名字で呼んだら罰ゲーム前編
「涼太くん。私、もう……限界、です」
それは実に唐突な切り出しだった。
美咲が帰ってきた翌日。リビングにて。
二十時を半分ほど回った頃だった。
ソファでスマホを弄っていた俺の隣に着くと、べったりと腕に絡みついてきた。
こんな場面を美咲が目撃すれば、発狂しそうなものだけど、友達と外食しているためこの場にはいない。
俺はスマホをポケットにしまう。
「限界ってなにが?」
「私も、涼太くんに名前で呼んでほしいです」
「え?」
「涼太くんが、美咲ちゃんのことを『美咲』って呼び捨てにしてるのを聞いて、名前で呼んでほしい熱が再燃しました」
以前、俺は名前呼びへの変更を行ってみたが、結局恥ずかしさが上回って上手くいかなかった。徐々に、名前呼びに移行していこうと結論づけたが、あれからロクな進展がない。
美咲の登場もあり、日比谷は痺れを切らしたみたいだった。
「……じゃあ、さ、
「……っ」
「…………」
「……名前で呼んだ後無言になるのやめよ?」
周囲に居たたまれない空気が流れる。
日比谷は顔全体に朱を注いでいた。普段は、ぐいぐい来るくせに、名前で呼ぶとこの反応はギャップが凄すぎないだろうか。攻撃力特化で防御が紙すぎる。
「そ、そうですね。私も気合い入れるので、涼太くんも頑張ってください」
「そんな大ごとにされると余計やりづらいって」
「あ、じゃあゲーム形式にしますか?」
「ゲーム形式?」
「はい。涼太くんが、私のことを『日比谷』と呼ぶ度に罰が与えられます」
「理不尽すぎる」
「その代わり、一度も名字で呼ばずに済めば、ご褒美をあげます。どうですか?」
クリッと大きく開かれた瞳で見つめられる。
ご、ご褒美か……。
「それならルールは厳正化しよう。一日言わずに過ごせたらクリアってことでいい?」
「いいですよ。じゃあ、明日からスタートで。明日から日比谷って呼んだら罰ですからね」
「わかった。でも罰って?」
「それは秘密です」
日比谷は口元に人差し指を置くと、愉しげに笑った。
これは今後、名字では呼べないな……。
★
翌朝。俺がリビングに入ると、日比谷がキッチンで朝食の準備を始めていた。
ふわぁっと欠伸をかみ殺しながら、
「おはよう日比谷」
「あっ、早速言いましたね」
「え……あっ……」
昨日、名字呼びを封印したはずだったが、寝起きですっかり忘れていた。
普段通り、名字呼びをしてしまう。
「涼太くん、罰ゲームです」
「寝ぼけてたから大目に見ては──」
「あげません。諦めてください」
「まぁこれは俺が悪いしな。それで罰ゲームって?」
俺は覚悟を決めると、罰ゲームの詳細を訊ねる。
昨日は、罰ゲームの内容までは教えてくれなかった。
日比谷は、ニコリと笑みを浮かべると、ひょいひょいと手招きしてきた。
「こっちに来てください」
「お、おう」
少し畏怖を覚えつつ、キッチンへと足を運ぶ。
隣に着くと、日比谷は俺との距離を一気に詰めてきた。
べったりと正面から抱きついて、俺の胸元に顔を埋めてくる。
「私と一分間ハグの刑です」
そして、俺への罰ゲームの内容を告げてきた。
どうしよう。なにも罰になってないんだけど。完全にご褒美タイムなんだけど。
「ひ、日比谷さん? これ罰になってないけど」
「そうですか。まぁ私がしたいことをやってるだけなので、罰になってないならないで構いません」
「構わないんだ」
「それより涼太くん、また私のことを日比谷って呼びましたね。しかも今度は、敬称までつけて」
日比谷が俺に抱きついたまま、上目遣いで見つめてくる。
ついさっきやったミスを、このスパンで侵してしまった。俺、学ばない人間である。
「次はどんな罰を……?」
「私のおでこにキスです」
「……っ」
「ホントは、マウスとマウスがいいですが、涼太くんが駄々を捏ねそうなので易しめにしてあげました」
「易しめではないと思うけど」
「ほら、涼太くん、ちゃんと罰を遂行してください」
まぁおでこくらいなら、ヘタレの俺でもどうにかなるか。
俺は小さく深呼吸すると、日比谷の前髪を掻き上げる。シミ一つないおでこに顔を近づけていく。
そっと、口づけすると、彼女の顔から離れた。
「……こ、これでいい?」
「はい。もっと長くてもよかったですけど」
「それなら、先に言っとくんだったな」
「次からはそうします」
「いやもう、日比谷って呼ぶ失態はしない」
「あ、今のもアウトですよ」
「は? 今のはセーフだろ。それは流石にルールが厳しす……ぎ……ない──」
途端、俺の声が尻すぼみになっていく。
とある人物を発見したからだ。彼女はリビングの扉のところで、ゴミを見る目でこちらを見ていた。
「み、美咲……」
現状を端的に告げるならば、キッチンにて俺と日比谷が抱き合っている。
イチャついてる現場を妹に目撃され、俺はかつてない焦燥に駆られていた。
「あ、美咲ちゃんおはようございます」
「朝からなに
「すみません。忘れてました」
「やっぱりどっちかが家を出てった方がいいみたいだね……!」
再び、日比谷と美咲によって揉め事が始まる。
結果はまぁドローだったが、俺の精神が疲弊した。
美咲の目があることは、しっかりと肝に銘じておこう。そう思う俺だった。
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