第86話 変わろうとしている僕

 夕食を済ませ、部屋に戻った涼は、自分のベッドで仰向けにくつろいでいた。横からは男子二人の笑い声が聞こえてくる。どうやら帝と敦が、先隣のベッドで恋バナを繰り広げているようだった。女子でもないのに。


「で、彼女と毎日連絡を取り合っていると?」


「まだ彼女じゃないよ」


「まだってことは、彼女にする予定っつーことだろ?」


「そのつもりでアプローチはかけてるけど、全然だめでね。未だに俺から一方的に連絡とってるっていう状態。彼女は仕方なくそれに反応してる感じだよ」


「あの天下の帝様にも、上手くいかないことがあるんだな……」


「当たり前だろ。俺を何だと思ってるんだ? 過大評価しすぎ」


 そのやり取りを聞いて、涼は「彼らでも恋に悩むことがあるんだな」と密かに思った。

 カースト下位かつぼっちの涼にとって、それは意外にも驚くべきことだった。いつも遠くから眺めているだけの存在だったが、少しだけ親近感が湧く。なにせ、彼らのような人間はそういう失敗や苦悩とは無縁の存在だと思っていたから。


「敦はどうなんだい? 彼女とは学年が違うから、ここ数日会えてないんだろう?」


「つれぇー! 会いてーよー! 抱きしめてぇよおー……!」


「その気持ちはすごいわかるよ。連絡とか、取ってないの?」


「今のおれの生きがいは通話だけだ。もちろん、あとでビデオ通話する予定だぜっ」


 キランッ、と歯を輝かせる敦。


「なんか羨ましいな。幸せそうで」


 帝は微笑ましいものを見る目で、やわらかに笑った。

 それを横目で見ていた涼は、おもむろに上体を起こす。そろそろ時間だから、目的の場所へ向かわなければならない。

 そんな涼に気がついて、敦が興味津々といった感じで訊いてくる。


「影井は、誰か好きなやつとかいないのか?」


「えっ、僕……!?」


 いきなり話を振られて、涼は戸惑った。


「さすがに彼女はいないよな?」


「い、いないよ」


「じゃあ、お前も帝と同じで、これからってことだな」


「そう、なるのかな……?」


 自分の恋愛が成就するかは今の段階ではわからないが、変化が起きるというのは確かなことだった。得恋したり、失恋したり。


「でも、影井君は案外、俺よりも先に彼女が出来るんじゃないのかな」


 そう言って微笑んだのは帝だった。


「確かになー」と敦が同調する。「なぜかは知らんが、お前結構モテるもんな」


「ぼ、僕がモテる……? ないない! 愚図でのろまで根暗な僕がモテるなんてことは絶対に――」


 言いかけて、涼は咄嗟に口を噤んだ。

 自分を卑下するような言葉は連ねたが、そうなってくると、好意を寄せてくれていた結衣になんだか悪い気がした。

 こんな魅力の欠片もない涼のことを、彼女は好きになってくれたのだ。たとえそれが幼馴染という関係に影響されたものだとしても。手放したくないと、涼は思ってしまう。


「どうした影井」


 言い淀む涼を、敦が首をひねって見つめていた。


「ううん、少しだけ考え事を」


「そうか。なら改めて訊くけど、影井は好きなやつとかいるのか?」


「いや教えないよ!」


「――教えないっていうことはいるんだな!」


 思わずツッコミを入れてしまった涼に呼応するように、敦がバッとベッドから立ち上がった。

 なにやら面倒な状況を作り出してしまったようだ。涼は逃げるようにこの部屋を後にする。


「あっ、おい影井! 誰だよ好きなやつ! 教えねーとぶっ殺すぞっ!」


「ちょ、敦ッ……! 元ヤンの血が騒いでるから落ち着いて――」


「離せ帝! おれは一度気になったことは根掘り葉掘り訊きたくなるタイプなんだ。たまに途中まで言いかけて、その先をなあなあにする奴いるだろ? おれ、ああいうの我慢できないんだよ。体中が痒くなって、ぶん殴ってでもその先を訊きたくなっちまうんだ――ッ!」


