黒猫ノ譚 中
「ただいま戻りましたー!」
少年の声が、闇に溶けていく。遠くへ行ったまま、跳ね返ってはこなかった。黒にしか見えない闇がどこまでも続き、ふりかえっても扉の輪郭は見えない。
「何も見えませんねぇ」
左から声がする。声がするだけで、“誰”もいない。
「……トキタツくんは、慣れてないの?」
「あ、トキって呼んでください。そうですね、僕は鳥目なんで専用の灯りを持ってるんです」
えっと、と声が動く。
「近くに紐があると思います。
「全然」
周囲を見渡しても仕方ないことだった。目は全く役に立たない。
「トキはどうやって、」
「右手を上げて」
突然声が重なった。気配はなく、完全に闇に溶け込んでいる。トキのように高いわけでない、テノールのよく通る声が、右の耳元ではっきりと告げた。
声が詰まって、背筋が凍る。
「どうかされました?」
トキは気づいていないようだ。
「ほら、早く」
急かされて、おそるおそる右手を出した。前に手を出した瞬間、圧迫感が襲う。
「っあ‼」
「どうされました!?」
トキの焦った声がする。闇は状況を楽しんでいるようだった。反射的に逃げようとしても、びくともせず鼻で笑っている。
「ハイ、そのまま上にー」
声は手を動かしていく。前へ、そして上へ、勝手に動く腕に泣きそうになる。
「もう、やだ」
「茜藍さん!?」
「馬鹿だね」
耳元ではっきりと言われた。ばっと右を見る。もちろん、何も見えない。
「見えなくて、紐を探してるんでしょ?だから手伝ってあげてるんじゃない」
「それなら、代わりに引っ張ってくれれば」
あ‼と左で少年の声がする。
「もしかして、
手にざらりとした紐らしきものが触れた。迷わず引っ張る。手の圧迫感が消えて、カチッと音が聞こえた。
「ご名答」
あはは、と笑い声が聞こえた。周囲が照らされて、目を細めた。満月の下に男が立っている。
ロングブーツにロングコート、リボンのようなネクタイに、右目と髪は黒だ。左目は髪で隠れている。満月の灯りによって、漆を塗ったような艶を放っていた。
じろじろと、無遠慮すぎる視線に、おそらくこの男は背後にいたと思ったのに、と過ぎる。
「せーらんは馬鹿だねぇ。初対面で俺に文句を言うなんて」
「闇夜さん、ただいま戻りました!!」
「トキも、馬鹿だなぁ」
あーあ、なんて肩を竦めている。
「それにしても、遅かったね。店混んでたの?」
アンヤとやらは、トキを見る。私は息をついた。まるで、お化け屋敷だ。
「さっき会いました!!」
「さっきっていつ」
どこか既視感を覚える。
声に棘を感じたが、言われている本人は全く気にした様子がない。気づいていないのか、と目を見張る。
「茜藍さん、迷子になってたみたいで」
「あぁ、そう」
はぁ、と息を吐いて、闇夜は振り返った。
「玉兎、帰ってきたよ」
「……遅かったな」
低く掠れた声がする。満月の下に、ゆっくりと近づく影が見えた。
眼鏡をかけた、無表情な男だった。茶色い瞳がじっとこちらを見ている。群青色のタートルネックの上から、トキに似たエプロンを付けていた。
静かな威厳を感じる。この暗闇を支配しているとさえ思えた。
「玉兎さん、ただいま戻りました」
「あーあ」
闇夜が悪態をつく。玉兎は無言で頷いた。
「よく来たな」
ギョクトという男は、私を見て言った。
「ど、どうも」
満月に繋がった紐をいじる。闇夜とは違うが、じっとこちらを観察していた。いたたまれない。トキは近くにあった机に、紙袋を置いた。
「チョコ」
闇夜がトキに手を出した。たっぷり5秒、時間が止まる。「俺、頼んだよね?」追い打ちに、トキは挙動不審になる。
「買い出し、行ってきます!!」
全速力で闇へと消えていった。鳥目だと言っていたが、出口はわかっているのだろうか。はと気づいた。私も身構える。
