第90話 岐路
あとはバスに乗って帰るだけとなった、楽しかったぁ、しゅーがくりょこぉ。疲労と筋肉痛で動けなくなった、最終日の地獄のような時間ー。一気に襲い掛かって来る睡魔に勝てなくなりー、僕たちー私たちはー、寝まーす。
と、まるで卒業式の呼びかけのような状態がバス内には広がっていた。行きは騒がしかったのに、帰りとなると皆一斉に瞼を重くさせる。
かくいう秋鷹も、窓の外を眺めながら大きな欠伸をしていた。しかし、その手にはスマホが握られており、気だるげにフリック入力が施されている。
『眠い』
『起きて』
『やだ眠い』
『起きないとえっちなことさせてあげないよ』
『起きます』
『よろしい。では、これからしりとりを始めます』
『尻違い……』
『いいの。はい、あーくんから始めて』
『しゃーねーな』
『はやくしなさいよ』
『しりとりのり』
『リール』
『ルビー』
『ビール』
『ルフィ』
『フィール』
『留守』
『スマイル』
「…………」
る攻めを食らい、秋鷹は一瞬、スマホを床に叩きつけようとしてしまった。気を取り直して画面をのぞくと、トーク画面には新しいメッセージが送られてきていた。
『あたしの勝ち?』
『もうそれでいいよ』
『やった。じゃあ、何してもらおっかな~』
『できる範囲のことでお願いします』
『ラブホテルに行ってみたいかも!』
「…………っ」
秋鷹は思わず、間抜けな声を出しそうになった。前の座席をチラ見してから、改めて文字を入力していく。
『なんでラブホ?』
『一度行ってみたかったの。何事も経験よ』
『バレたら面倒だし、俺はおすすめしないなー』
『ぶぅー。なら、ディズニーマウンテンでいいもん』
『連れてけばいいの?』
『うむ』
『なら今度な』
スマホから視線を外し、秋鷹は再び窓の外を眺めた。
「……夢の国か」
幼い頃であれば、その言葉に希望を見出しただろう。だが、今となっては紛い物めいた言葉にしか聞こえなかった。
秋鷹はそっと、意味もなく周囲に視線を巡らせた。隣の座席で眠っている帝、そして彼の向こう側の座席で、二人仲良く眠る結衣とエリカ。その他クラスメイトも皆、夢の中に入り込んでいる。起きている者は少数だった。
ならば、と秋鷹は、目の前の〝背もたれと窓の間にできている隙間〟に手を入れて、千聖の肩をポンポンと叩く。
「ひゃっ……なに?」
「千聖の所為で、寝れなくなった」
秋鷹は座席の手前に座ることによって身を乗り出し、その隙間を見つめる。すると、隙間からひょっこりと千聖が顔を出した。
「……お話でもする?」
「キス、出来そうじゃない?」
「えっ?」
背もたれと窓の間にできている隙間は、丁度、人の顔が入りそうなくらいの狭さだった。秋鷹はさらに身を乗り出すと、
「顔、近づけて」
「う、うん……」
ちゅっ、とバスの座席越しに柔らかなリップ音が鳴った。もちろん、周りは寝ているため気づいていない。
「スリルがあっていいでしょ」
「こういうことできるの、今だけだもんね」
名残惜しむかのように、二人で笑い合った。
一昨日、千聖に言われたのだ。この関係を、皆に公表しようと。
それが親しい友人だけなのか、はたまたクラスメイト全員なのか、秋鷹にはわからない。
わかっているのは、この秘密の関係がもうすぐ終わってしまうということだけ。それは、今まで出来たことが出来なくなってしまうのと同義で。
「でも、きっと変わらないよ、俺たちの仲は」
何かが出来なくなっても、また新しい何かが出来るようになるから。
ひょっとしたら、もっと素敵な未来がこの先にはあるのかもしれない。そう思うと、笑顔がこぼれてしまうのは必然だった。
「これからもよろしく、千聖」
「うん、しゅきぴ」
「なんだそれ」
「あーくんのことが好きって意味」
そう言って、千聖は唇を尖らせてキス待ちした。その振る舞いはこなれたものではあったが、耳の先は僅かに赤い。
そんな千聖に、秋鷹は迷いなくキスをした。唇を触れ合わせるだけの、初々しい恋人同士がするような接吻。
そんな中でも、バスの揺れは穏やかだった。互いの鼓動も、息遣いも、そしてその関係さえも。すると、
「んぅ……ちさちー」
