第88話 歯磨き粉の味がした

 それは、夕焼けが身に染みる頃のことだった。

 十七時の鐘の音が辺りに鳴り響き、公園で遊んでいた子供たちがそれぞれの家に帰っていく。

 帰る方向は皆バラバラで、楽しそうなはしゃぎ声も段々と消えてなくなっていく。そんな中、家が隣同士だった少年と少女は、いつものように二人で一緒に帰っていた。

 遠くから豆腐屋のラッパの音が聞こえた。しかしその音の正体を知らない少年たちは、二人で顔を見合わせると同時、不思議そうな表情で首を捻る。それから、「変な音だね」と二人で笑い合って、それっきり。

 続くのは、昨日も一昨日もしたような当たり障りのない会話だ。少女には最近熱中しているものがあるらしく、その話を少年は延々と聞かされていた。相槌を打ち、笑顔になりながら。


「それでねっ、アイドルになるには、歌って踊れなきゃだめなんだよ?」


「歌って踊るくらい、結衣なら簡単じゃない?」


「わかってないなー、りょうちゃんは。アイドルはね、そんな簡単になれるものじゃないの。歌って踊る意外にも、オーディションってやつを受けなきゃいけないんだよ」


「おーでぃしょん……?」


 そうだよ、と少女はなぜだか険しい顔をして、頷いた。


「偉い人に歌と踊りを披露して、それを審査してもらうの。オーディションには『アイドルになりたい~』って人が全国から押し寄せてくるんだけど、その中でもアイドルになれるのは、ほんの一握り」


「結構、厳しい世界なんだね」


「うん。だから、わたし頑張らなくちゃいけないの」


「すごいね結衣は。もう将来の夢があるんだ。それも、人に誇れるような立派なもの」


「えへへ、ありがとっ」


 少し大袈裟な少年の言葉に、少女は照れ笑いで返した。

 そんな少女のことを、少年は羨ましく思う。何か一つのことに熱を注ぎ、そこへ突っ走っていく姿がかっこよく映ったのだ。

 自分には真似できない。まだやりたいことは沢山あるし、なりたいものも数えきれないほどある。将来は未だ曖昧なままで、大人になった自分が果たして何をしているのか一ミリも想像できない。だが、強いて言うのであれば――。


「りょうちゃんは、将来の夢とかあるの?」


「うーん、普通のサラリーマンかな」


 そう答えた。


「なに? それ」


「無難にお金を稼いで、ちょっとの贅沢さえできれば、僕はそれ以上なにもいらないかな。ってこと」


「それでいいの? りょうちゃんなら大統領にだってなれるんだよ?」


「それを言うなら総理大臣じゃない? あと、僕はそんな偉い人には絶対になれないよ」


 そもそもなる気はないし。


「平凡な家庭を築ければいいんだ。誰かと結婚して、誰かと夫婦になって。幸せになれればなぁ~ってね」


「ふうふって、パパとママになるってことだよね?」


「まあ、ざっくり言えば、そんな感じ?」


「なら、りょうちゃんの夢が叶うことは確定してるね!」


「えっ……?」


 少年は素で驚いた。冗談で言ったことだったが、少女の占いによると自分は誰かと結婚するらしい。そして、またも彼女に驚かされることとなる。


「パパとママみたいになるってことは、ずっと一緒にいるってことだよね。わたしとりょうちゃんも、きっと、大人になっても変わらず一緒にいるはずだから……ね? それって、ふうふってことでしょ? わたしとりょうちゃんは、将来夫婦になるんだよ。やったね!」


「いや、それは少し意味が違う気が……」


「じゃあ、ふうふって一体なんなの?」


「……僕も、あまり詳しくはないんだけどね、夫婦になるとか結婚するっていうのは、お互いに好き同士じゃないといけない事情があってですね……」


「わたしはりょうちゃんのこと好きだよ? りょうちゃんは、わたしのこと好きじゃないの?」


「あ、えっと、それも意味が違うっていうか……うー、あー。なんて言えばいいんだろ……」


 少年も夫婦についてはあまり深くは知らなかった。しかし、前に友達が言っていたことを思いだし、「あっ、そうだ!」と言って一つ咳ばらいをする。

 そして、おもむろに立ち止まった。釣られて少女も立ち止まり、少年のことをあんぽんたんな面持ちで見つめる。

 

