第76話 25時の憂鬱
ふと、なんの前触れもなく真夜中に目を覚ました。視線の先に映る老朽化した天井が自分の家の天井だということは、覚束ない眼を一度擦ってみれば何と無く理解できた。
窓から差し込む月の光に眩しさはない。しかし、微かに流れる就寝用の音楽がやけに耳障りだった。メドレーで流していたことが影響したのだろう。枕元に置いてある自分の携帯から、ビリー・ジョエルの「オネスティ」が聴こえてくる。その誠実さを求めた悲観的な曲は、現在の秋鷹にはどうにも眩しすぎた。
「起きちゃったの?」
秋鷹が音楽を消すと、隣から結衣が囁き声で訊ねてきた。
ああ、そうか――と秋鷹は数時間前のことを思い出す。今日はいつもより激しめの性行為をしてしまったのと、結衣の要望もあり、彼女を泊めることになったのだった。
腕枕を長時間していた所為で、二の腕の辺りが痺れているような気がする。しかし、体勢はそのままで、秋鷹は結衣の方に顔を向けた。
「結衣はずっと起きてたのか?」
「ううん、わたしもさっき起きたとこ」
結衣は幸せそうに微笑むと、はだけていたタオルケットを肩までかける。タオルケットを二人で兼用しているため、互いの距離感は無いに等しかった。
すると、結衣がもじもじと身を捩らせる。
「お尻の中に、あきくんのがまだ……」
そう言って、恥ずかしそうに頬を紅潮させる結衣。彼女の髪から甘い香りが漂ってくる。秋鷹は、それが自分の家のシャンプーだということに気づくのが遅れた。
そういえば、行為の後に一緒に風呂に入ったんだった。身体を洗いっこしたり、二人で湯船に浸かったり、恋人らしいことをたくさんしたのを覚えている。実際は違うのに、そういった恋人ごっこをすることが結衣的には楽しいらしい。今だって、お互いに一糸まとわぬ姿で身を寄せ合っているわけで。
「あのさ、結衣」
「……ん? なあに?」
「結衣に、今日もらったあのコスメあげるよ」
恋人というワードで思い出したことだが、秋鷹は今日――正確には昨日、冬月鏡華から五千円相当のコスメをもらった。千聖にあげるつもりだったが、この際だから結衣にあげてしまおう。そう思ったのだ。
「いいの?」
「もちろん。化粧っけのない結衣には必要ないだろうけど、俺よりは正しく使ってくれそうだし」
「わたしだって、化粧くらいするもん」
なぜか、結衣はここで頬を膨らませた。
「ほんとに?」と秋鷹が訊く。
「ほんと! 疑うなら、証明してみせるっ」
「どうやって証明すんのさ?」
意地悪い表情の秋鷹に、結衣は一瞬だけ口をまごつかせると、意を決したように弱々しい声で言う。
「今日の放課後、デート、しよ?」
「デート……。そのときに、化粧でもしてくるの?」
「……うん」
ただ返事をするだけで、結衣の顔は真っ赤に染まってしまった。当たり前ではあるのだが、彼女はこういうとき、いつも初々しい反応をする。それが少しおかしくて、秋鷹はくすりと笑ってしまった。
「じゃあ、楽しみにしてる」
期待を込めて、やさしく頭を撫でてやった。
それを続けていると、結衣が控えめに身体を密着させてくる。腕枕だった体勢をちょぴっと変えて、仰向けの秋鷹に覆いかぶさるように抱き着いた。
結衣のやわらかい胸の感触が胸板越しに伝わってくる。どういう意図をもってこの行動に移り出たかは知らないが、たぶん、そこに理由はいらない。秋鷹も、上に乗っかってきた彼女を自然と抱きしめた。
そんなとき、不意にこんな言葉が脳裏を過っていた。
――結衣は絶対に渡さないから。
その発言とあの表情からして、彼はきっと結衣が好きなのだろう。好きでなくとも、気になる程度の存在であることは間違いない。
しかし、だからといって身を引く理由にはならないし、秋鷹には関係ないことだった。
ならば、とことん溺れさせてしまっても構わないだろう。
「今はずっと、ここにいていいからな」
結衣の耳元で、そう囁いた。
