第三章幕間 報復

 とある喫茶店で、少年は一頻り水を飲んでいた。コップの中の氷がカランッと音を立てる。

 目立たない場所を定位置として、虚空を見つめながら延々とそこに座り込んでいた。遠目から見れば特に不可解なところはないが、近くで見ると彼の衣服はボロボロだった。猫背の姿勢であることも相まって、近寄りがたい雰囲気をひしひしと感じさせる。


「でさー、アサケンのインスタに映り込んでた人がまじかっこよくて」

「あー。それって、サクラちゃんの文化祭ライブでベース弾いてた人でしょ?」

「そうそう! てか知ってんの?」

「当たり前でしょ。ここ最近バズリにバズリまくってたからね」


 テーブルを一個挟んだ向こう側で、制服姿の女子高生がスマートフォンを操作しながら駄弁っていた。おそらく、学校帰りの寄り道かなにかだろう。

 少年は午後四時過ぎを指す時計を見て、「もうこんな時間か」と呟き無精髭をじょりじょりと触った。


「たしか……宮本って言ったっけ?」

「うんうん。デビュー間もない新人俳優かモデルなのかなって思ったけど、まだ謎なんだよね」

「はぁ……かっこよすぎる……。私、宮本くん推していいかな?」

「いいんじゃない? 世に出てくるのも時間の問題でしょ」


 うっとりとした顔で話に花を咲かせる女子高生たちは、その宮本という男の話題で盛り上がっている。しかし、汚らしい頭を搔き乱す少年は、どうやら苛立ちを隠し切れないようだった。


「制服的に花生高校でしょ。ここの近くだから、もしかしたら会えるかもしれないね」

「そっか! あんたまじ天才っ! 出待ちとかしてみる?」

「それはさすがに迷惑だよ。遠くで見守るだけにしなさい」

「あんたも見に行く気満々じゃない」

「実物はもっとかっこいいんだろうねー。ねえねえ、早く見に行こうよ――」

 

 一人の女子高生が隣の女子高生の肩を揺すったとき、それと同時にガタンッと大きな音が鳴った。


「えっ……?」

「な、なに……?」


 それは薄汚い少年が、テーブルを思い切り叩いた音だった。彼は恨めしい表情で拳を震わせている。


「ちょっと、あれ。やばくない?」

「なにあれ……や、やばいよ。こっち見てるし」

「ここから出よ? なんか怖くなってきた……」


 女子高生は少年を見るやいなや、足早に喫茶店を後にした。その姿を目で追っていた少年は、コップの中の氷を口に入れると、それをガリッと噛み砕く。

 

 あれから数十分。喫茶店から出た少年は、夕焼けを身に沁み込ませながら河川敷を歩いていた。奇異の目で見られる街中とは違って、ここは穏やかで心地いい。


 そしてしばらく風に当てられていると、いつのまにか高架下に辿り着いていた。壁にはスプレーのラクガキが至る所に散りばめられ、地面には少年が寝床として使っている段ボールがある。壁に寄りかかってその場に座り、少年は目の前に流れる川を見据え、せせらぎに耳を傾けた。


 ――どうしてこうなった。


 思い出されるのは、一か月半前の文化祭だ。

 なにもかも上手くいっていると思っていた少年にとって、その日は絶望の淵に落とされた忘れようにも忘れられない日。今、少年がこうして橋の下で野宿のようなことをしているのも、全部あの男が原因である。

 しかし、それを語るにはまず、少年の過去について話さなければならない。企業経営者の父を持つ少年は、小さい頃から周囲よりも裕福だった。それを自覚していたし、自覚していたからこそ性格がねじ曲がってしまったのかもしれない。自分は生まれながらに他人より優れていると――選ばれた人間なのだと、他人を見下して生きてきた。

 習い事を豊富にしていることもあって、スポーツや勉学で負けたことはない。交友関係は良好で、恋人が途絶えたこともない。しかし、恋人がいるにもかかわらず、彼には数多くのセフレがいた。恋人というのも表面上だけで、裏では性処理として粗末に扱っていた。子供の頃から欲しいものがなんでも手に入っていたから、そんな風に、欲しいと思った女は力づくで手に入れてきたのだ。


 高校二年のときに出来た彼女も、最初は見た目が好みだというだけで告白した。拒まれれば弱みを握って脅してやろうと考えていたが、その必要はなかったようで、難なく承諾されたのを覚えている。

 しかし、それから彼女と付き合ううち、不思議なことに、少年は彼女に恋をしていることに気がついた。今までは女を性処理やアクセサリーとしか見ていなかったのに、ここにきて初めて恋を知ってしまったらしい。おそらく、趣味や話の相性が抜群に良かったからだろう。

 それでもセフレを絶やしていなかったのは、少年の性格が相変わらず強欲だったのが一番の理由だ。恋人のことは大事にすれど、そんな恋人とは一向に距離が縮まらないために、セックスフレンドだった女たちで苛立ちや性欲を発散していた。

