結婚してください

「私と結婚してください」

「は?」

「ですから、私と結婚してください。涼太りょうたくん」


 五月の下旬。土曜日の昼下がり。

 突然来訪してきた幼馴染――日比谷沙由ひびやさゆは、確かにそう言った。少なくとも、玄関先で飛び出ていいワードではなかった。


 影が落ちるほど長いまつ毛。柔らかそうな薄桃色の唇。鼻筋は通っていて、目はくっきりと見開かれている。


「い、いきなりなに言ってるの? 結婚って聞こえた気がすんだけど」


 日比谷は俺の幼馴染。


 にも関わらず、いきなり『結婚して』とお願いされては混乱する。俺は小首を傾げながら、ぎこちない笑みを浮かべるのが精一杯だった。


 しかし日比谷は、俺の動揺など気にも留めず、頬に朱を差し込みながら。


「好きだから結婚して欲しいんです」

「好きって……は?」

「一人の男性として、涼太くんのことが好きです」

「ま、まじ?」

「はい。まじです」


 日比谷は神妙な顔でコクリと首肯する。

 そして、後ろ手に持っていた紙を見せてきた。


「それって……」

「婚姻届です」


 確かに彼女の手にあったのは婚姻届だった。多分本物だ。

 婚姻届を受け取り、さっと全体に目を通す。『妻になる人』の欄はすでに記入が済んでいた。


「じょ、冗談だろ? 第一、俺たちまだ付き合ってすらないし……」


 俺は右へ左へ目を泳がせる。


 結婚ってのは恋人たちの終着点だ。その過程をすっ飛ばして結婚なんて正気の沙汰じゃない。


「じゃあ、付き合いましょう。そして結婚してください」

「いや、そういうことじゃくてさ。俺たちまだ高校生だし、それにほら経済力だって……」

「大丈夫です。涼太くんは私が養ってあげます」

「それだと世間的に死んじゃうよ俺。大体、バイトじゃ養うにも限界あると思うけど」

「これでも花の女子高生ですからね。援助してくれるパパはいっぱいいるんですよ? あんまり褒められたことではありませんが、収益は見込めます!」

「完全にアウトなヤツじゃねぇか!」

「冗談です。籍さえ置いてくれれば大丈夫です。一緒に暮らすのはちゃんと生活の基盤が整ってからでも」

「だったら、今すぐ結婚する意味もないだろ」


 しかし、日比谷は首を横に振る。


「私は、涼太くんと結婚がしたいんです」

「なんで?」

「理由を話したら結婚してくれますか?」

「約束はできない」

「じゃあ話しません」

「む。……とにかく、結婚なんてそう簡単にするもんじゃないよ。悪いけど、日比谷と結婚はできない」


 俺は後頭部をガシガシ掻きながら、婚姻届を日比谷に突き返す。

 だが、彼女はいつまで経っても婚姻届を受け取ってはくれない。


 それどころか、「この手はあまり使いたくはありませんでしたが……」なんてぼやきながらポケットから小さなペラ紙を取り出してきた。


「仕方ありません。涼太くんの意思が固いようなので、これを使用します!」

「……ッ。そ、それって」


 俺は日比谷の手元にある紙を注視する。


 その汚い字には見覚えがあった。


 たしか……小学校低学年くらいの時に日比谷にあげたやつだ。

 マジックペンで『なんでも言うコト聞く券』と書かれている。


「そうです。私の九歳の誕生日に涼太くんがプレゼントしてくれたものです」

「……それは、わかるんだけど、なんでそれを今見せてるのかな……?」

「もちろん、涼太くんに言うことを聞いてもらう為ですよ? ここぞって時のためにずっと大切に保管してたんです」


 俺は冷や汗を浮かべる。嫌な予感がした。


「い、いやいや……さすがに冗談だよね?」

「いえいえ、本気です♡」


 日比谷は今日一番の……いや今年一番の満面の笑みを見せると、その茶色の瞳をキラキラと輝かせて、



「私と結婚してください、涼太くん」

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