第85話 見当違い
「来栖さん、苦手なのに上級者コース来たんだね」
晴れた眼差しが痛いゲレンデの頂上で、涼は覚束ない足取りの杏樹に声をかけた。
修学旅行三日目。今日でスキー学習は最後ということになるのだが、杏樹の技術ではまだ上級者コースは早いと思える。周りの人たちが次々に滑り出す中、杏樹だけが内股ぎみに立ち尽くしていた。
「どうってことないわ。学校一の人格破綻者こと影井君こそ、ちゃんと滑れるのかしら」
「上手いわけじゃないけど、滑れなくはないよ。あと、その殺し屋みたいな目つき、やめてくれないかな?」
「それは悪口かしら?」
「違います」
杏樹が本当に殺し屋の目つきになってしまったため、涼はかぶせるように否定した。
「とりあえず滑ってみなさい。私が指導してあげるわ」
「不安しかないよ?」
いやもう、彼女がスキー初心者だということはわかっているのだ。指導も何もない。だから涼は、こんな提案をする。
「よければ、僕が教えようか? 来栖さん、実はスキーできないんでしょ?」
「何をどう見てそう判断したのかわからないのだけれど。見当違いも甚だしいわ」
「それでよく言えたものだよ」
杏樹の膝は生まれたての小鹿のようにぷるぷると震えていた。
「こ、これはバランスを取ってるのよっ……。影井君も真似してみなさい」
「大丈夫かな……僕たち、変な人だと思われない?」
涼が周囲を見回しながら言うと、杏樹がとぼけた表情を浮かべる。
「……自己紹介?」
「来栖さんも仲間だよ!」
ゲレンデの頂上で二人して膝を震わせていたら、みんなの笑われ者になることは間違いない。
とはいえ、涼はとっくの昔にそういった気持ちは切り捨てたはずである。友達という言葉とは縁がないため、どんなに笑われても苦痛にはならないし、それだけ慣れてしまったということだ。実際は全然慣れないが。
「なんか来栖さん危なっかしいし、一緒に滑ろうよ。もう指導ってことでいいからさ」
「ええ、そうしましょ」
急にしおらしくなった杏樹。
照れているように見えたのは気のせいだろうか? と涼は首を捻る。いつもクールでクレバーな杏樹のことだから、照れた表情を見せるというのはあり得ないだろうけど。
まして自分の前では……と涼は考えていた。
「私が先に行くわ。影井君は、その後をついてきて」
「来栖さんの意気込みは尊重したいよ。でも、本当に大丈夫? なんなら、僕が先に行こうか?」
「心配いらないわ。昨日たくさん練習したもの」
「う、うん。なら頑張って」
意外にもやる気満々なようなので、涼は黙って応援することにした。
杏樹がスキー板をハの字にして前を滑っていく。ナマケモノ並みのスピードの遅さだった。
それを気長に見つめていると、リフトの方から物凄いスピードで迫って来る者がいた。彼女は涼の近くまで勢いよく滑って来ると、雪飛沫を上げながらブレーキをかける。
「……りょうちゃん? まだここにいたの?」とゴーグルをおでこに乗せたのは、言わずもがな結衣だった。
なぜかきょとん顔の彼女は、しばらくするとふっと微笑む。笑ったときに出来るえくぼが、やけに可愛らしかった。
「僕も今から滑るよ。来栖さんを追って行く形でね」と涼は数メートル先の杏樹を見た。
「一緒に滑ってるの?」
「まあ、そうなるのかな……。危なっかしくて見てられないんだよ、来栖さん」
「わかるよ。しっかりしているように見えて、なんだかんだ世話焼けるもんね。杏樹ちゃんって」
同じ班で行動しているからか、結衣は理解したように頷いた。そんな風に遠目で杏樹を見つめる姿が、心なしかどこか大人っぽく見えた。
「結衣は一人で滑ってるの?」
気になって、涼はぎこちなく訊ねてみた。
「ん? 今ね、エリカちゃんと競争してるんだよ。勝った方がご褒美をもらえるって話なんだけど、これはわたしの圧勝かな」
あははー、と涼し気な顔で結衣は笑う。
昔から結衣はスポーツが得意だった。それは学校でも、涼たち幼馴染の間でも共通の認識だった。