「どうしたの? りょうちゃん」


「あのね、結衣。夫婦っていうのは、その……ちゅ、ちゅーとかを、しなきゃいけないんだよ?」


「ちゅー?」


「そう。好き合ってる人たちがする行為のことだよ」


 少年が軽く説明を入れると、少女が「あー!」と何かを思い出したかのように、掌にポンっと拳を乗せた。

 

「ならりょうちゃん、目瞑って?」


「えっ、なんで?」


「いいから、瞑って?」


「う、うん……」


 急な申し出に戸惑いつつも、少年は目を瞑った。すると、ふわりと甘い香りが漂ってくると共に、頬に柔らかい感触を感じた。

 気になって目を開けてみると、少女が慌てて一歩後ろへ下がった。その顔が、若干だが赤く見える。


「ママがパパにやってたことを真似してみたんだけど……なんか、顔熱いね」


「結衣、もしかして……」


「うん、ちゅーしたよ」


 衝撃の事実を受け入れることができず、少年は放心したように固まってしまった。


「これで、ふうふってことだよね?」


「……まだ、違うよ」


 でも、もしかしたら自分たちは、本当に結婚してしまうかもしれない。そして夫婦になって、自分が夢見ていた無難で平凡な将来が実現できてしまうかもしれない。

 この時の少年は、照れた表情を見せる少女と同じように、無意識に頬を赤く染めてしまっていた。彼女の唇が触れた頬を撫で、胸が締め付けられる。

 しかし、そんな子供同士の馬鹿げたやり取りは、成長していけば徐々に薄れていくものだ。現に、少年はこの出来事を高校生になった今現在、過去の出来事として心の奥底にしまい込んでいた。


 それが引き出されてしまったのは、きっとあれが原因だったのだろう。トイレで見た、想い人の情事。

 彼女のシミ一つない綺麗な裸体が頭の片隅にチラつき、そのたびに怒涛なる喪失感が少年を襲う。そして、まるでフラッシュバックでもするかのように過去の出来事が思い起こされ、大切なものを徐々に徐々に失っていく感覚に襲われた。


 少年はそれを、走馬灯にも似た自分の最後だと思った。



※ ※ ※ ※



 ――好きだよっ、りょうちゃん。

 

 結衣は無垢だった。


 ――サンタさんはいるんだよ?


 結衣は純粋だった。


 ――りょうちゃんも、一緒に笑おうよ!


 結衣は、笑顔が似合う子だった。

 

「いつから、だ……?」


 結衣は誰にでも分け隔てなく接しているように見えて、実際は誰か一人を特別扱いしていたのだろうか。

 そんな素振り、学校にいる間は何一つ見せなかった。しかも嘘がわかりやすい結衣のことだ、隠し事をしているのであれば簡単に見抜けたはず。幼馴染である涼なら尚更――。


「ああ、そうか……」


 涼はいつの間にかたどり着いていた非常階段を目の前に、視界を滲ませながら嘆息する。その扉の横に三角座りで腰かけると、膝の間に顔をうずめた。

 

 結衣の変化に気づけなかったのは、涼が自分のことしか考えていなかったからだ。

 過去のしがらみを払拭するとか、千聖への想いを消し去るとか、自分が気持ちよくなる方法を懸命に探して、結局涼は結衣のことなんて何も考えていなかった。

 彼女が待ってくれる保証なんてどこにもないのに、待ってくれるだろうと決めつけて告白の返事を先延ばしにしたつもりでいた。

 自業自得である。言い訳のしようもない。告白されたあの日が、最初で最後のチャンスだったのだ。それか、もっと早くに決断できていれば、もしかしたら今頃――。


「そんなこと、あるわけないだろ……」


 トイレにいたあの男のように、結衣と肉体関係を結べるかと問われれば涼は反応に困ってしまう。たぶん、キスをすることすらままならないだろう。あの二人は、あんなにも熱烈な接吻を交わしていたというのに……。