トキについて行けば、出口に繋がる。家へ帰れる。
「いや、せーらんはここで客をするんでしょ」
「今出ていっても、何も解決しない」
瞬時に男ふたりに釘を刺され、身が縮む。本当に、私は客らしい。
「……予約、してません」
「お前はここに来る予定だった。だから来たんだ」
玉兎の厳かな声が聞こえる。
「よくぞ明露へお越しくださった」
「わ、分かりません!!」
私の声は、虚しく響いた。
***
客椅子に座らされて、男二人と対峙する。
手に満月を括り付けて、私は緊張して背筋を伸ばしていた。まるで面接だ。眼鏡の男は前のめりで指を組み、モノクロの男は足を組んでふんぞり返っていた。
「お聞きしたいです。私はここを知らないし、来る気なんてありませんでした」
「何。何か文句ある?」
妙に、けんか腰だ。客に対する対応とは思えない。私は食い下がる。
「いったい何が起きているんですか。あなた達は何者ですか?」
「我々は、我々だ。店員だ」
「お願いですから、教えてください。私は家に帰りたいだけです」
二人は顔を見合わせた。
「帰りたいのだろう?」
「はい」
「でも、迷子なんでしょ?」
「はい」
「それならば、解決するしかない」
「そう、ですね」
闇夜がため息をついた。今日何度目のため息だろう。
「解決するために、せーらんはここに来たの。俺らが急に現れたって思ってるみたいだけど、せーらんが迷子を解決するために俺たちの所に来たの」
「私の、迷子を?」
私は改めて、声に出した。玉兎が頷く。
「我々は、必要とされなければ要らない場所だ。それだけの特有の商いを行っている。お前はわざわざ、その商い所である“明露”に用があった。名簿に名が乗ったというのは、そういうことだ」
「根本から治すためにね」
私は黙った。三つの目が、じっと私を見ている。私は言葉を探した。
「それは、えっと、ご親切にどうも」
「ハーイ、常識のなっていないせーらんに、くえすちょん‼」
闇夜が明るく大きな声で、天を指さした。
「君は頼る側です。俺たちが手助けをする側です。さて、せーらんは、何といえばよいでしょーか」
圧力を感じる。明らかにいらだっていた。とってわかる発言だ。鋭い眼球と正論に、冷や汗が流れる。頭を無理やり押さえつけられているようだ。
「……どうか、私の迷子体質を治す手助けをしてくれませんか。よろしくお願いします」
頭を下げた。少しして、髪が揺れる。顔を上げると、眼鏡越しの瞳と目が合った。細く微笑んでいるようで、私の頭に手が伸びている。
「承知した」
「玉兎って感情に疎いよね。こういう非礼に対しても、怒らなきゃだめだよ」
「お前が激しすぎる」
「早くロボットから抜け出してよねー」
背もたれにうなだれて、片眼は天を見上げた。雰囲気からして、隣に座る玉兎という男に対して、私の態度に怒っていたようだ。
眼鏡をかけ直して、男は前のめりに私に向かう。
「改めて、私は玉兎ぎょくとという。“兎古屋とこや”をやっている」
穏やかに、しかし威厳を保ちながら、男は言った。
「とこや」
「忘れられたモノのやり取りを行う場所だ」
玉兎に視線を向けられた闇夜は、はぁいと返事した。
「どーも。闇夜あんやです。“ワタリガラス”をやってます。玉兎の要望に応えて動く、何でも屋です。どうぞお見知りおきを」
仰々しく挨拶をする。なんとなく、舞台に立っているような男だった。
私は、玉兎に向きなおった。
「じゃあ、明露って何ですか」
「明露は、各々の店が集まる場所だ。なんというべきか」
「多分、ショッピングモールってやつだよ」
闇夜が玉兎に、ご機嫌で答えている。なるほど、と玉兎は頷いていた。
「刻辰ときたつは“ねじれ屋”。時計屋だよ」
