第89話 心配なことは沢山あって

 修学旅行最終日は自由行動となっていた。単独行動は禁止のため、秋鷹は班員と共にワカサギ釣りに行くことにした。観光地を巡って何か食べ歩きをしてもよかったのだが、秋鷹含め班員は皆、初日のバスツアーですでにお腹いっぱいだった。

 ワカサギ釣りといえば、寒い冬の朝、厚い氷の上に穴を開けて長時間ひたすら待つ――というイメージだが、秋鷹たちが向かった湖は結氷していなかった。その深さと容積、加えて時期的な影響もあってまだ凍っていないのだろう。

 

「ここの湖が全面凍ると、御神渡おみわたりっていう、まるで神様が歩いた跡のような現象が見られるらしいよ」


 湖を眺めながら、みかどが意味不明なことを言った。


「なんだそれ」


「凍った水面の上に、何かが通ったような亀裂が入るんだ。ほらここって、上社と下社に挟まれてるだろう? その亀裂が、上社から男の神が渡って、下社にいる女の神のもとへ通った跡とも言われてるんだよ」


「それが御神渡りか」


「そう。ちなみになんだけど、ここの湖は『君の庭』の聖地でもあるらしい」


「君の庭って、ちょっと前に流行ったあのアニメ映画のことだよな?」


「うん。すごかったよね、あれ。なんか懐かしい」


「確かに」


 しかし、誰と観に行ったのかは、もう忘れてしまった。必要のない記憶だった。

 秋鷹はマフラーで口元を隠し、寒さに身を縮める。目線の先には、温かな日差しを反射する鏡面があった。

 きらきらと散りばめられた銀色の光が、自然と目を細めさせる。眩しくて、思わず目を背けてしまいそうになった。

 湖の遠く向こう側には、朧気ながらも山々のシルエットが見える。山頂には雲がかかっていて温かそうだ。


「ところで、あいつらはなにしてんだ?」


 視線を移すと、少し離れた場所に、腕立て伏せをしている敦がいた。ダウンコートを羽織っているため、額からは汗が滲んでいる。そしてその横で、涼が茫然と湖を眺めていた。黄昏ているみたいだった。


「敦は本当にわけがわからないけど、影井君は昨日なにかあったのかな? 朝からあの調子だよね」


「怖い夢でも見たんじゃないか?」


「あはは、あり得るかもね。でも、それだけじゃない気がする」


 帝は、死んだ魚のような目をしている涼を見て、心配そうな表情をしていた。


「まあ、無理に詮索するのも迷惑になるだけだし、今はそっとしとこうぜ」


「そうだね。もしかしたら、ワカサギ釣りで元気が出るかもしれないし」


 だが、遠くから「あきたか~」というような声が聞こえてきた瞬間、涼がそちらを向いて絶望的な表情を浮かべた。

 見れば、そこには小走りで駆けてくるエリカがいた。後ろにはエリカを追いかけるようにして走る結衣と、そのまた後ろにはゆっくりと歩く杏樹がいる。


「あきたかも釣りしにきたの?」


 ずれたニット帽をかぶり直し、エリカがニッコリと微笑みながら訊いてくる。身長がA4ノートほど離れているため、彼女は上目遣いで秋鷹を見上げる形となっていた。


「うん。そういうエリカも、ワカサギ釣り?」


「もちろんっ。あんあんがスキーで筋肉痛になっちゃったからね~、あまり動かない釣りにしようってなったんだ」


「じゃあ一緒に釣るか」

 

