第75話 トタン家
そこはトタン板が張り巡らされた古寂びた家だった。
壁一面は赤錆色。雨は凌げるが、降ってきた際には雨音の大合唱が金属の壁を通して響き渡るだろう。
だが、意外にも家の中は鉄臭さはなく、季節は冬に近づいているというのに蚊取り線香の匂いが充満していた。
一見すれば貧乏な家庭と捉えられるその家は、しかし秋鷹の六畳一間のワンルームよりは広く、家族で暮らすには最適と言える場所だった。近くには階段もあり、どうやらここは二階建ての一軒家らしい。
「座れ宮本! お前は今から死刑だ!」
強引に連れて来られ、秋鷹はリビングらしき場所に座らされていた。
ちらと横に視線を向けると、そこには昭和レトロな小さいテレビが置かれていた。不意に、秋鷹は自分がサザエさんの世界に飛び込んでしまったのかと錯覚した。
「レン! まだだめ! この人がおねーちゃんのかれしかどうか、じじょーをきかないとっ」
と、そこで声を上げたのは、やはり昭和チックな服装をした少女だった。彼女は丸刈りの少年に向けて、膨れっ面を披露している。
「そんなこと言ったって、こいつ、ねーちゃんをたぶらかしたヤリチン野郎なんだぞ!」
「――ちょ、ちょっとレン……! どこでそんな言葉覚えたの?」
「や、やりちん……? どういう意味?」
「――リンはまだ知らなくていいの!」
杏樹が叱りつけているが、少年と少女はやいやいと騒いでいる。そして、彼らの名前がレンとリンだということが判明した。
やり取りを聞いている限りだと、おそらく杏樹と彼らは血縁関係にあるのだろう。杏樹は世話がかかる弟と妹に振り回され、もはや頭を抱えてしまっていた。
そんなとき、彼女に救いの手を差し伸べるように、
「来栖さん。あとは僕がなんとかするから、晩御飯作ってきちゃいなよ」と涼が言った。
「……ええ、そうするわ」
杏樹はそれに応え、涼から渡されたレジ袋を持って台所に行ってしまった。時刻はまだ十五時くらいだというのに、お早い支度だ。
「来栖さんから聞いてるよ。カレンダー撮影してたんだって?」
言いながら、涼は秋鷹の目の前に腰かけた。丁度、二人の間にはちゃぶ台があった。
「りょうにい、聞いてくれよ! こいつ、ねーちゃんのこと狙ってやがるんだ!」
「そ、そうだよりょうおにいちゃん! おねーちゃんにはりょうおにいちゃんっていう素敵な人がいるのに、この人ったらそれを横取りしようとしてるのっ」
「まあまあ二人とも。宮本君はそんな悪い人じゃないよ」
涼が慣れたように
「まさかあんなところで鉢合わせるなんて思いもしなかったよ」
「俺もだよ」と秋鷹は同調した。「影井はどうしてあそこに?」
「来栖さんにこの子たちのお
「へぇ。仲がいいんだな、お前ら」
「そう、なのかな?」
涼は頬を掻きながら、困ったような笑みを浮かべる。
「だってそうだろ? 普通、仲良くない相手に自分の家族を任せられるか?」
「任せられないね」
「うん。だから、それだけ信頼されてるってことだよ」
秋鷹はふっとため息を吐いた。
すると、横から耳に響くような大声が聞こえてくる。
「りょうにいは凄いんだぞ!」
丸坊主の少年レンが、胸を張って誇らしげにしていた。
「りょうにいはねーちゃんにとってヒーローみたいな存在なんだ」
「ヒーロー?」と秋鷹は聞き返す。
「そうだ。ねーちゃんが不良にナンパされて襲われそうなとき、みんなが見てみぬふりをする中で、りょうにいだけは一人で立ち向かったんだ。自分だって無力なくせに、一人でだぞ! バカかっこいいじゃんか!」
「確かにかっこいい。勇気あるな」
秋鷹がレンの熱量に共感して笑うと、涼が「結局タコ殴りにされてボロボロになっちゃったんだけどね。あまり掘り返さないで欲しいな」と青い顔をしていた。
それを否定するように、リンが言う。
「おねーちゃんは、今でもその出来事を昨日のことのように語るの。まるで、白馬の王子様が現れてしまったかのように誇張して……」
「おいリン! それは言っちゃだめなやつだ!」
「あっ、そっか。言っちゃだめなやつだよねっ、これ!」
焦りに焦る兄妹二人だが、一方、涼はなぜか納得していた。
「
盛大な聞き間違えをしていたようだ。
こんな風に彼はたまに難聴を発症するが、耳の奥に何か詰まっているのだろうか? と秋鷹は純粋に首を傾げた。
とはいえ、都合のいいものだけが聞こえてくる耳というのも、存外につまらないものだ。悪い話に耳を傾けることができなければ、人は成長しないのだから。
そんな折、
「本当に凄いのは来栖さんの方だよ」と涼は言った。「僕はどうあっても、来栖さんみたいに頑張れないと思う。誰の力も借りないで、すべて自分一人の力で補ってしまう来栖さんみたいには、なれない」
涼は台所の方に視線を向け、遠い目をしながら言葉を継ぐ。
「だから、この子たちのお守りを頼まれた時は、素直に嬉しかったなぁ……。宮本君の言った通り、信頼されてるって感じがして」
「……そっか。買い物も、そのときに頼まれたのか?」と秋鷹が訊いた。