「随分と昔の話になるけど、子供のころ、家族ぐるみの旅行にしょっちゅう行ってたよね。あのときのスキー旅行でも、結衣は、僕や家族みんなを追い抜かして楽しそうに笑ってた」
「懐かしいこと、思い出させるね」
涼が思いを巡らせていると、結衣は静かに目尻を下げた。
家族旅行といっても、小学生の頃の話である。そのときは関係が拗れていたということもあって千聖はいなかったが、それでも、結衣とは毎日のように一緒にいた。
さすがに一緒にお風呂に入ることはなかったけれど、それに近いことをした覚えが沢山ある。異性という垣根を越えて、それこそ友達以上恋人未満の、幼馴染としての関係を築いてきた。今はもう二人とも成長してしまって、あの頃のように無邪気なことは出来ない。それは当たり前ように思えて、寂しいことでもあった。
「結衣は今、楽しい?」
ふと、涼はそんなことを訊ねていた。結衣は質問の意図が図れなくて首を傾げるも、すぐに返答してくれる。
「楽しいよ。毎日がはっぴーだよ」
「……そっか。ならよかった」
「りょうちゃんは?」
「……え?」
「りょうちゃんはってゆってるのっ!」
反応が悪い涼に、結衣は声量を上げてぷんすかした。頬を膨らませているその姿は、やっぱり昔と変わらない。怒ったり笑ったり、哀しんだり照れてみたり。表情をコロコロと変えて――前はそんなことはなかったけれど――今は、彼女の仕草一つ一つにドキリとさせられる。
「変わらず、楽しいよ」
君がいるから。君がいてくれるから。
涼はそれを、最近になってようやく気づかされた。結衣に告白されたあの日から、ずっと心のもやもやは晴れない。苦しくて悩ましくて、どうしようもない恋の痛み。
その点で言うと、結衣は涼の何倍も強かった。失恋をして落ち込むどころか、次の一歩を踏み出そうと立ち直っているように思える。
本当は会うのも躊躇うはずなのに、こうして変わらぬ笑顔で涼に話しかけてくれる。そんなことをされてしまうと、自分が情けなくて仕方なかった。
「楽しいならよし! 次ははっぴーを目指そうねっ」
そう言って、結衣はニコリと微笑むと、白い地面を軽快に滑って行った。その後ろ姿を見つめながら、涼はぽつりとつぶやく。
「やっぱり僕は、結衣が好きだ」
だから、ケジメをつけなければならない。心の片隅に残るこの想いに、終わりを告げなければならない。
それが正しいかなんて、恋の専門家に聞かない限りわからない。そんな専門家が存在するとも思えない。ならば、やり方は自分で決めるしかなかった。
告白して楽になりたいだけなのかもしれないが、この想いを吹っ切るにはそれが最善の策だった。きっと、千聖はわかってくれるはずだから――。
「って来栖さん……!?」
少しは滑ることが出来たみたいだが、斜面の端の方で杏樹が転んでいた。立ち上がれないようなので、一先ず涼は、杏樹を助けに行った。
※ ※ ※ ※
スキーが終わり、皆はホテルの自分の部屋に戻っていた。そんな中、涼は誰もいないことを確認してから、ロビー付近にいた千聖を引き留める。
「千聖っ……!」
「……涼?」
自販機で飲み物を買っていたらしい千聖は、息を切らしている涼を不思議そうに見ていた。
「今夜、時間あるかな?」
「あるけど、どうしたの?」
その言葉を聞いて、涼は少しだけほっとした。
「聞いてほしい話があるんだ」
「それって、大事な話?」
「うん、大事な話」
「……そうなんだ」
千聖は何かを察したのか、一言つぶやくと、そのまま黙ってしまった。それは涼の目が、やけに真剣だったからかもしれない。
「だから、今夜、会えないかな……?」
ホテルのロビーに、タイトルのわからない知っている曲が流れていた。
ごくりと、唾を飲み込む。
「うん、いいよ」
そして、涼の願いは、確かに千聖に届いた。
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