突然、千聖の隣の座席で寝ていた春奈が、千聖の名前を呼んだ。慌てて座りなおした千聖は、小さな声で、
「春奈……?」
「ちさちーのおっぱいデカすぎ……ウシ乳……」
「腹立つわね」
ただの寝言だったようだ。
※ ※ ※ ※
「ふぃー、よく寝たぜー!」
バスから降りた敦が、外の空気を目一杯吸っていた。見覚えがあると思ったら、ここは修学旅行初日と同じ広々とした駐車場だった。
夕焼けが直に浴びせられている所為か、少しだけ暑い気もする。秋鷹はモッズコートの前を開けて、全身に風を浴びた。冬の冷気が気持ちよかった。
そうしてふと周りを見渡すと、クラスメイトや他のクラスの者たちは、見た限り修学旅行の余韻に浸っているようだった。スキーが楽しかっただとか、バスガイドさんが美人だっただとか、今日は帰ってゆっくり寝ようだとか。
中には何人かで写真を撮ったりして、思い出を残そうとしている者もいた。千聖は仲のいい友人たちと駄弁っている。同じように、結衣も友人と楽しそうに会話していて、エリカは相槌を打ちながらコクコクとミネラルウォーターを飲んでいた。
当たり前の光景だった。駐車場にとめられたバスの周りには、それぞれが主役の青春じみた舞台が用意されていて、脇役の秋鷹は舞台袖からそれを眺めていることしかできない。
そこから踏み出せば、おそらくは主役を喰ってしまうほどの名演技を披露することができるだろう。しかし、秋鷹はそれをしなかった。
観客席の向こう側に、独りこちらに背を向ける少女を目にした。彼女はその艶やかな黒髪を靡かせ、どこか遠くへと消えて行ってしまう。それを追いかけなければ、役者人生が終わってしまう気がした。何かが、終わってしまうような気がした。
「秋鷹。あそこにいる子たちが秋鷹と写真撮りたいって言ってるんだけど……」
「ごめん、また今度にしてくれ」
「えっ……?」
「そう言っといてくれ」
声をかけて来た帝の横を通り過ぎ、秋鷹は少女の背中を追いかけた。
キャリーケースのガラガラとした音で気づいたのだろう。彼女は立ち止まると、訝し気に振り向いた。
「なにか用かしら?」
「いや、もしかしたら、影井の家に行くのかなって思って」
「だとしたら、何だというの」
「俺もお供させてよ、来栖さん」
その言葉に、あからさまな不快感を滲ませた杏樹。それを無視するように、秋鷹は歩き出した彼女の隣につく。
「実は俺、陽ちゃんにお土産渡そうと思っててさ。来栖さんが影井ん
「あなたが影井君の妹さんと知り合いなのが今世紀最大の謎だわ。まあ、それは一先ず置いておくとして、……別に、今日お土産を渡さなくてもいいんじゃないかしら?」
「俺の気分的な問題だから気にしないでよ」
「……勝手な男ね」
ひらひらと手を振り、へらへらと笑う秋鷹の顔を見て、杏樹は諦め切った溜息を吐いた。
とはいえ、勝手にお邪魔するのもさすがに厚かましいのではないかと思った秋鷹は、キョロキョロと辺りを見回す。
「影井ってもう家帰ったの?」
「まだ駐車場にいるはずよ。帰るときに確認したから、それは確実」
「ふうん。影井んち行くのに、一緒に帰らないんだね」
「影井君とは、今は少し、ぎこちない関係性と距離感なの。二人きりになると、上手く話せないわ」
「喧嘩でもしてんの?」
「…………」
秋鷹の言葉を受けて、杏樹は無表情のままだんまりを決め込んだ。
もしかすると、今日涼が放心状態だったのと何か関係があるのかもしれない。あまり興味が湧かなかった秋鷹は首を捻ると、視界に入ってきた短い行列に興味を示す。
「ケーキ屋さんか? あれ」
ケーキ屋さんらしき店の前で、女性店員が何かを売っていた。目を凝らしてみると、『カップル限定シフォンケーキ40%割引!』という看板が見えた。
「来栖さん、あのケーキ買いに行かない?」
「一人で買いに行けばいいでしょう」
「いや、あのケーキ、カップルで買うと40%割引なんだよ! だから一緒に買いに行って欲しいんだ。お願いします!」
「構わないけれど、あまりくっつかないで頂戴」
杏樹は、手をすり合わせてお願いする秋鷹に、呆れ顔を浮かべていた。
