君について

岩﨑 史

君について

君と初めて出会ったのは、まだ僕たちがお互いに駆け出しの物書きだった頃だ。

新人作家の集まりで、初めての会話をした。

その時から、僕は君に惹かれていたのだろう。

雰囲気のいい書店があるとか、インスピレーションの湧く夕日が見られるとか、

そんな仕様もない理由をつけては、君と二人で会うことを心待ちにしていた。

これは、そんなデートの十回目でのことだ。

小心者だった僕は、十回、君と会うことができたら、と願掛けのような心持ちだったのだ。

その日、僕は君を喫茶店に連れて行った。

珈琲が格別に美味いと、友人から聴いていた店だ。

喫茶店までの雑踏を、君と並んで歩いた。

君の若草色のスカートがふわふわとして可憐だった。

その店は通りの角の、大きなビルの一階にこじんまりとあり、そうと言われなければわからないような店だった。

看板も、軒下の奥まったところに置いてあった。

けれども、そこに記されたレトロチックな書体には何か重厚な、威厳めいたものを感じた。

よしっと背筋を伸ばし、僕はステンドグラスのはめ込まれた、これもまた重厚な扉を引いた。

かららん、と軽やかな音が鳴った。

「まあ、素敵」

君は吐息交じりにそう呟いた。

店内は外装から想像するよりも広く、西洋の屋敷を再現したような洒落た造りだった。

濃密な珈琲の香りと微かな煙草の匂いが、鼻孔をくすぐった。

僕らは店員に案内されて、奥のテーブルに着いた。

ワインレッドの布張りの椅子は、座り心地がとてもよかった。

何より、そこに座る君の上品な佇まいが、少し驚いてしまうくらい、美しかった。

「何にしようかな」

君は無邪気な様子でメニューをパラパラと捲っていた。

二人でメニューを眺め、しばし逡巡し、結局ブレンド珈琲を2つ頼んだ。


やがて僕らのもとに湯気のたつ、2つのコーヒーカップが運ばれてきた。

白い生地に、精巧な赤い薔薇が描かれたコーヒーカップだった。

机に置かれたカップはオレンジの灯りに照らされて、優しい影が差していた。

ふっと、君に目を移すと、同じように灯りに照らされたうっとりとした微笑みがあった。

僕は、思わず目をそらし、カップを持ち上げて珈琲を飲んだ。

ほろ苦い香りが口いっぱいに広がった。


それからしばらくは、最近読んだ小説について、展開がありきたりだとか、心理描写が秀逸だとか、他愛もない批評をしていた。

気づけば、カップは空になっていた。心を落ち着かせようと、煙草に火をつけた。

小心者の僕は、この煙草が終わったら、なんてまたそんなことを考えていたのだ。

君は時折、店内の雰囲気を楽しむように、壁の絵画やら、立派な焙煎機やらに目をやって、

「こんな素敵なお店、知らなかったわ」

と心底感動した声色で言った。

気のせいか、煙草が終わるのはいつもより早かった。

手元の灰皿を覗いてみると、小さな灰の山が出来上がっていた。

少しの沈黙が訪れた。今だ、と思った。

「もし、僕が死ぬようなことがあったら、その時は僕について、君が書いてくれないか」

告白、のつもりだった。しかしあまりにも婉曲的だった。

君は軽く首を傾げて、不思議そうに僕を見つめた。

僕は少し焦ってしまって、

「ほら、敬愛する作家が死んだとき、小説家は追悼文を書いたりするじゃあないか。あんな風に。君の軽やかな文章が好きだから、僕のことを君の文章で書いてほしい」

言い訳みたいにしどろもどろになって言った。

君は得心がいったように、たおやかな唇に笑みを浮かべ

「あら、私、あなたについて書けるほどあなたのことを知らないわ」

不敵にそう言った。

「それなら、僕のことをもっと知ればいい。知ってほしい。君のことも、もっと知りたい。君に僕のすべてを捧げるから」

僕はやけくそになって言った。

言ってから、しまった、と思った。なんて気障な台詞だ。

いっきに体が熱を帯び、心臓が激しく脈打った。

「それ、告白のつもり? まるでプロポーズみたい」

的を射て、意表を突いた君の言葉に、僕はことさらにどぎまぎした。

君はゆっくりとカップを持ち上げ、静かに口を付けた。

そうして、口元から離し、

「それじゃあ、もし、私が先に死ぬようなことがあったら、あなたが私について書いてくれる?」

威厳を取り戻そうと、僕は鷹揚にうなずいた。

「もちろんだ」

開いた口はからからで、きちんと声が出ていたかはよくわからなかった。

君は、満足したように手に持っていたカップをソーサーに置き、

「それじゃあ私が、あなたを目いっぱい幸せにしなくちゃ。先に死なれちゃあ、面倒くさい」

一瞬、時間が止まってしまったのかと思った。

僕はきっと間抜けた顔をしていただろう。

君は勝ち誇った顔をしていた。

実際のところ、君の勝ちだった。

「まず、煙草は辞めてよね」

君は両手で頬杖をついて、少女のような笑顔で言った。

その後、僕らはショートケーキと珈琲を追加で注文した。

苺の甘酸っぱさが、心に沁みた。

確かに、珈琲は今まで飲んだどんなものより格別に芳醇で美味かった。



そして、あれから六十年余。

僕は今、こうして君について書いている。

そう、君の勝ちだ。

僕は、最後の最後まで君に完敗だった。

敗者の僕は潔く負けを認め、書き綴ろうと思う。

愛しい君について。


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君について 岩﨑 史 @fumi4922

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