第82話 ワガママなお姫様
修学旅行二日目は、もちろんスキーをすることになっていた。
上級者と初心者に分かれてスキーの講習を受けるのだが、秋鷹はまったくと言っていいほどスキーができないため、午前中は穏やかな斜面を利用してスピードの緩め方やターンの仕方などを学んでいる。なお、初心者は秋鷹と千聖、その他のクラスメイトが数人といったところだ。
「千聖って努力家だよな」
「……なに? いきなり」
秋鷹の言葉に不審げに、へっぴり腰の千聖は眉をひそめた。
「料理が上手いのも、走るのが早いのだってそう。最初は苦手だったのに、努力でなんとかしてきたじゃん? それが素直にすごいなって思って」
ストレートに言ってしまうと、千聖はどんな物事においても才能というものが微塵もない。しかし、それでも一から学び、努力した結果、色々なことができるようになっている。スキーだって今でこそ下手っぴだが、直にできるようになっていくだろう。まあ、時間はかかりそうだけど。
「改めて言われると恥ずかしいからやめてよ。なんかあたしが必死みたいじゃない」
「全然そんなことないよ。一生懸命でかわいい」
「かわいいってあんたねえ! 顔がもう馬鹿にしてるのよ! 自分だって下手くそなくせにっ」
「千聖よりはできるようになったよ。ほら――」
「うぅ、むかつく……」
昨日まで歩行練習すらままならなかったのに、秋鷹は千聖の周りをすいすいと滑っていた。それが気に食わなかったのか、彼女は秋鷹が近づいてきた瞬間、その腕をバシッとつかみ取る。と――。
「うわっ……」
体勢が崩れ、秋鷹と千聖は一緒に倒れ込んでしまった。
スキーウェアがもこもこしているお陰で衝撃は抑えられたが、秋鷹は千聖に覆いかぶさられているため、起き上がろうにも起き上がれない。
「千聖、危ない……」
「ご、ごめんなさい……」
「お前、この歳になってまだ子供みたいなことするんだな」
「うっ……怒った?」
悪いことをしてしまったというのはわかっているようで、千聖は泣きそうな顔で秋鷹を見つめる。そのまま、おでこに着けていたゴーグルを目元まで下げて、涙の溜まった瞳を隠す。
「ばか、怒るわけないだろ」と秋鷹は言って、千聖のゴーグルをもう一度おでこに乗せた。そして、目を合わせながらそっと微笑む。「むしろ抱きしめたくなった」
「じゃ、じゃあ……抱きしめる……?」
「いいの? 皆に見られてるけど」
「あ、あとでっ……」
事故とはいえ、秋鷹の上に千聖が乗っているという状況は異常事態のため、周囲には小規模の人だかりのようなものが出来ていた。
千聖は慌てて起き上がると、周りにいる人たちをあの手この手で追い払った。その甲斐あって、なんとか誤解されることはなかったようだ。
秋鷹も難なく立ち上がると、一面の雪景色を眺める。リフトを追って遠くを見て見ると、向こう側には霧がかった雪山が見えた。そんな銀世界を眺めていると目がチカチカしてくるので、秋鷹は視線を元に戻して練習を再開する。と、近くで他のクラスの女子たちが楽しそうに騒いでいた。
「わふっ……冷てーです!」
「あははっ、何してんのマリー」
「ちょっ、ウケるんですけどぉ。全然滑れてないじゃん」
雪にずっぽりと顔をうずめるマリーの周りに、その友人たちが群がっていた。それをじっと見ている秋鷹の視線に気づき、友人の一人がこちらに近づいてくる。
「宮本君、三日ぶりくらい?」
「そうなるな」
ゴーグルを外して素顔を見せた彼女は、カレンダー関係のことで三日前に会った冬月鏡華だ。名前のごとく、雪の上を滑る
「杏樹は元気してる?」と鏡華は言った。「姿が見えないけど……」
「来栖さんなら先生とかまくら作ってるよ」
「スキーはしないの?」
「苦手なんだって。でも、たぶん今日の午後とかには滑る練習とか始めてるんじゃないかな。ずっとかまくら作るってのも飽きるでしょ」
「えー、あたしは普通に楽しそうだなって思うよ。かまくら作り」
そう言って微笑を湛えた鏡華は、かまくらを作っている杏樹を発見したのか、そちらをじっと見据える。そんな鏡華に秋鷹は、