「それは敦だけだ……!」


 背中越しに物騒なやり取りが聞こえてきて、涼は内心震え上がりながらも部屋のドアを閉めた。閉めたはいいが、ドアの向こうから未だに敦の声が聞こえてくる。


 ――戻るのが怖い。


 ともあれ、時間的にはまだ早いが、涼は千聖との待ち合わせ場所に向かうことにした。

 このリゾートホテルはロビー・食堂・大浴場のある棟と客室棟が分かれている。客室棟の二階にはロビー棟につながる渡り廊下があり、この時間帯だとそこは人通りが少なかった。


 そこに向かう途中、閑散としたホテルの通路で、涼は先程のことを思い浮かべていた。『彼女はいないよな?』敦にそう訊かれて、少しだけ虚しい気持ちになったこと。


 ――中学の頃、涼には付き合っている女の子がいた。今思うと奇跡のようなことで、なぜ自分が彼女と交際できたのかはわからない。

 ただ、彼女のことは、周りのことを疎かにしてしまうほど盲目的に好きだった。だから振られたときはショックだったし、「もう恋なんてしない」と嘆いてしまうくらい悲しかった。

 そろそろ、そんな過去の恋愛なんか忘れて、「あのときはあんなこともあったな」と軽い気持ちで笑い飛ばしてしまってもいいのではないだろうか。

 過去の恋愛を引きずるあまり、答えを出すのにこんなにも時間がかかってしまった。でも、やっと決意を固められたのは、結衣の存在があったからだ。遅くなってしまったけれど……。


「待っててね、結衣。僕、変わるから」


 膨れ上がった想いは、当然のように涼の胸を切なげに締めつけた。

 目線の先、曲がり角を曲がって少し歩いた先に、待ち合わせ場所の渡り廊下がある。涼は一旦足を止めて、その場で深呼吸をした。深く深く、目を瞑って気持ちを落ち着かせる。

 すると、


「なーにしてんのっ。影井くん」


 瞑っていた目を開けると、目の前には見知った顔の少女がいた。彼女は後ろ手に腰を曲げ、下から覗き込むように涼のことを見つめている。その大きくてクリっとした瞳にびっくりして、涼は一歩後退した。


「なんで、君がここに……」


「あれー? 私の名前忘れちゃった?」


 人差し指を顎に添え、わざとらしく小首を傾げる少女。とりあえず、涼は言いなおす。


「桃源さん、どうして君がここにいるの……?」


 涼が訊ねると、その少女――桃源桜とうげんさくらはニコリと笑った。


「いちゃだめなの?」


「いや、そういうわけじゃないけど……」


「通りがかっただけだよ。みんなが使う場所なんだし、別に悪いことじゃなくない?」


「それもそうだけど、この時間にいるのは珍しいなって」


「それを言うなら、影井くんもでしょ?」


 就寝時間が近いこともあって、この時間になるとロビーに行く生徒は少なくなる。今頃、皆は自分たちの部屋で寝る準備を整え談笑していることだろう。就寝時間を過ぎると、先生に注意されるわけだし。


「影井くんはここでなにしてたの?」


 桜が言った。


「えと、それは……」


「なにしてたの?」


「し、しんこきゅう……」


「は? なに?」


 久しぶりだからか、涼は言葉に詰まってしまった。上手く言葉が浮かばず、絞り出した声は掠れて消える。


「渡り廊下の方に千聖ちゃんがいたけど、もしかして、それが関係してたり?」


 そう言われて、涼はハッとした。

 どうやら、待ち合わせ場所には千聖の方が先に到着していたらしい。


「あ~、やっぱり千聖ちゃんに用があるんだ」


 涼の反応を見て、桜は自分一人だけ納得したような表情になる。


「そっかそっかぁ、君たち幼馴染だもんね。なにか大事な用があるんだよね、きっと」


「うん、少し話したいことがあってね」


「告白?」


「……えっ?」


 あまりにも唐突だったため、涼は考える間もなく間抜けな表情を浮かべてしまった。それが桜の大爆笑をかっさらった。


「あはっ、わっかりやすぅ」


 両方の掌で口元を覆い、桜は女の子らしくクスクスと肩を震わす。


「君さぁ、顔に出すぎだってば。ふふっ、まじうける」


「あの、そんなに笑わないでくれるかな?」


「ごめんごめん。でも、これだけは言わせて」


 涼の肩に手を乗せて、そのまま背伸びした桜は、顔を近づけて耳元で囁く。


「――この、間抜け野郎」


「わっ……」


 蠱惑的な、吐息交じりの小声が、まるで体に浸透するように溶けていった。至近距離で聞かされたため、彼女から甘い香りがふわりと漂ってくる。

 桜は満足げに後ろに下がると、トンッと涼の胸の真ん中に人差し指を当てた。


「で、本当に告白するの?」


「…………」


「答えたくないって顔だね。もうバレちゃってるのに、だんまりを決め込んじゃう感じ?」


 正直、言うか迷っていた。桜は部外者で、涼たちとは何の関係もない。まず、つべこべ言われる筋合いもはなからないはずなのだ。

 しかし彼女は、唇を尖らせて、上目遣いで眉を顰める。

 