 一体、あの男は誰なんだろうか。

 思考が混濁していて、先までのことをあまり深く思い出せない。

 ただ、それらしい人物に涼は心当たりがあった。確信はないが、クラスカーストトップの男、


 ――宮本秋鷹


 彼と結衣が、ここ最近異常に仲が良く、距離が近かったことを知っている。

 涼はそれを遠目から見ているだけであったが、彼ら二人が楽しそうにしていた為に危機感を覚えたのも事実だ。

 だから、牽制として結衣に対する想いを彼に伝えたのだが、あの時の彼は結衣と付き合っているような素振りを何一つ見せなかった。

 そのため、トイレにいた男が彼ではない可能性も大いにあり得た。

 どちらにせよ、涼が結衣と付き合うことはもう叶わない。手の届かない、夢物語のようなものになってしまったのだ。


「うぅ……」


 思い出すだけで、悔しさが溢れ出てくる。自分の不甲斐なさ、情けなさに苛立ちが湧き上がってくる。

 そうやって悲しみに浸っていると、自然と涙が出てきた。涼は声を潜めて、静かに咽び泣くことしかできなかった。

 涙で濡れていく床は、視界がぼやけていてどのくらい濡れているかはわからない。でも、視界に入って来る薄ぼんやりとしたオレンジ色の照明が、微かな眩しさと共に温かさを届けてくれる。それが、僅かながらの救いだったのかもしれない。

 そんなとき、ポケットに入れていたスマホがバイブした。それを取り出し、誰からの着信か確認してみる。


「……来栖さんか」


 ふと時刻を見て見ると、二十三時半となっていた。気づけば就寝時間はとっくに過ぎ、涼は夜に出歩く不良少年となってしまっていた。

 普段であれば、この時間は杏樹とメッセージのやり取りをしていたはずなのだが、今夜はその日課は適用されない。しかし、かかってきた着信を切っても、繰り返し何度もかかってくるため、涼は仕方なく電話に出た。


「……もしもし」


『影井君? メッセージの返信がないのだけれど』


「ごめん、返信は明日でいいかな……?」


『理由を聞いてもいいかしら』


「気分じゃないんだ」


 それは杏樹とメッセージのやり取りがしたくない、と言っているようなもので、一歩間違えれば杏樹のことをうざったいと思っているようにも捉えられる。

 しかし、彼女は数秒の間を置くと、心配した声音で訊ねてくる。


『影井君、泣いているの……?』


 気持ちが沈んでいるときに、そんな優しい声をかけてほしくなかった。涼は否定しようとするも、言葉に詰まってしまう。


『何かあったの……?』


「……なにも、ないよ」


『嘘よ。あなたの声、震えてるもの……ねえ、何か嫌なことでもあったんでしょう?』


「あったとしても、教えないよ」


『じゃあせめて、影井君のいる場所を教えて。部屋には、いるの……?』


「非常階段にいる」


『……は? えっ、影井君どういう――』


 話の途中で通話を切った。非常階段にいるとはいったが、さすがの杏樹もこれは信じないだろう。

 涼はポケットにスマホを仕舞うと、盛大にため息を吐いた。今はもう涙は流れていないが、下を向くとまたこぼれてきそうになった。

 スマホがバイブ音を鳴らしていたが、電話に出ることはせず無視した。それからは何もせずにぼーっとしていた。

 正面にある壁を凝視し、ゲシュタルト崩壊する壁の模様に気持ち悪さを覚えた。嫌な感覚だった。

 しかし、目を背けることはしなかった。何かを忘れようと必死になるとき、そういう別の何かが効果的に働いてくれることを涼は知っていたのだ。

 ただただ壁を見つめながら、これまでの、恋愛に関する記憶を崩壊させる。一度圧縮したものを限界まで伸張したら引き千切り、雑に分離させた。それでも、胸の痛みがなくなることはいつまで経ってもなかった。断続的に、失恋の痛みが襲ってくる。


「いつになったら、消えるんだよ……」


 ――そのとき、


「ほら、泣いてるじゃない」


 と誰かが言った。視線だけを斜め横に向けてみると、そこには濡羽色の長髪を靡かせた杏樹がいた。

 

「来栖さん……どうしてここに……」


「どうしたもなにも、あなたが悲しそうだったから、探したのよ」


「来てほしいなんて言ってない」


「私が来ることを選んだの。あなたに選択する権利はないわ」


 そう言って、杏樹は涼の隣に三角座りで腰かけた。僅かに息を切らしているのは、涼を探すために走り回ったのが影響しているのかもしれない。学校指定のジャージがパジャマらしいので、館内では相当浮いただろう。

 