「ああ、うん。大変そうだから、僕から提案したんだ。『よければ夕飯の買い出ししてこようか?』って」
それが二つ返事で承諾された結果、タイミング悪く交差点で鉢合わせてしまったわけだ。
「りょうにいがそうやって手伝ってくれるお陰で、ねーちゃんは少しでも楽できてんだ。感謝しかねえよ、まじで。それに引き換え、お前! 宮本! ねーちゃんをたぶらかしてんじゃねえよ! ただでさえ働きづめのねーちゃんに、仕事を押しつけやがって……」
「ごめんごめん。知らなかったんだ、俺」
レンにキッと睨みつけられ、秋鷹は慌てて謝る。
ここに来て確信に変わっていたことだが、やはり杏樹の家庭は裕福ではない。ならば、彼女がお金の話に飛びつく理由にも得心がいった。
「知らなかったじゃすまねえんだよ! ねーちゃんはな、ねーちゃんはなぁ……!」
「や、やめなよレン。おねーちゃんだって、かんがえなしにお仕事を引き受けたわけじゃないよ。おねーちゃんがちゃんと考えて行動する人だってこと、レンも知ってるでしょ?」
「おいリン……。お前、こいつを庇うのか……!?」
「そういうんじゃない。ただ、宮本さんを責めるのは間違ってると思っただけ」
「宮本さんだとぉ!? さっきまでおれと一緒にこいつを貶してたのに、律儀に〝さん付け〟してやがる。やっぱり顔か、顔なのか?」
「だから違うって! あと、貶してなんかない!」
ガンを飛ばすレンと、頬を膨らませるリン。彼らは顔を真っ赤にさせて睨み合うと、ぷいと互いに顔を背ける。
そして、膨れっ面のリンとは対照的に、レンは悲しそうな顔で台所を見据えていた。壁で隠されて見えないが、その先には料理中の杏樹がいるのだろう。
「……かーちゃんがいなくなってから、ねーちゃんはいつもあんな感じだ。休む暇なく働いて、料理作って。寝てる姿なんて、ここ最近は見たこともない」
俯いて、レンは悔しそうに拳を握る。そうやって、ただただ自分の無力を呪っていた。
そんなレンの傍ら、涼がゆっくりと口を開く。
「僕も詳しくはわからないけど、来栖さんはいなくなったご両親の代わりに、ああやって一人で家庭を切り盛りしてるんだ。並大抵の努力じゃ、あそこまでできないよね」
「親が、いない……」
秋鷹は彼らの親がいない理由を探ろうとして、咄嗟にやめた。考えられることとしては、突然の失踪や育児放棄。むやみに訊いていい事柄ではなかった。
それからしばらくの間沈黙が続くと、思い出したかのようにレンが声を上げる。
「ああ! そうだおれ、こいつを死刑にするんだったっ! くそ、忘れてた……。リン、少しの間そいつを監視してろ。おれは部屋から金属バットを持ってくる」
物騒な言葉を言い残し、レンは足早に階段を上っていった。それに追従するように、リンも行動を起こす。
「宮本さん、すみません。レンって、おねーちゃんのことになると頭がおかしくなるんです。わたしが止めてくるので、ちょっと待っててくださいね」
下げていた頭を静かに上げると、リンは階段を上がって行ってしまった。
確かに、唐突に金属バットを取りに行くなんて頭がおかしいとしか言いようがない。まともな人間がそばにいてくれてよかった、と秋鷹はほっと胸を撫でおろす。
リビングには、秋鷹と涼だけが残った。静寂がこの場を支配する中、台所からぐつぐつと何かを煮込む音が微かに聞こえてくる。
「さて、俺は帰るか」
「えっ、帰るの?」
秋鷹が立ち上がると、涼が少しだけ驚いた顔をした。
「今がチャンスだろ? 元々あの二人に強引に連れられてきたわけだし、あいつらがいないうちにさっさと退散しないと」
「勝手に帰ったら、レンくん、物凄く怒ると思うけどなぁ……」
「いいのいいの。それに、俺がいたら邪魔になるだろうしな」
「邪魔なんて、そんな……」
涼は否定しようとしたが、その前に秋鷹は彼に背中を向けていた。
事実、秋鷹は兄妹二人はもちろんのこと、杏樹からも歓迎されていないだろう。仲良くなろうと試みてはいるが、未だ進展はなく、距離は一向に縮まらない。
だとすると、この非常にアウェイな状況で笑顔を作るなんてのは無理な話だった。居心地が圧倒的に悪いため、秋鷹はここで退散する。そうして、歩き出そうとしたときだった。
「――宮本君」
涼が立ち上がって、秋鷹を引き留めた。秋鷹は肩越しに振り返ると、「なんだよ」と言葉を返す。
「宮本君に一つ、伝えておかなければならないことがある」
妙に改まった態度で、涼は秋鷹を見据える。彼の瞳は、やはり真剣そのものだった。なにか壮大な決意を固め、かつ、意思を新たにしたような目だ。
秋鷹は無言のまま、彼の言葉を待った。すると、静謐にただ一言だけ、紡がれる。
「結衣は絶対に渡さないから」
その言葉に、秋鷹は小さな微笑みで返した。それから、「そうか」とだけ呟いて、トタン家を後にする。
涼がなぜ、そういった言葉を言い放ったのかはわからない。しかし確かなのは、それが宣戦布告のように思えたことだった。
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