「なら、一緒に作れば?」
「うーん、今は遠慮しとくかな」
「マリーで遊んでるからか?」
「その言い方はちょっと語弊があるな。マリーと遊んでるんだよ」
「ほどほどにな。なんていうか、浦島太郎の亀をイジメてるシーンに見えてくるから」
「あはっ、的確ー」
笑い事ではないのだが、と秋鷹は思った。
しかし、鏡華はツボに入ったのかくすくすと口元に手を当てていた。そして不意に、秋鷹の隣に視線を向ける。
「ところで、さっきからずっとこっちを見てるその子は?」
「……あ?」
真横に顔を向けると、そこには不快そうな表情をした千聖がいた。鏡華は千聖の顔をじろじろ見ると、ほんのわずかに口角を上げる。
「
「……白々しい」
「素直にそう思ったんだけど、なんか嫌味ったらしくなっちゃったみたいだね」
千聖にキッと睨まれるも、鏡華は表情一つ変えず、微笑のまま続ける。
「日暮さんはさ、宮本君があたしのカレンダーに出てることは知ってんの?」
「知ってる」
「それなら話は早いね。日暮さんもどう? 今年はもう撮り終わっちゃったけど、来年のカレンダー撮影とか」
「あたし、そういうの興味ないの」
「……なーんか、凄い不機嫌」
仏頂面の千聖に対して肩を竦めた鏡華は、「まあいいや」と思考を切り替える。
「気が向いたら声かけてよ。それじゃーね」と言って、友人たちの元に戻っていった。
秋鷹がその後ろ姿をなんとなく見ていると、千聖にスキーウェアの裾をくいっと引っ張られる。
「カレンダーのことなんだけど」
「……なにか不満?」
「できれば、ああいうのはもうやめてほしい」
当たり前のことだが、千聖にはカレンダー撮影をすることは事前に知らせていた。そのときはあまり気にしていなかったのだけれど、今になって不満が湧き上がってきたようで。
「秋鷹がどんどん有名になっていくと、あたし、不安で……。秋鷹がどっか行っちゃうんじゃないかって、遠くに行っちゃうんじゃないかって、いつもいつも心がかき乱される」
「俺は、どこにも行かないよ?」
「うん、わかってるの。わかってるけど、不安で仕方ないの……」
「ごめん、哀しませちゃったのかな」
秋鷹は人目もはばからず、千聖を抱きしめた。嫉妬深い彼女のことだから、おそらくはチヤホヤされる秋鷹を見て心を痛めてしまったのだろう。
文化祭でベースを弾いたことはまだいいとして、有名モデルのカレンダーといういかにも注目されそうなものに参加してしまったことを、秋鷹は深く反省した。
「わかった。もうやめる。だから泣くなよ」
「泣かない、泣かないもん」
「声が震えてるよ」
「寒いの」
「俺も寒い」
そう言って、お互いがお互いを温めるかのように抱きしめ合った。
そしてこのとき、秋鷹はメディアに露出することを控えることにした。ネットで拡散されてしまったことに対しこちらからアクションを取らなければ、フェードアウトすることは可能だろう。ファンの期待を裏切ってしまうことになるが、秋鷹にとっては千聖の方が大切だった。
※ ※ ※ ※
初心者講習を受けていた者たちは、午後になると、皆で山頂に向かうことになっていた。山頂といっても、初心者コースとして使われている場所なので安心だ。
しかし、秋鷹と千聖はこっそりと抜け出し、一足先にリフトに乗っていた。初心者講習を受けていた者たちの人数がそれなりに多いため、一人や二人抜け出してもまあバレることはないだろう。
「やばいっ、高いよあーくん!」
「うん、落ちちゃわないようにね」
「怖いこと言わないでよっ……!」
「じゃあ、手繋いどく?」
秋鷹が手を差し出すと、千聖は迷いなくその手を取った。すると、先程まで震えていた千聖の体が安らぎを得ていく。
しかし、彼女は真下の積雪を見てしまったらしく、咄嗟に秋鷹の手を自分の方に引き寄せ、そのまま両手でぎゅっと握った。
「千聖」
「やっ……」
「こっち向いて?」
頑なに目を瞑っていた千聖は、秋鷹の言葉に反応し、おそるおそるこちらに顔を向ける。その顔に、秋鷹はキスをしようとした。
