○○してください
長年続けてきた呼び方を、急に変更するってのは一朝一夕にはいかない。特に、十年以上の付き合いになる幼馴染相手だと尚更だと感じた。
名前で呼ぶ方はこそばゆいし、呼ばれる方だって居た堪れないのだ。
けれど、恋人である以上、名字で呼ぶってのは少し変な気がする。中には、名字呼びのカップルもいるとは思うが、少数派だろう。
やっぱり徐々にでいいから、名前呼びに順応していく必要はあると思う。
とはいえ、焦って名前で呼ぶ必要もない。段々と一歩一歩適応していこう。
「涼太くんは、恥ずかしがり屋さんですからね。仕方ありません。今は特別に名字呼びでも許可します」
「照れてたのは日比谷の方だった気がするけど」
「ち、違いますっ。私はただ嬉しくて舞い上がっちゃっただけで……」
「なら、名前呼びを敢行するか?」
「ええ、どんと来いですっ」
「いやそんな気構えられると逆に呼びにくい……」
胸を張って、さあ来いと覚悟を決める日比谷。
明らかに過剰な構えに、俺はため息まじりに言う。
名前で呼べるようになるのは当分先になりそうだ。
★
「そういえば、
ふと、日比谷がそんなことを訊ねてきた。
美咲……一つ年下の俺の妹のことだ。麦茶を一口飲んだ後で、彼女の質問に答える。
「美咲なら昨日からちょっと出掛けてる。だから今は家に居ないよ」
「へえ、そうなんですかっ」
「嬉しそうだな」
「い、いえ、喜んでるわけでは!」
日比谷は過剰に両手をブルブルと振る。けれど口の端が緩んでいた。
日比谷と美咲は折り合いが悪い。
顔を合わせれば、視線で火花を散らせるし、口を開けば数秒後には喧嘩を始めている。どうしてそんなに仲が悪いのかは、イマイチ分からないが。
まあ気が合わない人間ってのは多かれ少なかれ存在するからな。日比谷と美咲は性格が合わなかったのだろう。
「ちなみに、いつまで帰ってこないんですか?」
「いつまでって言ってたかな。まぁ例によって一ヶ月くらいは帰ってこない気がするけど」
「てことは、その間涼太くんは家でずっと一人ってことですよね?」
「まあそうなるな」
ウチは両親共働きで、父親は海外に出張中。母親は九州らへんを転々としているため家には滅多に帰ってこない。
そのため、俺と妹の二人暮らし状態が続いていたのだが、昨日から妹が旅行に出かけたので、今は一人だ。
ちなみに、少し話は逸れるが俺の妹はニートみたいなものだ。
たまたま買った宝くじで億万長者になった彼女は、自由奔放に生きている。
高校を放ったらかしにして、沖縄旅行を決行しているくらいだからな。まったく、羨ましいヤツである。
俺が妹の現状を羨望しているときだった。
「──同棲しませんか? 涼太くん」
突然、耳を疑う言葉が正面から飛んできた。
前触れと呼べるものはなく、彼女は普通の会話をするみたいに提案してきた。
俺は、まぶたをパチクリと開け閉めする。ぎこちなく笑みを作ると、当惑気味に声を上げた。
「今、同棲とか聞こえた気がするけど、聞き間違いだよね?」
「安心してください。涼太くんの耳は正常です」
「いっそ異常であって欲しかった」
「む。涼太くんは私と一緒に暮らすの嫌なんですか?」
むすくれた顔の日比谷が、俺を責め立てるように言う。
ホント、今日のコイツはどうしてしまったのだろう。いきなり結婚とか言い出すし、今度は同棲ときた。
冗談であってほしいけど、日比谷の顔を見る限り本気だろう。
おでこの生え際のあたりを人差し指で掻きながら、
「嫌とかじゃなくて、常識的におかしいだろ? 高校生のしかも付き合い立てで同棲とかさ、展開が早過ぎる」
「テンポが早いのは悪いことじゃないと思います」
「第一、同棲ったって
奏さん──日比谷の母親のことだ。
俺の親は放任主義だし、家にもロクに居ないわけだから同棲したところで文句を言ってきたりはしない。むしろ、「よくやった」とか褒めてくるくらいだろう。
けど、それはウチが例外的なだけだ。
普通、高校生の娘が同棲なんて言い出したら反対する。そんなのは目に見えていることだ。
「心配いりません。お母さん、今、家に居ないんです。なので、同棲したところでバレません」
「居ないって、なんで?」
「お仕事の関係で今朝から北海道の方に行ってるんですよ。それで、二週間くらい家を空けることになってて」
「なるほど……。でもダメなもんはダメ」
「えぇ、なんでですかぁ?」
日比谷が唇を上に尖らせながら、不満を漏らす。
だが、このまま日比谷に流されてはダメだ、絶対。やはり、ある程度のモラルは大切にしておかなくては。
それに、
「もし同棲なんかしてバレたら、親父さんに何を言われるか……分かったもんじゃねえし……」
俺はだんだんと声のトーンを下げていく。
想像しただけで身の毛がよだった。
日比谷の父親は、日比谷のことを溺愛している。
大事な一人娘だからか、日比谷に近づく男は何人たりとも許さないとかいう過保護っぷり。
今は別居中だけど、親父さんにバレないという保証はない。もしバレたら、半殺しは逃れられないだろう。
ていうか、恋人同士になっている時点で、既にもうヤバい……。想像するだけで、背筋に寒いものが走る。
「大丈夫ですって。バレませんよ。そう簡単に」
「フラグを立てるな。それに、バレなきゃいいって問題でもない。だから同棲なんかダメ、絶対」
「むう……わかりましたよ、涼太くんの分からず屋」
日比谷が頬を膨らませて、拗ねたように言う。
でも、助かった。変にゴネてこられたら面倒だからな。
俺がホッと一安心する中、日比谷は……あれ? なにポケット弄ってんだ?
いや、まさかな?
額から冷や汗がにじみ出る。
「ちょ、ちょっと日比谷……さん? なにしてるの?」
「分からず屋の涼太くんに言うことを聞かせようと思いまして」
日比谷はむすくれた顔から一変、ニッコリと陽だまりのような笑顔を見せる。嫌な予感がした。
そして、つい数時間前にも見たあの紙っぺらを取り出すと、
「涼太くん、私と同棲してください♪」
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