それから、秋鷹たち二人は短い行列に並ぶと、自分たちの番を待つ。案の定、並んでいる人たちはカップルが多かった。
「このケーキを持ってけば、弟君――レン君も俺に懐いてくれるでしょ」
「あなた、そのためにケーキを……?」
「そうでもしないと、打ち解けられないって言うか、なんと言いますか……」
「そんなことしなくても、普通に会話していれば打ち解けられると思うのだけれど。それが無理なら、問題があるのはあなたの方になるわ。改善してから出直しなさい」
「厳しいって来栖さん。俺とレン君の仲を知らないわけじゃないよね?」
トタン家にお邪魔した日のことはまだ記憶に新しい。そのとき、杏樹の弟のレンが秋鷹に敵意むき出しで、全然打ち解けようとしなかったのを覚えている。
杏樹もその場にいたはずなのだが、ちっとも気を遣ってくれる様子はない。もしやシスコンのレンに続き、こちらの杏樹も重度のブラコンなのだろうか。そう考えた直後、順番が回ってきた。
「こちら、カップル限定のシフォンケーキになります」
にこにこ笑顔の女性店員に促されながら、「じゃあ、これ一つください」と秋鷹はシフォンケーキを購入する。ハートのトッピングがなされていたが、それにはノーコメントで。
「ありがとうございました!」
女性店員のハキハキとした声を背中に置き、秋鷹と杏樹は、目的は果たしたと言わんばかりに歩き去る。
歩いている途中、杏樹が言った。
「シフォンケーキを作るときは、バターではなくサラダ油を材料に使うのが一般的よ。そうすることで、ふわふわと柔らかい触感に仕上げることが可能なの」
「詳しいね」
「よく、レンとリンに作るから……」
「なら、シフォンケーキを買ったのは正解だったのかな」
秋鷹はシフォンケーキの入った袋を見て、「よかったよかった」と続けた。会って早々殴りかかられてもたまったものじゃないため、少しでも気持ちを落ち着かせることが出来ればバッチぐうなのだ。
「でもすごいね。勉強できて、料理できるって。千聖と料理勝負させたら、どっちが勝つのかな」
「日暮さん……」
「ん?」
「あっ、いえ、その……訊いても、いいかしら」
杏樹は言葉に詰まりつつも秋鷹を見て、その透き通るような瞳を揺らす。それを受けて、秋鷹は「もちろん」とうなずいた。すると、杏樹が咳ばらいをして、
「あなたたちは、付き合っているのかし――」
「来栖さんッ!!」
「きゃっ……」
その瞬間、秋鷹の大声と共に杏樹の身体が突き飛ばされた。キャリーケースが大きな音を立ててアスファルトを滑り、袋から飛び出したシフォンケーキの箱が、その中身をぶちまける。
地面に横倒れになった杏樹は、何が起こったのか分からず、咄嗟に上体を起こすと同時、視界の端に映った二つの影を見据えた。
そこには、先程まで隣を歩いていた宮本秋鷹と、どこから現れたのか分からない見知らぬ男が立っていた。取っ組み合いをしているように見えるが、違う。秋鷹の腹部に、男が何かを突き立てているような状態だった。
「久しぶりだな~、宮本君」
「お前……」
ニタァと笑う謎の男を前に、秋鷹は苦悶の表情を浮かべる。腹部には、刃渡り十三センチほどの小刀が刺さっていた。
ナイフの柄は男の手に握られ、前へ前へと押し込まれている。それは、秋鷹の腹部にじわじわと鈍痛のようなものを与えた。
「修学旅行は楽しかったかい? 楽しかったよねぇッ? 帰り際に彼女とデートを楽しむくらいだからね!」
「うぐっ……」
ぐり、とナイフが力強く押し込まれ、徐々に徐々に衣服に赤黒い血が浸透していく。秋鷹は男の手を抑えてそれ以上の行為を阻止しているが、抑える以外には何もできなかった。
ただただ、そのナイフが引き抜かれないよう男の手を掴むだけ。それを見て、フードを被った男が口角を上げる。
「本当は君の彼女を殺そうと思ってたんだけど、まあいいや。君を殺せれば充分だよ。クク……なあ、僕がどれだけ苦しんだかわかるか? 順風満帆だったはずの人生をぶち壊されて、地の底まで落とされて、何もかも失ったんだぞ!? クソみてぇな女の前では裸で土下座させられて、そこら辺にいるゴミみてぇな有象無象には下品なものを見る目で見られて、嘲笑されてッ、どれだけ生きづらかったかお前にわかるかぁあああッ!? 新しい彼女作って青春を謳歌していた君にはわからないだろうなぁッ!! おい! 何とか言えよぉおおおお! あぁん!? 聞いてんのかよボケがぁッ!」
