キスと襲来

 結局、沙由が寝返りを打ってくれるまでの小一時間ほど、添い寝から解放されることはなかった。


 残りの時間は、出来る限りの看病をして過ごし、翌日、金曜日になった。

 ピピッという機械音と共に、体温計が沙由の体温を計測する。表示された数値を見て、俺は僅かに顔をしかめた。


「37度3分か。まだ安静にした方がよさそうだな」

「だ、大丈夫です。涼太くんのおかげでもうすっかりよくなりましたから!」


 胸元の前でグッと両手を握りしめて、沙由は万全アピールをする。

 だが、俺は首を横に振って、体温計をケースの中にしまうと。


「無理して熱がぶり返すかもしれないだろ。今日一日は安静にして完治しとかないと」

「でも」

「一応、俺も今日学校休むからさ」

「ほんとですか。じゃあ安静にしてます!」

「現金だな……」

「えへへ、涼太くんと居られるなら、学校とかどうでもいいです」

「よくないからな。ちゃんと勉強して、良い大学行かないと」


 一概には言えないけど、良い大学に行くことは重要だと思う。高い学歴を持っていた方が、後で応用が効くしな。


 大人になって、勉強しておけばよかったと後悔するくらいなら、今のうちに真面目に勉強しておくに越したことはない。


「そうですね」


 だが沙由から返ってくる言葉は、わずかに覇気がなかった。それは、沙由が勉強嫌いだから、ではないだろう。

 俺が東京の大学を目指していることに起因している。


 俺はコホンッと咳払いすると、空気を入れ換えた。


「とにかく今は安静にしよ。何かしてほしいことある?」

「あ、じゃあ添い寝を──」

「それは昨日散々やったでしょ」

「むう。だったら……」


 ん、と唇を俺に突き出してくる沙由。


 まぶたを落として、俺がキスするのを待ち遠しそうにしている。

 熱に浮かされているせいか、沙由のタガが少し外れた感がある。事あるごとに、キスをせがんでくる。


 俺は少し悩んだ後で、深呼吸すると沙由の口元にそっと自分の口を合わせた。時間にしては、一秒と満たない接触。ただ、俺も沙由も顔が真っ赤になっていた。


「……ッ」

「も、求めてきた方が顔赤くしてどうすんだよ」

「涼太くんも顔赤いですから! というか、ホントにしてどうするんですか!」

「え? しちゃダメだったの?」

「い、いいんですけど……涼太くんの事だから、どうせヘタレるのかと」

「最近の俺はそこそこやる男に成長してるんだよ。舐めてもらっちゃ困る」

「へえ。じゃあもう一回お願いします。もう一回もう一回」

「はいはい、また今度な」

「あ、やっぱりヘタレじゃないですか! 逃げないでくださいよ!」


 俺が椅子から腰を上げて、部屋を後にしようとすると、むすくれた表情の沙由が引き止めてくる。


 だが、あまり過度な要求をされても困る。キャパオーバーするっての。




「涼太くん涼太くん」

「ん?」

「見てください。36度9分です。熱引きました」

「まだ万全ではないだろ」

「いえ、もう大丈夫です。まだ時間ありますし、今からデートしませんか?」

「せっかく下がってきてるんだから、無理するなって」

「平日の昼間からデートできる機会、そうそうないです。チャンスですよ」

「そりゃ、まぁそうだけど」


 現在時刻は13時を半分ほど回ったところ。

 世の学生諸君は、午後の授業が開始し、睡魔と格闘している頃合いだろうか。


 平日の昼間から時間を持て余したこの機会は、貴重といえば貴重。だが、病み上がりのカノジョを連れて、デートをする気は当然ない。

 というか、俺と沙由の場合、デートというデートをそもそもした事がなかった。

 沙由はむすくれた表情を見せると、


「じゃあ、今日がどうしてもダメなら、今度の土日にデートしてください」

「それはいいけど」

「絶対ですからね。ドタキャンとかされたら、私、精神的に病みますから」

「しないって。大体、一緒に住んでんだからドタキャンも何もないだろ」

「どうですかね。私、三時間くらい前から待ち合わせ場所で待機する所存ですし」

「なにその無駄すぎる時間」

「あれ、知りませんか? 待ち合わせは待ってる時間こそ至高なんですよ。待たされる時間が長ければ長いほど興奮します」

「ただの変態じゃねぇか」

「でも、涼太くんはそんな私のことが、好き、なんですよね?」

「ここで好きって言うと、俺までヤバいやつになりそうなんだけど……」


 俺は頬をひくつかせながら、僅かに身を引く。

 沙由は小さく首を傾げると、不安を瞳に宿して訊いてきた。


「じゃあ嫌いなんですか?」

「え、いやそりゃ、に決まってる」

「ちゃんと言ってほしいです」

「あーもう、好きだよ。好き好き大好きです」

「えへへ。私も好きです。涼太くんのこと。大大だーい好き」

「わ、わかったから。まだ寝とけって」


 俺は頬に朱を差し込むと、沙由から目を逸らし、布団をかけ直す。

 だが、沙由は楽しそうに俺を捉えると。


「もう充分寝たので眠くないです。あ、でも涼太くんが添い寝してくれたら寝れる気がします」

「好きだなそれ。そんなに添い寝されて嬉しい?」

「嬉しいですよ。涼太くんを近くに感じられますし。涼太くんは、私と一緒に寝るの嫌ですか?」


 その上目遣い反則では……。

 そんな庇護欲を誘う顔をされては、俺はもうただただ照れるしかなかった。


 俺がつい顔を背けて、黙り込んでしまうと、


 ──ピンポーン


 沈黙を嫌うように、タイミングよくインターホンの音が、室内に響く。


 俺はほっと一息つくと、椅子から立ち上がった。


「あ、まだ質問の答え聞いてないですよ」

「い、嫌だったら初めから添い寝なんかしないって」


 俺はポツリと呟くように言うと、足早に部屋を後にした。恥ずかしさから沙由の顔は見れなかった。


 大方、来訪者は通販の配達員か何かだろう。あまり待たせても悪いので、俺はいきなり玄関を開ける。

 だが、扉を開けた先にいたのは、俺の予想を裏切る人物だった。


「──え」

「あ、涼ちゃん。よかった! てっきりこの時間は家にいないかと思ったんだけれど、一応来てみて正解だったわ」


 栗色の髪を、胸元のあたりまで伸ばし、毛先がカールしている女性。歳を感じさせないほど、抜群のスタイルをした彼女は、日比谷かなで


 沙由のお母さんだった。

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