思わぬ回答に、弾かれたようにモノクロを仰いだ。一生懸命に時計を組み立てている少年の姿を想像してみる。
「あんなに幼い子が?」
「アイツを何歳だと思ってんの」
ハハッと馬鹿にしたような笑い声を聞き流しながら、しばらく情報処理を行って、馬鹿にされているという感情を消す。
「それで、どういう風に迷うんだ」
玉兎が言う。私は、迷いながら喋った。
「そこまでの把握は、されていないんですね」
「刻辰が迷子だったという状況を聞いただけだからな。詳細は全くわからん」
私は考えながら、言葉を紡ぐ。
「えっと、ものの見事に迷うんです。地図の通りに歩いても、必ず別の所へ着いちゃうとか、誰かに聞いても数秒後にはわからなくなるとか、一瞬で別の場所へ飛んでしまう、みたいな」
「それはただの阿呆じゃない?」
ぎろりと睨んだが、
「わー睨んだー。こわーい」
と、笑われてかわされる。
「成程」
玉兎は言った。私は黙ってその眼鏡の向う側を見据える。
もし治るものなら、藁をも掴むつもりで縋りたい。
しばらく黙っていた玉兎が、闇夜を見る。一番頼りにしていた人物の思わぬ反応に、私は幾度か瞬きをした。
「えっと、何が原因なんですか?」
闇夜は闇夜で、からかうだけからかった後は、黙ってじっと私を見ている。目を合わせるのではなく、私の頭部だ。しばらく黙ったあと、闇夜は口をあける。
「どうなってんの、コレ」
彼は、不機嫌そのものな視線を、私に投げた。その刃物のような鋭さに、呼吸を忘れる。元々切れ目である上に目つきの悪いせいで、その鋭さに磨きがかかっているようだ。
しばらく睨んだ後、頬杖をついてぶつぶつ言い始めた。そんな闇夜を放っておいて、玉兎は私を見た。相変わらず、固い表情のまま言うのだった。
「残念ながら、全くもって分からん」
****
「お前の迷子体質の根源が、ここへお前を連れてきたのは確かだ。だが、何なのかは、はっきりしない」
腕を組んで、玉兎は言う。私はぽかんと口を開いていた。闇夜も説明に入る。
「世間で俗にいう方向音痴っていうのは、大抵脳の混乱が足に寄生しているんだよ。目的地までの路を食うの。でも、そんな単純そうなものに見えないし」
大分落ち着いたのか、先ほどとは打って変わって、新種かなぁなんて何故か嬉しそうにつぶやき鼻歌を歌いながら、カップに口を付ける闇夜を恨めしく睨む。
「と言うわけだ。しばらく、様子見だな」
手持無沙汰な右手を、開いたり閉じたりしてみた。
「……治らない、ですか」
「今わからないというだけだ。お前は確かにここの客人だ。となると、必ず糸口はある」
「今日、帰れないですか?」
「多分ね。せーらんの迷子体質が、ここに固定されたから、動けないよ」
「いやだ。私、帰ります。出口、どこですか?」
「帰れないって」
「帰るんです。絶対帰る」
人生には、一生付き合っていかなければならないものが、一つや二つあるものだ。私の場合、他人に頼っていけば、暮らしていけるし、大したことではない。
大丈夫、何もがっかりする必要はない。
私は腰を浮かせた。闇夜が不審げにこちらを見ている。
周囲を見渡す。闇夜が立ち上がって、私の横に立った。視線が、痛い。片目だが、両方あれば、かなりの威力になるだろう。
「ただ今戻りましたー‼」
後ろから声がした。振り返ると、少年が立っていた。背後に、長方形の光がある。
私は迷わず身を翻す。
「茜藍⁉」
玉兎のがたりと立ち上がる音がしたが、何も迷うことなく光に近寄っていく。徐々に小さくなっていく光に間に合うように歩調を早める。
光の中に右手を入れた。手はするりと中に溶け込んでいき、この店では感じなかった風を掴む。思わず、頬が綻んだ。
「あれ、茜藍さん?」
すれ違った少年の顔は不思議そうだった。
