同棲
「私と同棲してください」
そう言って彼女は、雑に切り取られた長方形の紙を渡してくる。案の定、そこには『なんでも言うコト聞く券』と書かれていた。
改めて説明する必要はないと思うが、一応。
これは、小学生時代に俺が日比谷にあげたものだ。その名の通り、俺になんでも言うことを聞かせることが出来る券である。
「拒否権は──」
「ありません」
そして、拒否権はない。
その気になれば、知らぬ存ぜぬを突き通したり、今更そんなの持ち出されても困ると拒絶することは出来る。しかし、こればっかりは超個人的な俺の気持ちの問題なのだけど……一度あげたものを後から無かったことにしたくない。
もちろん、日比谷がそれでもいいと言ってくれるなら話は別だけれど。
今の彼女を見る限り、それは期待できないだろう。
俺は額に手を置き、頭を悩ませる。すると、日比谷が下から覗き込んできて、
「それに、同棲する事は私の安全にもつながるんですよ」
「安全? どういうこと?」
「だって、今ウチには誰もいません。なので、私が一人で暮らす事になります。それって結構危ないと思いませんか? もしかしたら、野蛮な人に襲われるかもしれません」
「いや、日比谷んとこはALS〇K入ってんだろ。俺が一緒にいるよりよっぽど安心……」
俺がそう切り返すと、日比谷はムスッと目つきを変える。小さく頬を膨らませ、睨みつけてきた。
「私、一人なんです。危ないんです! そう思いますよね? 涼太くん」
「あ、はい……そう思います」
「ですよねっ。じゃあ、どうするべきだと思いますか?」
「えっと……友達の家に泊まる、とか」
「ふざけてるんですか」
「いや、ふざけてないけど……」
俺の代替案に対して、日比谷は微笑を湛えて対応してくる。だが、目は一切笑っていなかった。
俺は右手で頭を抱えながら、
「もし同棲なんかして、バレたらやばいんだってホントに……」
「心配いりませんよ。急にお母さんが帰ってきたり、お父さんが私の様子を見にきたりしない限りは」
「それが心配なんだって……!」
「もう! 私、コレ使ってるんですからね? ちゃんと言う事聞いてください! なんでゴネるんですか!」
日比谷が『なんでも言うコト聞く券』を俺に突き出してくる。それを出されるとコチラとしても弱い。
そろそろ覚悟を決めるときか。
まぁ、結婚と違って周りを巻き込む大事にはならないし……俺がキチンとモラルを守ればいいだけの話、か。
そう、胸の中で自分に強く言い聞かせる。
「……わかった。同棲しよう」
「ホントですかっ。やったあ」
日比谷が黒ずんでいた瞳に光を灯し、表情を明るく変える。
「その代わり、あくまで一時的にだからね。奏さんが帰ってくる頃には同棲は解消。いい?」
「はい、了解です」
ピシッと敬礼のポーズを取る日比谷。
そんなこんなで、俺たちの同棲が決定した。
★
「涼太くん。ご飯にしますか? お風呂にしますか? そ・れ・と・も」
「風呂」
付き合い始めて一日目にして、同棲することになった。もはや、この急展開に頭はついていきそうにない。
二階建ての一軒家には、俺と日比谷を除いて他に誰もいない。
もし、こんな状況を男性諸君に話せば、九割方羨ましがられることだろう。羨望が怨念に変わって、呪い殺されるまである。
そんな、普通に考えたらあり得ないシチュエーションだからこそ、俺は冷静でいなくてはならない。少しでも理性を失えば、取り返しのつかないことになりかねないからな。
だから、新妻が言いそうなこそばゆいセリフを吐く日比谷に対しても、俺は冷静に対処していた。
「むぅ、最後まで言わせてくださいっ」
「日比谷。お前のためを思って助言しておくが、もう少し身の危険ってのを考えた方がいい」
「と言われましても。涼太くんなら安心ですし」
「それはちょっと傷つくな……」
「あ、いえ! そうじゃなくて、いつでも準備は整っているという意味です」
「マジか」
「マジです」
マジかよ。いいのかよ。
俺の頬に朱が注がれていく。
思わず黙りこくってしまうと、日比谷がにひっと悪戯めいた笑みをこぼした。
何事かと思えば、彼女は再度、同じ文言を繰り返してくる。
「涼太くん。ご飯にしますか? お風呂にしますか? そ・れ・と・も」
「や、やっぱご飯にするよ。てか、俺が作るよ。日比谷は楽にしてて」
「……そーですか」
日比谷は少し退屈そうな反応をしていたが、俺はこれ以上余計なことは言うまいと口を閉ざし、キッチンへと向かった。
俺はヘタレなのだと、改めて実感した。
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