「ちっちっち、だめだよあきたか。あきたかは、審査員なんだから、ボクとゆいゆいの勝負を見守ってなきゃいけないんだよ」


「勝手にやってろよ。俺はのんびり優雅に釣りしてっから」


「ちょっ、なんでそんなに投げやりなの!? 知ってるんだからね! 昨日、あきたかがゆいゆいと――んむぅッ!? んぐぅ~!!」


「エリカの顔って小さいよな。簡単に握りつぶせそう」


 言ってはならないことをエリカが言おうとしたため、咄嗟に、秋鷹はエリカの口を塞いだ。その様子を隣で見ていた帝は、なぜだか楽しそうに笑っている。


「ほんと、一年の頃からそうだけど、二人って仲いいね」


 そう言い放った帝を一瞥し、口塞ぎから解放されたエリカは、


「ぷはっ……はぁ、はぁ……。あっ、いたんだ神宮寺くん」


「ひどくない……!? 最初からここにずっといたよ?」


「人の形をした彫刻か何かだと思ったよ。あ、これ貶してるわけじゃないからね。褒めてるんだよ。ダビデ像」


「なんか、俺と秋鷹との態度に差がありすぎるんだけど、たぶん気のせいだよね……」


「気のせいじゃないよ。ミケランジェロ」


「自覚ありだったんだね。ていうか何その最後の。絶対バカにしてるよね」


 と思わず苦笑いの帝。彼は秋鷹に近づくと、エリカに聞こえないように声を潜めて、


「榎本さんって結構わかりやすいね。彼女、たぶん秋鷹に気があるんじゃないかな」

「知ってるよ」

「あれ、知ってたんだ。なら付き合えばいいのに」

「それが出来ない理由があるんだよ」

「他に付き合ってる人がいるとか?」

「ま、それは追々」

「気になるな……」


 秋鷹が軽くあしらうと、帝が諦めたようにため息を吐いた。そして、


「榎本さんたちも一緒にワカサギ釣りするんだよね。とりあえず、俺は敦たちにそれを伝えてくるよ」


 そう言って敦のもとに向かった帝。おそらく、エリカといるのが耐えられなかったのだろう。

 と、それと入れ替わりで、顔をてかてかと艶めかせた結衣がこちらへやってきた。なぜか勝ち誇った顔をしている。


「やっほ、あきくん」


「うぅ……てかてかビッチ……」


「なにか言ったかな? エリカちゃん」


「ゆいゆいがてかてかビッチの変態って言ったの!」


「やだな~エリカちゃん。わたしは、あきくん以外の人とはえっちなことしないよ?」


 ねー? と結衣は愛おし気に下腹部を撫で、そこに向かって同調を求めた。


「そういう意味じゃない! あ、赤ちゃんが出来たとか聞いてないもんっ」


 ――ん?????????

 エリカの発言に目が点になった秋鷹は、頭の中を疑問符で埋め尽くす。今、赤ちゃんが出来たと言ったのだろうか。


「出来たとは言ってないよ。出来ちゃったかもしれないな~、ってご報告したんだよ?」


「そ、それってゴム着けずにヤッたってことだよね?」


「さあどうでしょう」


 どうだったかなー? わからにゃいねー? と結衣はお腹の中の誰かと対話している。エリカには一瞥も与えず、蕩けた表情で。


「ねえあきたかぁ……! ゆいゆいがこう言ってるのっ。ちゃんと着けたよね? 着けたって言ってよぅ……」


 くいくい、と秋鷹の服の裾を引っ張り、駄々を捏ねた子供のようにエリカが涙目で懇願してきた。


「大丈夫。そういうのはちゃんと気をつけてやってるから」


「ほんと? 信じるよ?」


「うん、ごめんな、心配させて」


「あきたか……」


 ニット帽越しに頭を撫でてやると、エリカは安心したように口元を緩ませた。秋鷹は、ため息をつきつつも結衣を見る。


「結衣、あまり誤解を招くようなこと言うなよ」


「昨日の、まだ残ってるよ」


「おい」


 お腹に手を当てながら、結衣は恍惚に笑っていた。そして、またもやエリカが秋鷹の服を引っ張って涙目になるという、腹立たしい負のスパイラル。

 それは延々に続くと思われたが、帝がこちらに近寄って来ると同時に中断された。とりあえず、彼には感謝しておこう。



※ ※ ※ ※



 ワカサギ釣りはドーム船で行われた。ドーム船とは、湖の上に浮かぶビニールハウス型の船のことだ。

 中には沢山のイスが並べられており、同じように床には沢山の穴が開けられている。釣る方法としては、その穴に餌を突っ込んでワカサギを釣り上げる、といった簡単なものだった。

 餌は赤く染色された小さな幼虫――紅サシだ。ワカサギ釣り用に養殖されたキレイな虫らしいが、見た目はただの芋虫だった。

 杏樹が「思ったより虫に見えないわね」と言っていたが、エリカに「じゃあ針に通してみてよ」と言われると、青い顔をして沈黙してしまっていた。


 ――ともあれ。


 結果、皆平均的に十匹以上は釣れた。一匹も釣れなかったのはぷるぷると震えていた杏樹と、終始放心状態の涼だけだ。帝は百匹以上釣っていた。

 二時間ほどのワカサギ釣りを経験して、まあそこそこ楽しめたと思う。釣ったワカサギを受付ハウスで天ぷらにしてもらい、腹の足しにしたり。ついでにワカサギの持ち帰りもあったため、杏樹が少し嬉しそうだった。帝から五十匹ほどのワカサギを譲り受けたらしい。

 そんなこんなで、時間的にも丁度いいということでお土産を買いに行くことになった。

 

 秋鷹たちが修学旅行に訪れたこの場所は、地域ごとに積雪量が変化する。ワカサギ釣りをしたところや、お土産を買いに行くところはあまり雪が降らない地域だ。そのため、スキー場とのギャップで不思議な気分だった。