私は振り返る。こちらに来て、一番の笑顔をして見せた。
「ありがとうございました」
唖然としている男と、様子を窺っている男と、状況を把握できていない少年の目の前で、何事もなかったかのように、光の中へ滑り込んだ。
“いつものように”、帰るんだ。
***
「…み……きみ、君!!」
肩を揺さぶられるのを感じた。私は、思い瞼をゆっくり持ちあげた。
夕焼け空を背景に、知らない男の人が立っていた。
「大丈夫か?今救急車を呼んでいるから、安静にしてなさい」
「……え?あ、いえ、ただの貧血で……」
私は、少しよろめきながら、起き上がった。
「けれど、道で倒れてたんだ。もしなにかあるんだったら」
「あ、や、持病です。……よく、倒れるんですよ」
とんでもないのに捕まってしまった。内心舌打ちをする。
「なら、親御さんに連絡するから。家の電話番号は」
「いえ本当に、すぐそこの角なんで、お気づかいなく」
灰色のコンクリートの塀に手をついて、もう片方の手で学生かばんを持つ。
「ならば、家まで送っていこう」
「あ、ありがとうございます……」
気づかれないようにため息をついた。
そんなに心配されなくとも、本当に、よくあることなのだ。原因は分かっていないが、別に何の支障もない。先ほども、学校の帰り道で、倒れただけなのだ。よく覚えていないが。
スミマセン、と小さく謝る。なるべく離れて歩きたいが、そういうわけにもいかないようだ。
帰り道、確か立ちくらみが襲って、そこから現在に至る。別段、不思議にも感じない。ただ、どこか、ぼんやりと曖昧になった記憶がある。
「夢、かな」
五月蠅い蝉の声の中、紺色に飲まれて弱くなった赤い光が帰路を照らす。男には聞こえなかったようだ。しばらくお互い無言で歩いていると、自宅が見えてきた。
「あ、ここです。本当に、お世話になりました」
「いや、いいんだが。気をつけなさい」
玄関前に立ち、会釈して礼を言うと、男は片手を挙げて去って行った。息をついて、鞄の中から、鍵を取り出す。
「夢、にしては、今回はリアルだったわ……」
ねぇ、と言っても、誰もいない。開いたドアの向こう側に、つぶやきは溶けて行った。いつものように静かな、自宅だった。
「でも所詮、夢は夢だわ」
あれが現実なんて、ありえない。私はいつも、家に帰ってきている。
いつ忘れるかも分からない、ただの儚い数分間にすぎない。
ひとまず少し寝ようと、わき目も振らず二階へ向かう。
家族はまだ帰ってきておらず、誰の気配もしなかった。重い足で階段を上り、自分の部屋の前に立つ。
ドアノブに触ると、季節はずれな静電気がした。驚いて手を引くが、気を取り直して改めてひねる。
ドアは何故か、ぎぃっといつもはしない音を立てた。ドアの隙間に、見慣れないものが落ちていた。
黒い羽根が落ちていた。最初は自分の足元に一つ。不思議に、床に視線を滑らせていく。ベットの前、勉強机、クローゼット。先に進むにつれて、床を埋め尽くしていく羽根の量はどんどん増えていった。
頭の中が真っ白になる。鮮明に、闇の底に艶やかに光る、髪を思い出した。最後にたどりついた真正面の窓際まで来て、真っ黒なブーツが目に入った。
これは、どうしたものか。答えなんか出てこないほど、パニックを通り越して、頭が全く働いていない。
硬直したはずなのに、首だけは自動的に動いていって、足から上を確認している。床までつきそうな長い裾のコート、白いカッターシャツ、ネクタイのように結ばれただらしないリボン、不健康に白い肌。そして、何ともおかしいと笑っている目とかちあった。
「驚いたね」
月夜の前で、男は言った。
彼特有の、薄気味悪い笑みを浮かべて。
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