安心させるように、それでいて離れさせないように。彼女がずっとこのままでいれるように、秋鷹は朗らかに微笑む。
「ここは、結衣専用だよ」
前髪を分けて、額にキスをした。
※ ※ ※ ※
その日の授業は、五時限目が修学旅行の班決めだった。一か月後に迫る修学旅行では、男子が四人部屋、女子が三人部屋という風になっている。
秋鷹は毎度おなじみのイツメンと一緒の部屋だ。担任の教師が班を決める時間を十五分ほど設けたのだが、秋鷹は颯爽と班が決まってしまったため、自席で友人たちと駄弁っていた。
「おい秋鷹、お前やばくね? どんどん有名になってるぞ」
秋鷹の前の席でそう言ったのは、赤茶髪の少年――和田敦だ。彼はスマートフォンをこちらに向けると、
「アサケンのインスタに載ったことで、すげー拡散されてる」
「あの人、そんなすごい人だったのか」
「おいおい秋鷹。お前、無知にもほどがあるぞ。人気若手俳優のアサケンだぞ? テレビで見ない日はないって」
「俺の家、テレビないんだよなー」
秋鷹はこちらに向けられたスマートフォンの画面を見て、どうでもいい雰囲気を醸し出した。
けれど、無知なのは認めよう。勉強はできても、家にテレビがないため、そこから発信される情報は何も知れない。Wi-Fiもないことから、むやみやたらに動画を観たりSNSを使用したりすることができない。ニュースなどは、テスト前にちょろっと携帯で調べたりするくらいだ。まず、そういったものに興味がない。
「
「そりゃあ知ってるよ」
丁度席が空いていたようで、帝は秋鷹の隣の席に腰かける。それから、
「若手といっても、売れっ子の有名人だからね。そんな人のインスタに映り込んだからには、秋鷹の名が知れ渡るのも時間の問題だね」
なにやら物騒なことを言う帝。そこに、敦が同調する。
「そうそう。それに、アサケンと秋鷹の関係はみんな知りたがるだろ。もしかしたら、秋鷹は新人の俳優か何かだと思われてるかもしれないな」
「それ、面白そうだね。冬月さんのカレンダーが発売されたら、もっとすごいことになりそうだ」
なぜそんなにもワクワクした表情をしてるんだ帝、と秋鷹は困惑する。
Wi-Fi以前に、SNSを見るのが段々と怖くなってきた。ほとぼりが冷めるまで大人しくしたいものだが、そうは問屋が卸さないのも事実。自業自得なところは否めないが、本当に困ったものだ。
秋鷹はカレンダー仲間である杏樹の方に視線を向けた。彼女は相変わらず澄ました顔で自分の席に座っている。一応、冬月鏡華のカレンダーに出演する役者は公表されておらず、杏樹がカレンダー撮影をしたことはまだバレていない。秋鷹も仲の良い友人以外には教えていないため、情報漏洩しない限り発売日まで出演が知れることはないだろう。
一か月後には発売されているということだから、修学旅行当日には皆の手元にそのカレンダーが行き渡るわけだ。末恐ろしや。
秋鷹はガックリと肩を落として冷や汗をかいた。
気を取り直して、教室の中を少しばかり見回してみる。班決めについては、もうどこも決め終わったみたいだ。
一人になると懸念された杏樹も、結衣が強引に班に誘っていたから大丈夫そうだった。しかし一人だけ、あぶれてしまった者がいる。
「男子のみなさーん、聞いてください」
担任の教師が、男子全員に呼びかけをした。しんと辺りが静まり返り、教卓に男子のみならずクラス全員の視線が集中する。そこには、視線をキョロキョロと惑わせた影井涼がいた。
「影井君が余ってしまったみたいなので、どこか入れてくれる班はいませんか? 人数足りないところとかありません?」
静寂を纏うこの教室で、担任の声だけが寂しげに響いていた。結局、帝の提案で、メンバーを入れ替えた末に涼は秋鷹たちの班に来ることになった。
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