葉だったが、あくまで事務的なことだと口調でわかった。
「人の夢に入り込まないように、訓練しろ。夢の隙間を歩いて、自分を飼い慣らせ」
「でも、目的もなく生きるなんて」
「お前は下手に動こうとするな。ここにいるというだけで十分だ」
玉兎は、立ち上がった。
「では、契約を始める」
***
「契約って、何ですか」
玉兎が軽く腕まくりをする。
「首輪みたいなもんだよ」
闇夜の、のんきな声が聞こえた。
「くびわ」
「お前は意思のある忘れ者だ。ここで管理するための、契約が必要になる」
「目がいいんじゃない?」
聞こえた声に見向きもせず、玉兎は首を振る。
「“眼”はお前で足りている」
はとした。思わず振り向いて、闇夜を見た。何、と隻眼で睨まれる。
髪に隠れた目は、一瞬黄緑に見えた。
「それなら、目の色素はどうでしょう」
「目に、こだわるね」
斜め下の頭を見つめて呟くが、少年はわたふたと続ける。結構混乱しているようだった。
「目でしたら、一瞬で分かります。“夢遊”だって、気づくはずです」
「……なるほど」
「どういうことでしょう」
「特訓すれば、せーらんもちゃんと道を見えるようになるってこと」
「それでいいか」
玉兎は頷いた。
「茜藍」
背筋が伸びた。玉兎と向かい合って、自然と頷く。
「忘れ者、茜藍」
玉兎が私の目元に手を伸ばした。一瞬のことでわからなかったが、確かに玉兎の掌には黒色が握られた。
「金色に、なっちゃいましたね」
え、と呟くと、どこから取り出したのか、素早く手鏡を渡される。
真っ黒な髪に似合わない、そして肌の色とかなり不釣り合いな、金色な瞳がそこにあった。
「これは……、斬新ですね」
「似合ってる似合ってる」
見てもないのに、適当な返事が聞こえた。
「ここを離れるときに、返してやる」
目に慣れるには、しばらく時間がかかりそうだ。
「さぁ、お前はなんにするか」
「なんでしょうね」
次に聞こえてきたのは、わくわくとした刻辰の声で、私は首を傾げる。
「何って、なに?」
「ここでは、仮に宿るモノが必要になるから。記号って言うんだけどね。無いとあまりにも不安定なんだよ」
「儚い、ですね」
「そうだね」
適当そうに、闇夜は言った。
「……闇夜は“鴉”?」
「さっき見たし、悩むこともないでしょ。玉兎は“兎”、本人は“鳩”」
妙な確信が芽生えた。
これから、こんなにも好き勝手やってる、彼らに付き合いながら、暮らすのか。
いささか、不安だ。
「茜藍」
「はい」
「お前は、 “黒猫”だ」
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