「教えてくれないと、怒っちゃうよ?」


 まったくもって怖くない脅しだった。むしろ世の男なら全員が彼女の態度に惑わされ、魅了されてしまうかもしれない。

 しかし涼は、このまま問い詰められても面倒くさいからという理由で、仕方なく口を割ることにした。


「告白は告白だけど、付き合ってほしいとかそういう思いはないんだ」


「なにそれ。じゃあ、なんのために告白するの?」


 もっともな疑問だった。


「僕の想いを伝えて、ぜんぶ吹っ切りたい」


「はぁ? 意味わからん」


「端的に言うと、僕は今ある千聖への想いを消し去りたいんだ。消し去らなければならない理由があるんだけど、それは今置いとくね」


「なんで置いとくんですかぁー」


 桜が茶々を入れてきたが、涼は気にせずに続ける。


「僕が一番苦しんでいるときにそばにいてくれた人が千聖だった。僕は千聖に救われたんだ。だから、それをすべて伝えたい。伝えて、千聖が僕の中で大きな存在だったっていうことを知ってもらいたいんだよ」


「仮に千聖ちゃんへの想いを消さなきゃいけない理由があるとして、影井くんの想いとやらを伝えてどうすんの? 単純に迷惑でしょ、それ」


「かもしれないね……」


「かもしれないじゃなくてさー」


 涼の胸の真ん中に置いていた人差し指を、桜はS字になぞらせる。それを延々と繰り返され、涼はむず痒い気持ちになった。


「千聖ちゃんの立場になって考えてみてよ。いきなり告白してきて、とか言われても、『はぁ? なんだこいつ』ってなるでしょ?」


「千聖はそんなこと思わ――」


「なーるーのっ。大体、なに? 千聖ちゃんはドルガバなんかつけてねぇんだよ。普通、好きを伝えたら付き合いたいとかエッチなことをしたいとか思うでしょ? なして君は伝えたら伝えたで、そのまま放置プレイしようとしてるのさ」


「さっき言ったでしょ。それなりの理由があるんだ。千聖には、それも一緒に伝えるつもり」


「私には教えてくれないの?」


 うん、と涼は頷いた。ついでに、ドルガバの意味がよくわからなくて首を傾げる。

 そんな涼に呆れた表情を見せ、桜は盛大な溜息を吐く。


「はぁ……もういいよ、つまんない。どうせ何も言わないんでしょ? てっしゅー、はい帰った帰った」


「ごめん、なんか期待に応えられなかったみたいで」


「なんで謝ってんの。いいからさっさと行きなよ。千聖ちゃんが待ってるんでしょ」


「うん、ありがとう桃源さん」


「次はお礼かよ」と桜は吐き捨てるように言って、涼の肩をポンポンと軽く叩く。そしてニッコリとした笑顔を湛えると、そのまま歩き去って行った。


 が、涼はその背中に慌てて声をかける。桜が訝し気に振り向いた。


「なに?」


「僕、変わるよ」


「……は?」


 純粋に意味が解らなかったようで、桜は素直に眉を顰める。しかし、「わからなくてもいい」と涼は思った。


「過去はもう忘れるよ。そして僕は新たな恋を見つける。いや、もう見つけてるのかな」


「ふうん。すごい情熱的だね」


「だから、桃源さんも忘れていいからね」


 そうやって、涼は笑い飛ばした。

 過去のしがらみを断ち切るように、過去と決別した。あとは気持ちの整理をするだけだと思った涼は、桃源桜に背を向ける。と、次は彼女が声をかけてきた。


「影井くん」


 振り返って桜を見据えた。その顔は、儚くも可憐で。


「頑張れよ、応援してるぞっ」


 涼は知らず口元を綻ばせてしまった。桜が言い残した言葉を内に秘め、渡り廊下へと向かう。成長したな、と少しだけ自覚しながら。

 

 

 

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