唾を飛ばしながら激昂する男をよそに、秋鷹はなんとか呼吸を整えていた。
血が止まらない。麻痺している影響なのか痛みはあまり感じられないが、それでも、じくじくと腹部を中心に鈍い痛みが広がっていく。それに伴って、皮膚を切り裂かれるような鋭い痛みも感じるようになった。
その間にも、怒鳴り散らかす男の声が聞こえて。それが傷口に響くような奇声だったこともあり、やかましくて仕方なくて。
秋鷹は密かに舌打ちすると、怒気を含んだ瞳で男を睨んでしまう。
「誰だよ、お前」
「……は?」
――ボキッ。
それは秋鷹と、そして男にしか聞こえないような小さな音だった。男は素っ頓狂な間抜け面を晒し、ゆっくりと自身の指に視線を向ける。その中指は、本来曲がるべき方向とは真逆に曲げられていた。下手すれば手の甲に中指の爪が触れてしまうほどの、綺麗な中指ブリッジ。
男は掠れた声を絞り出し、折られた指を見て絶叫する。
「ぁあ゛ッあ゛ぁあああッ! ぁああああッ……! 指が、指がッ……! 折れ、て……うぁああぁぁぁぁぁあ! いだい、いだいいだいいだいッ……ひぐぅッ、折れでるぅ……」
ナイフから手を外し、男はその場で転げまわった。アスファルトに顔面を擦りつけ、指を押さえながら見悶えている。
そんな男の姿を見下ろしながら、秋鷹は一歩、二歩、よろめくように後ろへ下がった。そして、脱力して横から倒れ込む。
――そのとき、どこからか悲鳴が聞こえた。それが通行人のものだったのか、あるいは杏樹のものだったかは判断がつかない。
しかし、泣きわめく男の声の合間には、確かに秋鷹を心配するような声が聞こえていた。
「みやもと、くん……」
腹の中が焼けるように熱かった。
刺さったままのナイフがゆらゆらと揺らめくように、歪んでいく。
「だめっ、死んじゃだめっ……」
腹の中は熱いのに、なぜだか体中が寒かった。
呼吸が薄れていき、ぼやけた視界はもはや何を映しているのか定かではない。だがはっきりと、彼女が名前を呼んでくれていることだけはわかった。
「みやもとくんっ……!」
意識が遠のき、不意に暗転する。
少しだけ、シフォンケーキのことが気掛かりだった。
※ ※ ※ ※
帰宅し、お風呂に入って、着替えて晩御飯を食べれば、あっという間に時間は過ぎる。千聖はお気に入りのパジャマ――髑髏柄の秋鷹Tシャツ――を着て、ベッドの上でうつぶせになっていた。
顎の下に枕を置き、足をパタパタさせる。いつものことながら、寝る前は彼氏との通話が基本だ。しかし、バス内で交わしたメッセージ以来、彼からの返信がこない。
「どうしたのかなー……」
スマホ片手にトーク画面をスクロールし、千聖はトーク履歴を少しだけ遡る。そこには沢山のメッセージのやり取りがあって、内容もくだらないものが多く、千聖は思わず笑ってしまった。
「ふふっ、おっかし」
だが、それを遮るように、唐突に着信が鳴った。
「えっ、秋鷹……?」
彼からの着信だったために、千聖は嬉しくなってすぐさま電話に出た。
「もしもし、あきた――」
「日暮さん……、来栖です」
スマホの向こう側の声が思っていた声と違くて、千聖は驚きと共に押し黙ってしまう。それは慎ましやかなようで、しかし震えにも似た声だった。
「なんで、来栖さんが……」
「あの、えとっ……病院に、病院が……いまっ……」
「うん、わかった、わかったから。一旦落ち着こう? とりあえず何があったか、一から説明してくれるかな?」
杏樹らしからぬ狼狽えと切羽詰まった様子に、千聖は只事ではないと感じ取っていた。そして秋鷹の携帯からの着信ともなれば、やはり彼に関係する重大な何かが――。
「……宮本君が、刺されたの」
予想外の事実に、息が詰まる。その言葉をすぐに理解することは、千聖にはできなかった。
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