第84話 これからも一緒にいようね
「ばかっ、激しすぎだっつの」
「いたっ……」
部屋を出ると、千聖が微かに頬を紅潮させながら、肘鉄を食らわせてきた。服はしっかり来ているが、露出した肌がほのかに朱く色づいており、どこか汗ばんでいるようにも見える。ツインテールから垣間見える艶やかなうなじは、夏祭りの夜を彷彿とさせるような懐かしさすら感じさせた。
「その服、まだ着ててくれたんだな」と秋鷹は千聖のTシャツを見ながら言う。それは真っ黒な生地にロック要素を兼ね備えた、
千聖との初めての夜を迎えてから、そのTシャツはずっと彼女の手元にある。他の人が見れば彼Tなのではないかと勘繰られる可能性もあるのだが、千聖は修学旅行二日目の夜に思い切ってそれを着たらしい。
「これ着てるとね、あーくんがそばに居てくれてるんだって思えるの。あたし、おかしいかな?」
「おかしいな。俺はずっとそばに居るはずなのに、まだ足りないのか?」
「当たり前でしょ。あーくんは幾らあっても足りないよ。だから、こうして肌身離さず身に着けてるの」
そう言うと、千聖は秋鷹の手を取って、やわらかにぎゅっと握った。千聖の華奢な指が、秋鷹の細く長い指と絡め合わされて、やさしく結ばれていく。
人通りの少ないホテルの通路で、そんな風にふたりで歩いた。行先も決めずゆっくりと、ただ静々と語り合いながら。
「そういえばさ、あたし……。こんなに一緒にいるのに、あーくんの昔のこと、あまり聞いたことがなかったよね? ちょっと、気になるなぁ……」
「まあ、話す必要がないからな。言ったところで、過去は過去なわけだし、
「でも、知りたい。あーくんのこと、もっと知りたいの」
「……わかったよ。例えば、どんな昔話を聞かせればいいんだ?」
拒むことはせずに、千聖の我儘を仕方なく受け入れる秋鷹。だんだんと、許容範囲が広くなってきている気がする。
「そんなに詳しく教えてくれなくてもいいんだよ。ただ漠然と、そうだなぁ……小学生のときのことだったり、幼稚園生のときのことだったり。もっと遡ると、赤ちゃんのときのことだったり」
「さすがに赤ちゃんのときの記憶はないよ」
「ふふっ、そうだね。とにかく、あたしはあーくんの子供の頃の話が聞きたい。昔はやんちゃだったとか、恥ずかしがり屋さんだったとか。なんでもいいの」
「あまり、面白い話にはならないよ」と秋鷹は前置きをして、少しだけ上を見上げた。そんな秋鷹に、千聖は「いいよ」とだけ返した。
「俺さ、子供の頃は、本当につまらない人間だったんだ」
「つまらない人間?」と千聖が聞き返す。
「そう。何をしても人並み以上にできるけど、何もかもが中途半端だった。人より優れていても、それを活かそうとしなかったから、努力している人には絶対に勝てなかった。……でもね、一つだけ取り柄があったんだ。たぶん、その取り柄があったから、他のことをすべて疎かにしてしまったんだと思う」
秋鷹はそっと握っていた手の力を強めると、千聖の方に顔を向けて笑いかける。
「それが絵だったわけだ。千聖も見たことあるだろ? 俺の絵」
「うん。体育祭のしおりに描いてたよね。ちゃんと、覚えてるわよ」と千聖が笑い返してくるので、秋鷹はうんと頷いた。
「俺は昔から絵が得意だった。好きだったのかはもう忘れてしまったけど、暇さえあればスケッチブックを取り出して、ただなんとなくそこにある風景を模写していた。それが大人にも子供にも評判が良くて、色んな人に才能を認められたことを今でも覚えてる。不思議なことに、俺は自分でも気づかぬうちに、才能を開花させていたらしい。視界に収めたものならもちろんのこと、記憶に一度とどめてしまえば引き出しから物を取り出す要領で、どんなものだって完璧に紙に写し出すことができた。単なるイメージでだって明瞭に写し出せてしまうから、怖がられることも当然あったし……期待も、たくさんされたな」
「えっと、それが〝つまらない人間〟っていうのとどう関係するの?」
「わからない? 絵だけを描き続ける自分が、急に馬鹿らしくなったんだ。何のために、誰のために絵を描いているのかわからなくなった。『将来立派な画家になりたいだとかの
「そんなことないよ。あーくんには、良いところ、たくさんあるんだよ?」
「そう思ってくれる人がいるだけで、俺は充分だよ」
本当に、それだけで充分だった。
ついつい熱く語りすぎてしまったが、この話は宮本秋鷹の一端にすぎない。だから「漠然と」というのも、あながち間違っていないのかもしれない。
「もう、絵は描かないの?」
「どうだろ。千聖のためなら、いつだって描いてあげるよ。だって、俺は千聖の彼氏ですから」
「んー、どういうこと?」
千聖がおかしそうに首を傾げた。
「特別ってやつだよ」
その言葉の響きは、実に聞き心地がよかった。思わず、秋鷹は言葉の余韻に浸るように足を止めてしまう。
そこから僅かながらに視野が広がり、聞き取れる音も雑音程度では済まされなくなった。