 見繕った女たちの大半は弱みを握って脅していた者だ。そうしてやると、騒がしかった女たちは皆、大人しくなるのだ。


 ――ただ、その慢心が少年をどん底に陥れることになる。


 これまで自分勝手に生きてきたからこそ、少年はこの先も何もかも上手くいくと思い込んでいた。あの男に邪魔をされなければ、きっとそうだった。

 宮本秋鷹。あいつさえいなければ、今も悠々自適に暮らせていただろう。しかし、少年は断罪された。罪を償うように促され、そうするしか道はないように逆に脅されてしまった。

 内容は、それはもう酷いものだった。「苦しめてきた相手全員に誠意を込めて謝罪しろ」という横暴なものだ。唯一の脅し材料だった写真が手元にあれば――と思っても意味はない。たとえその写真があったとしても、あの男に対しては効力を発揮しないし関係ないのだ。従わなければ人生が終わる。そう突きつけられた。


 ――だが結局、従っても従わなくても、少年の人生はぐちゃぐちゃに崩れ去ってしまった。


 あの後、少年は言われるがままに「苦しめてきた相手全員」に謝りにいった。そこに待ち受けていたことが、プライドをズタズタに傷つけられる地獄だとは知らずに。


 結論から言うと、少年は「苦しめてきた相手全員」の前で全裸になって土下座させられた。これまでオモチャとして扱ってきた女たちの前で土下座させられることは、屈辱でしかなかった。

 そうせざるを得なかった理由も、やはりあの男が関係している。宮本秋鷹は少年と会話していたときのことを録音しており、それを女たちに渡していたのだ。録音には女たちの弱みを握って脅していた話がしっかりと記録されている。もう、なす術がなかった。だから、全裸になってまで土下座したのに――。


 その後、少年は逮捕された。

 女たちの中の誰かが被害届を出したのだろう。証拠が十分に揃っていることから、数日後に警察署に連行された。

 ただ、長々とした取り調べはあったものの、留置所に連れられる前に少年は釈放された。示談交渉が成立したのだ。

 弁護士を介して行われたらしく、示談金については把握していない。しかし、親が自分の家を捨てて失踪してしまったことから、相当な額を払ったことは理解できた。


「はぁ……」


 少年は疲れ切った顔で溜息を吐く。

 子供も家も捨てて、彼らは一体どこに行ってしまったのだろうか。少年の家だった場所は更地になっている。もう帰る場所もない。

 頼る相手もいなければ、身元不明の浮浪者を受け入れてくれる働き口もない。お陰でもう何日も風呂に入っていない。体中に蔓延っている痒みも、今や消えている。


 全部、あいつの所為だ。


「みやもと、あきたか……」


 その名を口にするだけで、衝動的になにかをぶち壊してしまいたくなる。憎くて、憎くてたまらない。

 だから、少年は彼に復讐すると決めていた。すべてを失った少年にしかできないことをする。それはあの男を殺すのに近いことかもしれない。


 ――あいつの、一番大切なものを奪ってやるのだ。


 たしか、あいつには恋人がいたはず。その恋人がこの世からいなくなってしまったとき、果たしてあいつはなにを思うのだろうか。あの余裕ぶった顔に吠え面をかかせてやりたい。


 少年はポケットから折りたたみナイフを取り出すと、その刃先を時間をかけてゆっくりと舐めた。

 気づけば、辺りが夜の帳に包まれていた。



※ ※ ※ ※



「動くな。動いたら殺す、喋っても殺す」


 住宅街。その暗がりの一角で、帰宅途中の男の首筋にナイフを突き立てる少年がいた。コンビニに寄っていたのか、男はレジ袋を携えながらふるふると震えている。


「こっちにこい」


 少年は男を引き連れて、人気のない場所へと移動した。

 街灯の光が当たらない公園の、汚らしいトイレの裏。そこまで行くと、首の動脈にナイフを添えながら、少年は男に指示を出す。


「持っているもの全部、ここに捨てろ」


「ぜんぶって……」


「なにも持ってない状態になればいいんだ。簡単だろ。はやく服脱げよ」


「は、はい……!」


 首筋にナイフを当てられた状態のまま返事をする男に、少年は「あと、少しでも変な真似したら迷いなくぶち殺すから」と付け加えた。

 それに反応して、男の震えがさらに増していく。彼がすべての服を脱ぎ終わり、物を地面に置き終わったところで、少年はそれらを全部徴収した。

 黒色のパーカーを羽織り、硬めのジーパンを履く。財布からはお金を抜き取って、男には再度脅しをかけた。


「絶対にこっちは見るなよ」


 背後からナイフを当てているため、ここに来るまでの間、顔は見られていないはずだ。防犯カメラにも映っていないはずだし、こんなしょうもないことで捕まることはないだろう。捕まるとしても、まだ時間はある。一週間、それだけあれば十分だった。

 

 目的は宮本秋鷹の大切なものを奪うことだ。

 この時期から推測するに、彼は今ごろ、友人たちとわいわい騒ぎながら修学旅行に行っているはず。

 三泊四日の旅行のため、そう長くここから離れていることはないだろう。


「待ってろよ、宮本秋鷹。お前に、地獄を見せてやる」


 彼が修学旅行から帰って来たときが運命の分かれ道だ。さて、彼はどんな表情を浮かべてくれるのだろうか。

 少年はけたけたと笑い声を上げ、手に持ったナイフを顔の前まで持ってくる。肝臓が狙い目かな、と密かに呟いた。

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