伏線回(活かすかは未定)

 耳かきを経て、多少を妙な雰囲気にはなったが、あれから沙由のことを『日比谷』と呼ぶことはなかった。

 無事、名前呼びへの移行も済んだため、『名字で呼んだら罰ゲーム』のルールは撤廃になった。ちなみにご褒美と称して、頬にキスされた。沙由は俺の理性を壊すのが得意らしい。


 そして現在、翌朝。玄関にて、靴を履き終えこれから登校しようという時だった。


「涼太くん、ネクタイ曲がってますよ」

「あ、ほんとだ」

「じっとしててください」

「いや自分でやれるよ」

「私にやらせてください」

「そうか? じゃあ任せる」


 顎を突き出して、ネクタイを調整する余裕を作る。

 沙由は俺の胸元に手を伸ばすと、ネクタイに触れた。普段自分でやっているからこそ、誰かにやってもらうのはこそばゆかった。


「新婚さんみたいですね」

「……っ。そうかな」

「そうですよ。あ、そうだ。これからは毎日私が涼太くんのネクタイつけてあげます」

「いいよ、そんな……てか、ネクタイ結ぶの上手くない?」

「一時期お父さんのネクタイをやってあげてた事があったので、それで上達しました」

「ふーん……そうなんだ……」

「ホントにお父さん相手ですよ? 他の人にやったりはしてません」

「いや疑ってるわけじゃない、けど。ただ、なんとなくモヤモヤする」

「妬いてくれてるんですか?」

「かもしんない」

「……っ。で、出来ました」


 沙由は湯気が出そうなほど顔を赤くすると、サッと俺から距離を取る。

 俺も俺で、自分の発言を思い返し顔を赤くする。沙由の父親相手に嫉妬するとは、我ながら情けない。恋愛すると馬鹿になるな、マジで。


 そうして甘ったるい空気が充満し始めた──その時だった。


 リビングの扉が開く。

 仏頂面をした妹の美咲が現れ、ぶっきら棒に切り出してきた。


「お兄、いつになったらその人と別れるの」


 退屈そうに腰に手を置いて、ジト目で俺と沙由を睨んでくる。

 さっきまでの空気は霧散し、俺の身体に緊張が走る。


 妹からのオブラートのない発言に、当惑気味に返事した。


「今のところ別れる気はないかな」


 沙由の目の色が変わる。

 制服の袖を強めに握って、恨めしそうに。


「今のところじゃなく、一生ですよ涼太くんっ」

「一生って重すぎでしょっ」

「重くないです。私は涼太くん以外に結婚相手は考えられません」

「ふーん……案外こういう人が冷めやすいんだよね。しれっと浮気したりして」

「なッ……根も葉もないこと言わないでください。私は死ぬまで涼太くん一筋です」

「どうだか」


 美咲は嘆息交じりにこぼすと、俺のもとにやってくる。俺の耳元で、そっと囁いてきた。


「わたしの友達、お兄に紹介してあげよっか。絶対お兄には合ってると思うな」


 妹から、思わぬ提案をされる。

 耳ざとく美咲の声を聞き取った沙由が、割り込んでくる。


「ぜ、絶対ダメですから! そんなの」

「あなたには言ってない。わたしはお兄に言ってるの」

「む……なんなんですか。毎回毎回私に突っかかってきて!」

「突っかかってるのはそっちでしょ!」

「涼太くんは私の彼氏です。友達紹介するとかやめてください」

「お兄はわたしのお兄だから。兄のカノジョは妹が決めるもんでしょ」

「どこの世界の常識ですか。聞いたことないですよそんなこと!」

「じゃあわたしが第一人者でいいよ。新しい常識を作るまでだし」


 美咲も本気で言っているわけじゃないと思うが、沙由への敵対心はすごい。


 ほんと、なんでこんな仲が悪いのやら──


「おい、朝から喧嘩すんなって。もうそこら辺で」


『誰のせいだと思ってるの(ですか)!?』


 二人、声をハモらせて俺にぶつけてくる。

 訂正、やっぱり結構仲いいんじゃないか?



 ★



「わたし、しばらく友達の家に泊まることにする」


 学校から帰宅した後のことだった。

 手洗い等を済ませ、リビングに入ると美咲が開口一番に告げてきた。

 まだ沙由は帰っていないようだ。


 俺は冷蔵庫からお茶を取り出し、コップに注ぎながら返事をする。


「ん、了解」

「え、それだけ?」

「それだけって、いつもこんなもんだろ」

「違う、なんかいつもより何か素っ気ない。わたしのこと邪魔だから、出て行ってくれて内心うれしいんでしょ」

「は? そんなことねぇって」

「お兄、ちょっと前までシスコンだったのに……」

「おい待て。誰がいつシスコンだったんだよ」


 聞き捨てならないことを言われる。

 俺にシスコンの気など、これぽっちもない。


「まぁとにかく、これからまた家を開けるけど……くれぐれも変なことしないでよお兄」

「しないよ。そのくらいはちゃんと弁えてる」

「ならいいけどさ」

「いつから友達の家にお世話になるの?」

「今からだよ。お兄が帰ってきたら、すぐ行こうと思って」

「随分と急だな」

「へへっ、実は、前にアメリカ行ったとき友達になった子が帰国するみたいでさ。一人暮らしみたいだから、ルームメイトが欲しいみたい。元々、それが目的で沖縄旅行切り上げてきたし」

「お前、コミュ力やら行動力やら運やら何かと規格外だよな……」


 自由気ままに色々出かけて、あまつさえ外国で友達まで作るとは……本当に同じ血が流れているとは思えない。


「まーね。神に愛されてるんだよわたしは」

「かもな。……一応確認するけど」

「ん?」

「その友達、男ではないよな?」

「当たり前じゃん。なにお兄、心配してくれたの?」

「確認しただけ。もし男友達の家に泊まるとかだと、親父ブチ切れそうだし……俺に火種飛んでかねない」

「あはは、確かに。あ、そうだお兄も一緒に来る? お人形さんみたいに可愛いから、きっと気に入ると思うな」


 柔和な笑みを浮かべる美咲。

 美咲が褒めるってことは、本当に美少女なのだろう。


 少しだけ興味が沸いたが、沙由に余計な誤解を生みたくないしな。下手に接点を持つのは避けよう。


「いいって。どこかで偶然会ったらその時紹介してくれ」

「勿体ないなー。ま、お兄が乗り気じゃないならいいや。じゃ、行ってくるね」

「あいあい」


 ひらひらと手を振ると、美咲が手を振り返してくれた。

 また、沙由との二人暮らしに逆戻りか。少しだけ不安だな。


 美咲がいなくなったとなれば、沙由が暴走しかねない。俺の理性のタガが外れないよう、しっかりと注意せねば……。


 お茶をごくごく飲みながら、そう決意を改める俺だった。

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