不意に、この先の曲がり角から女子たちの笑い声が聞こえてくる。このまま行けば、鉢合わせてしまうだろう。それは絶対に、阻止しなければならないことだった。
「あーくん、こっち」
「えっ、千聖……?」
千聖に手を引っ張られ、秋鷹は今いた場所の反対側へと足を進めた。目の前で、二本に結われた亜麻色の髪が揺れ、微かにも甘い果実の匂いが鼻孔をくすぐる。
そのまま無理やり走らされた秋鷹は、千聖の背中を見ながらこう思った。まるで今の自分は、女の尻を追っかける男みたいだな――と。
かくして、たどり着いたのはエレベーターホールだった。一先ずはここで息をつこうと、千聖はほっと胸を撫でおろす。
「こんなに走らなくてもよくない?」
と秋鷹が言った。
「たしかに、少し急ぎすぎたかも」
ちょっとだけ息を切らしている千聖は、その通りだと微笑した。
すると、タイミングを見計らったかのように、あるいは秋鷹たち二人の間の悪さを象徴するかのように、エレベーターの扉が静かに開く。
「……あっ」
エレベーターに乗っていたのは、学校のジャージ姿の杏樹だった。彼女は一瞬だけ驚いた表情を見せると、視線をさまよわせ、何事もなかったかのように小走りで真横を通りすぎていく。
しばらく経って、エレベーターの扉が閉まると同時、秋鷹と千聖は恋人つなぎされた自分たちの手に視線を注いだ。
――たぶん、見られた。
「勘違い、されちゃったかな?」
「勘違いも何も、本当のことだからな」
「……そう、だよね」
「うん、そうだよ」
千聖は秋鷹の手を、そのちいさな掌でぎゅっと握った。
今まで隠し通してきたけれど、二人の関係は、これからも隠し通せるほど曖昧なものではない。
それを理解しているからこそ、千聖は悩んでいるのかもしれない。俯いていた顔を上げ、彼女は秋鷹に子供っぽい照れ笑いを見せる。
「みんなに言おっか、あたしたちのこと」
「いいの? 千聖、冷やかされるの苦手なんでしょ」
「大丈夫。あーくんがそばにいてくれれば怖いことなんてないし、どんなことでもへっちゃらなんだから」
「なら、これからは包み隠さずってことだな」
でも、いきなりだとみんなびっくりしちゃうから、修学旅行明けがいいね。
そんな風に、千聖はエレベーターホールの一角に位置する窓ガラスへ歩いて行った。秋鷹はほどかれた手を追いかけるように、千聖の隣に立つ。
正面には自分たちの姿を薄っすらと反射させるような、光沢を宿したガラスがあった。その奥には、真っ暗闇の中に降りしきる雪の結晶があり、そこがどこか遠い世界のように思えて仕方なかった。
「マリンスノーって知ってる?」と千聖が外を眺めながら言った。「海中で見られる、雪のように白い粒子のことなんだけど。真っ暗な深海でライトを当てると、反射光で白く輝いて、その姿が浮き彫りになるの。空から降るように沈む海底の
「それがどうしたの?」
「あたし、本当に妄想癖がすごくてさ、めちゃくちゃ言いにくいんだけど……あのね、修学旅行を新婚旅行に置き換えて、今、あーくんと潜水艦で旅行してる気分なの」
「そ、そっか……。まあ、わかるよその気持ち」
とりあえず肯定した。
「ふたりで『綺麗だねー』って笑い合って。あたしたちは寄り添い合いながら深海を旅するの。そして、穏やかな時間の流れに身を任せて、マリンスノーの中をゆったりと進んでいくんだよ」
「ふたりだけの時間って感じでいいな。とはいえ、潜水艦でなくても、深海宮殿に泊まりに来たって言うのでもよくない? ほら、俺たちホテルに泊まってるわけだし」
「それ素敵! 竜宮城みたいな感じだよね? なーんだっ、あーくんもあたしに引けを取らないくらいのロマンチストなんじゃん」と嬉しそうに腕を組んでくる千聖に、秋鷹はふと悪徳じみた考えを過らせる。
「千聖はマリンスノーの正体は知ってるか? 確かあれは、プランクトンの排泄物、死骸、またはそれらが分解されてできたものなんだ」
「……え?」
「だから実際、俺たちはプランクトンのうんちを見て『綺麗だね』って笑い合ってたんだよ。そう思うと、なんだか別の意味で笑えてくるよな。まあ今見てるのは本物の雪の結晶なんだけど、それも塵やホコリでできているものだから決して綺麗なものとは言えないよね」
「……は?」
「あれ、笑えない……?」
あれ、ともう一度首を傾げる秋鷹。しかし千聖は、先程まで浮かべていた笑顔を仕舞うと、組んでいた腕を離して無表情になる。
「ばか……」
秋鷹から一歩離れた場所で、千聖は目尻に涙を溜めた。そして、きゅっと唇を引き結んでから、ちいさく拳を振りかぶる。
「――あーくんのばかばかばかっ! せっかくロマンチックだったのにぃ! ぜんぶ台無しじゃない……!」
「うっ、ちょ……ごめんって、少し揶揄っただけじゃん」
「だめなのっ、ムードがないの!」
「なんだよそれ……」
ポカポカと千聖に殴られ、秋鷹はされるがままに立ち尽くした。ふと窓ガラスを見ると、そこには見覚えのある一組のバカップルが映っていた。
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