「……あれ、キスできない」
「ふふっ、なにしてんの……?」
おでこに着けていたゴーグル同士がぶつかってしまったようで、唇を触れ合わせることができなかった。
秋鷹は気を取り直して、千聖のあごに手を添える。
「あご上げて?」
「……うんっ」
かっこ悪いところを見せてしまったが、二回目はしっかりキスを交わすことができた。気温が下がっていて、肌も冷たくなっているはずなのに、千聖の唇はとても温かく感じた。
「すきっ」
「俺も好きだよ」
「ねぇあーくん? あたしたちって気が合うと思わない?」
「そう? どこら辺がかな」
千聖は八重歯を見せて無邪気に笑うと、秋鷹の意地悪な問いかけに答える。
「あーくんはあたしが怖がってるときにキスしてくれたでしょ? あたしもね、そのとき、キスしたいって思ってたの」
「ほんとだ、一緒だな」
「安心させたいって気持ちと安心したいって気持ちが上手く噛み合った感じ? ……それからね、あたしたちってまったく喧嘩しないじゃん? もう付き合って三ヶ月くらい経つのにだよ、すごくない?」
「それは、俺が寛容なだけじゃなくて?」
「――なにっ、あたしが我儘だって言いたいの!?」
「一言も言ってない」
急にヒステリーを起こした千聖に、「でも確かに」と秋鷹は思った。
我慢しているわけではないが、これまで幾度となく千聖の我儘を受け入れてきた気がする。「あれしたいこれしたい」とまるで子供のように、千聖の我儘具合には振り回されてばかりだ。とはいえ、それらはすべて叶えられる範囲のものであるため、秋鷹にとって苦はなかった。
「着いたよ」
山頂に到着したようで、秋鷹は千聖と一緒にリフトを降りる。
初心者コースということだけあって、斜面は思いのほかなだらかだった。雪は降っておらず、空からは燦々と太陽が照りついている。
秋鷹はスマートフォンを手に持つと、不安な面持ちで傾斜を眺めている千聖をカメラに収めた。
「映えてるよ、千聖」
「勝手に撮んなーっ!」
その怒った表情もまた、アルバムに保存する。
「激おこぷんぷん丸?」
「むかむか丸」
「なんだそれ」
秋鷹は捨てるように笑うと、少しだけ距離が離れたところにいる千聖を見つめた。彼女はストックを持ったまま、腰に手を当てて、かつ頬を膨らませている。
「あのさ、千聖」
そんなとき、秋鷹はふと思ってしまったのだ。この時間が一生続くなら、自分は満足できるのだろうか――と。
「俺、今のところ、千聖より好きなものが見つからない。たぶん、これは本心だ。これまでの俺なら、寝ぼけ気味の朝に食べる卵かけご飯とか、学校帰りの寄り道で食べるチーズバーガーとか、あるいはコンビニで買ったサラダチキンとか、好きなものを訊かれたとき、そんな無難なもので答えてた。だけど今は違うんだよな。また同じことを訊かれたとしたら、俺はきっと千聖のことを思い浮かべる」
「あたし、卵かけご飯と比べられてるの?」
「それくらい、俺にとっては重要なことなんだよ。何を訊かれても、真っ先に思い浮かべてしまうのは千聖なんだから」
「変な秋鷹」
千聖は口をへの字にして、首をこてっと傾げていた。そんな彼女に、秋鷹は同調を求める。
「でもそれって、悪いことではないだろ?」
「うん、決して悪いことじゃない」
千聖は嬉しそうに微笑み、「だって」と続ける。
「今は秋鷹、あたしに夢中ってことでしょ?」
「かもしれないな」
これを恋と名付けるには、まだ不確定な要素がたくさんある。
しかし、変化と呼ぶには、確からしかった。
恋人とは名ばかりの関係を築いていた秋鷹だったが、千聖を手放したくないという矛盾した考えも隠し持っている。
あの頃なら考えもしなかっただろう。必要がなくなったらすぐに新品を用意するような人間だった自分は、今じゃ何気なく手を出した骨董品一つに執着してしまっている。それはダイヤモンドの指輪のように、小さくても価値があるものだったから。
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