 ふと、秋鷹は誰にお土産をあげようかと考える。考えてみれば、お土産を渡す相手が誰一人としていないのだ。強いて言うなら、同じ学校の後輩――涼の妹である影井陽や、生意気な陸上女子の柚木茜くらいだろう。茜に関しては「せんぱ~い、もしかして私のこと好きなんですか?」と嘲笑されそうなので、秋鷹は物静かな陽にお土産を渡すことに決めた。たぶん喜んでくれる。


「それで、来栖さんは誰にお土産を買うの?」


 お土産屋さんの一角。そこに並べられたクッキーを真剣に見つめる杏樹に、秋鷹は声をかけた。杏樹はクッキーに向けられた視線そのままで、哀愁交じりに返答する。


「弟たちよ。私だけ、楽しんでいるわけにはいかないから……」


「少しくらい、羽目を外してもいいと思うけどな。弟君も、きっとお姉ちゃんには修学旅行を存分に楽しんでほしいはずだよ」


「あなたに、何がわかるのかしら」


「これは、心の持ちようなんだけど」と秋鷹は歌うように告げる。「来栖さんが、寂しい思いをしている弟たちに同情して、お土産を渡すとするでしょ。でも、それで本当に喜んでくれるのかな? 考え方次第では、もっとお互いに気持ちよくなれる方法があったりするんだよ。例えば、修学旅行をめちゃくちゃ楽しんだ来栖さんが、その思いを共有するために弟たちにお土産を渡したりね。そんなとき、来栖さんならどっちを選ぶ? 俺は、皆で楽しい思いを共有して、笑い合いたいな。渡されたプレゼントに自分への同情が込められてたら、ちょっと悲しくなる」


「よくもまあ、そんな思ってもいないことをペラペラと……。誰もが知っているようなことを、それらしく言っているようにしか聞こえないわ」


「そっかー、お気に召さなかったみたいで残念」


「でも、心にはとどめておくわ」


 誰もが知っているようなことを、私は知らないから、と杏樹はか細くつぶやいた。それを受けて、秋鷹はやわらかに微笑む。

 思えば一か月前は、彼女は口すら利いてくれなかった。そう思うと、その頃より幾分距離が近づいたように感じる。

 おそらく、カレンダー撮影が一番影響しているのだろう。撮影は修学旅行直前くらいまで行われていたから、杏樹と触れ合う機会が最近は意外にも多かった。それでも、まだまだ好感度はマイナスだが。


「レン君とリンちゃんだっけ? ……二人はお留守番?」


 唐突に、秋鷹が訊いた。


「ええ。本当は私、修学旅行に来るつもりはなかったのだけれど、二人に無理やり行かされたの。だから怖いわ。大丈夫かしら、あの二人」


「心配いらないと思うよ。俺が言うのもなんだけど、レン君はやるときはやりそうな子だし、リンちゃんはしっかり者じゃん。四日くらい、二人でやってけるよ」


「厳密には、二人ではないの」


「……え?」


「今、あの二人は影井君の家にお邪魔しているはずよ」


「ほう……てことは、影井のご両親、そして陽ちゃんと一緒にいるわけか」


 秋鷹が納得したように頷くと、杏樹が「いえ」と即座に否定する。


「違うわ。影井君のご両親は二人とも海外で働いているの。だから、あの二人は影井君の妹さんと一緒にいるわ」


「へぇ、影井って兄妹で二人暮らしだったんだ」


「そういう言い方をすると、少し卑猥に聞こえるからやめなさい」


「え、どこが?」


 真面目に首を傾げてしまった秋鷹は、しかし杏樹の次の言葉にすかさず耳を傾ける。


「とにかく、二人がちゃんとやっていけてるかが心配というより、影井君の妹さんに迷惑をかけていないか……そっちの方が心配だわ」


「それは帰ってからのお楽しみでいいじゃん。もしかしたら、来栖さんの盛大なゲンコツが飛ぶかも?」


「まったく楽しめないわ。不安でいっぱいよ」


「あまり、そんな風には見えないけどな」


 秋鷹は杏樹の顔を覗き込むように、僅かに腰を曲げる。


「来栖さん、なにか良い事でもあった?」


「……わかるのかしら?」


 彼女の伏せられていた睫毛が、不意に上を向いた。そのクールを装った端麗な顔が、ほんの少しの驚きを乗せる。


「ちょっとだけ、表情がやわらかくなったような気がするんだ。それに、いつもより喋ってくれるし」


「気持ち悪いわ」


「あっ、ごめん……慎みます」


 反省して口を噤んだ秋鷹だが、その所為でその言葉の本当の意味を聞き逃してしまう。

 小さな声で、杏樹が言った。


「まるで恋する乙女みたいじゃない」


 秋鷹は気づけなかった。気持ち悪いという言葉は、杏樹が自分自身に向けた悪罵だということを。

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