「どうして泣いているのかは、教えてくれないんでしょう?」


 切り出すように、杏樹が言った。


「それなら別にいいわ。私は、影井君のそばにいるだけだから」


「はっきり言って、迷惑だよ……」


「関係ない。そもそも、こんな悲しそうな顔の人を放っておけるわけないわ」


「来栖さん、僕は……」


「それとも、私みたいな友達思いの友人を、影井君は追い返そうって言うの? ぼっちに逆戻りよ」


「それでもいいよ」


「だめよ。それだと私もぼっちになってしまうじゃない」


 結局のところ、何を言っても杏樹は引き下がろうとしなかった。そのため、涼は諦めて黙り込む。


「元気出しなさい。男でしょ?」


「本当に、今は無理なんだ……。一人にさせてくれないかな? それがだめなら、話しかけないでほしい」


「いやよ。今日はまだ、話してないことが沢山あるの。影井君が、メッセージの返信してくれなかったから……」


 ちら、と杏樹は涼の様子をうかがっていた。

 毎度のことながら、涼の前だと杏樹は饒舌になる。話題としてはくだらないことばかりだが、涼はそれが苦ではなかった。今のこの状況となると、話は変わってくるが。


「それにしても、非常階段の横は笑わせに来てるとしか言いようがないわね。ここに逃げたって、気持ちが晴れるわけでもないのに……」


 杏樹は普段通りの毒舌で攻めようとしていたみたいだが、涼の反応がないのを見て、悲しそうに俯く。

 そのまま、この場所は杏樹が黙り込んだことによって物静かになってしまった。しかし一瞬の沈黙の後、杏樹は再び唇を開く。


「あなたが何に悩んで、何に苦しんでいるのかは、今は聞かないわ。聞いても、お悩み相談なんて私には出来ないし。どうせ影井君は、私なんかには何も教えてくれない」


 掠れたような声だった。人が泣くときに出す、絞り出すような声。


「でも、私にだってできることはあるわ」と杏樹が言った。「柄ではないのだけど、もうなりふり構っている暇はないみたいね……」


「えっ……」


 涼の手に、杏樹の手がそっと乗せられた。戸惑いながら横を向けば、真剣な眼差しの彼女と目が合った。

 揺れる双眸。その水晶石のような瞳には、間抜け面の涼が映っていた。急激に、鼓動が増す。


「私が忘れさせてあげるわ」


「来栖、さん……?」


「好きよ、影井君――」


 その瞬間、衝撃的な言葉と共に、涼の唇には柔い何かが重ねられた。一秒にも満たない時間だったと思う。

 それでも、心臓の音はやむどころか激しさを増していった。そしてゆっくりと、杏樹の顔が離れていく。


「驚いた、でしょ? とっても」


 頬を紅潮させながら、杏樹は口元を緩ませた。


「返事は今すぐじゃなくてもいい。あなたのペースでいいのよ。だけどその間はね、私のことだけを……ずっと考えていてほしい」


 勇気を出して想いを告げたものの、言葉の先に行くにつれ声が小さくなり、しまいには俯いてしまった杏樹。彼女はそのまま、逃げるように背中を向ける。


「それじゃあ、おやすみなさいっ――」


 うわずった声を上げて、ぱたぱたと駆けて行ってしまった。

 涼は彼女の背中を、放心したように見つめることしかできなかった。呼び止める言葉も、動き出す気力も、今の涼にはない。

 あったのは、唇に残る温かな感触だけだった。そこをなぞってみると、微かにも胸が高鳴った。まるで、波のない澄明な湖で、ぴちゃんっと魚が跳ねたみたいに。


 ――音を立てて、波紋が広がっていく。



※ ※ ※ ※



 そばにいると言ったのに、杏樹は逃げ出してしまった。いや、逃げざるを得なかったのだ。こんな〝自分らしくない〟顔を見られたくなかったから。


「どうしよ……キスしちゃった」


 杏樹にとっての初めてのキスは、非常階段の扉の横で行われた。思い出しただけで、また顔が熱くなってくる。沸騰しそうになる。

 そういった羞恥の他にも、心配ごとは幾つもあって。彼に嫌われていないかとか、少し図々しかったかとか、ちゃんと歯は磨いたかとか、思い返せばキリがない。

 たぶん、今夜は眠れないだろう。でも、それでもいいと杏樹は思った。もしかしたら、なかなか寝付けない自分と同じように、彼も先刻のキスのことを寝ずに考えてくれているかもしれなかったから。


 それはとても、素敵なことではないだろうか。


 

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