明露神奇談

空付 碧

黒猫ノ譚 前

「なんなのよ」

 口をついたのは、悪態だった。

 じゃり、と道が鳴る。


 初夏の光が溢れる、緑色の路地だった。

 人とすれ違うのも、やっとなくらいの路地が、細く長く続いていた。

 ブロック塀は所々崩れ、苔むしている。塀の向こうに生えた木々は、路地に枝を伸ばしてトンネルを作っていた。鮮やかな下草が目にまぶしい。なんとも、忘れられたような路地だった。

 私は決して、ここを通りたかったわけではない。

「どうしてこうなるかなぁ」

 自分自身に、嫌味たっぷりにため息をはいて、再び歩き出す。

 迷子、という響きは好きではない。方向音痴の方が、まだかわいらしい気がする。けれど、どちらも認めたくはなかった。

 誰だって、地図を持たずに道を行くと、迷うこともあるだろう。私は、その機会がめっぽう多かった。一人で歩けば、絶対に目的地にたどり着けない。

 道を間違えるというよりも、道が私を間違える、のかもしれない。先ほどまで港にいたはずなのに、次の瞬間森の中にいる。はっとすれば大都会で、ふと気づけば美術館の通路なのだ。

 なぜそこにいるのか、私にはわからない。見たこともない道に、いつも立っている。特殊能力というのも馬鹿にはできなくなってきた。でも、全くもって迷惑な話だ。私は、私の行きたいところへ行きたい。目的地へ、たどり着きたい。極度の迷子体質、なんて不名誉な話だった。

「にしても、運が悪いわ」

 町なら、人に道を聞ける。緑のトンネルの先は見えない。私はひたすら歩き続けた。


 20分ほどたっただろうか。一本道が、まだ続いている。少し疲れて足を止めた。振り返っても、緑の空間だ。こんな経験はしたことがなかった。風が吹いたが気休めだ。

 耳を澄ます。聞こえるのは、自分の息だけだ。ドクンと心臓が鳴った。周囲に意識を巡らせて、緊張状態に入った。

 虫の音も、鳥の声も聞こえない。そしていつもなら、もう次の知らない場所だ。私は今どこを歩いているのだろう。まさか、

「くるくる回ってる、わけじゃないよね」

 一本道は、ひたすら直進するだけだ。曲がったりなどしていない。途方に暮れた。

 今私は、一人ぼっちだ。緑の道で、独りぼっちだった。どうしよう、と焦りが出る。不安を煽るように、日は西へと傾いた。

 こんなことなら、横にでも行ってみるか。私は塀に手をかけた。よじ登れるだろうか。でも脱出するには、もしかしたら良案かもしれない。意を決して、手に力を込めた。

「あぶないです‼」

「わっ⁉」

 急な声に、力が抜ける。ふらついて、反対の塀に背中を打った。

「大丈夫ですか⁉」

 声が近づいてきて、私に触った。黒色に青が混じった髪が見えた。痛みより先に、驚きが襲う。少年は、私の顔を心配した目で見ていた。

「けがはありませんか⁉」

「だい、じょうぶ、です」

 ゆっくり起き上がってみて、打ったところを擦る。特に問題はない。それよりもだ。

「いつから居たんですか?」

「え?」

 塀に手をかけたとき、誰もいなかったはずだ。深い抹茶色のパーカーを見逃すはずはない。少年は、今度は不思議そうな顔をした後、にっこりと笑った。

「さっきです‼」

 元気のいい返事だった。答えにはなっていない。けれどどこか和やかな雰囲気を漂わせていて、不信感は消えていく。そして、一人じゃないと分かった瞬間に、安堵した。そういえば、私も急に飛ぶのだった。

「さっきって、いつよ」

 けらけらと、笑っていた。


 ***


「君も迷子?」

 体勢を変えてしゃがみこみ、少年と顔を合わせる。少年は、大きな紙袋を持っていた。クリーム色のエプロンは、少し汚れている。

「いいえ、たまたま通りかかっただけです」

「抜け道とか?」

「初めて来た道です」

「そっか。私と一緒だね」

 笑いかければ、少年も屈託なく笑う。

「そうですか。茜藍せいらんさんは、迷子だったんですね」

「そう、迷子……」

 急に凍り付いた。私の表情が変わったのか、少年は不思議そうに私を見ている。

「……自己紹介、まだだったよね?」

「あ、そうです‼僕は、トキタツって言います。刻むに、干支の辰で、刻辰です‼」

「私の名前は、セイラン……」

 細くなる声に、少年はにっこり微笑んで、頷いた。

「だから、見つからなかったんですねぇ。迷子なら、仕方ないです」

「まって。ちょっと、待って」

 立ち上がった。そして一歩引く。

 何故初対面で、私の名前を知っていたのだろう。どうやって、突然現れたのだろう。しかも、目を逸らしていたが、この子には気配が全くない。今話をしているのに、首を傾げたりしているのに、全く気配がないのだ。

「なんで、私を知っているの」

 手始めに、思っていたことを聞く。少年は、ポカンとした表情を浮かべた。

「え、だって、茜藍さんは、僕たちの大事なお客様ですから‼ちゃんと名簿に名前が載ってましたよ?」

「何言ってるの?私は店の予約なんてしてないし、第一私は家に帰りたくて、」

 そして、迷子だ。

「ねぇ、××町って知ってる?私の町なんだけど」

「わかりません。でも、僕たちは」

「知らない‼」

 大きく声を上げた。風だけが通り過ぎていく。日は沈んでいった。

「あなたを知らない‼店も知らない‼私は帰りたいだけなの‼もう、迷子なんて、嫌なの‼」

 ぼうっと光が見えた。とっさに振り向けば、建物が建っていた。白い壁は無機質で、どこか厳かでもあった。

「あぁ、やっぱりお客様なんですよ!!ほら、店です‼行きましょう‼」

 少年が通り過ぎた。やはり、何もなかった。そして、一歩も動かない私に気づいて、振り返る。

「茜藍さん?夜になりますよ、店に入りましょう」

 私はとっさに後ずさった。夕焼けが、緑を焼いている。おどろおどろしいくらい、暗い影ができていた。“誰”もいない。

「い、いかない」

「でも、帰りたいんですよね?」

 痛いところを突かれる。私は、ぎこちなく頷いた。

「玉兎さんなら、方法を知っているかもしれません‼それに、ここにいるとヨルに食べられてしまいます。早く中へ入りましょう」

「ヨル……?」

「獰猛な肉食獣です。ほら、早く」

 十分に急かされて、やっと私は動き出した。もう、行く道がないのだ。この、どうしようもない恐怖を抑え込んで、進むしかない。一歩ずつ、進んでいく。

 帰りたい。それだけだった。段差を登って、扉の前に立つ。

“明露”

「めい、ろ?」

「店の名前ですよ‼」

 私には、あまりな名前だった。

 トキタツが扉を開くと、底なしの暗闇が広がっていた。振り返った路地のほうが、まだ明るい。戸惑っているとき、背中を押された。

「わっ⁉」

「ただいま戻りましたー‼」

 耳元で少年の声が響く。私は、踏み込んでしまった。そのまま、闇に飲まれる。後ろでドアが閉まった。ばたんという、嫌な音だった。

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