第68話 気づけなかった想い
テスト勉強が大詰めの段階となった今日、涼は放課後の図書室で勉学に勤しんでいた。一年生の頃から、これだけは変わらない。
ただし、メンツは少々変わっている。隣で黙々と勉強している黒髪の少女――
「リョウ! この漢字は何て読むですか?」
「それは影井涼、僕の名前だね」
「なるへそです。かっこいい漢字をしているのですね!」
「普通だと思うけどな……」
果たして、このやり取りは何回目だろうか。
彼女に日本語を教えるようになってから早半年。日本語を習得したはいいものの、次の課題は漢字だった。
教えるのはやぶさかではないが、このままだと自身のテスト勉強が疎かになってしまう。そのため、杏樹に「手伝って欲しい」と頼んだのだけれど、彼女は彼女で自分の勉強にかかりきりだった。
ここに千聖と結衣、あるいはそのどちらかがいれば、こんなに苦労せずに済んだのかもしれない。涼は無意識に、溜息をついた。
「時間なので帰るです」
「あ、うん……」
しばらく経つと、彼女は涼の膝の上から飛び降りた。椅子に座っている涼と目線の高さが同じだ。
それだけ、彼女の身長は低かった。
「テスト勉強とかしなくて大丈夫?」
「ダイジョブじゃないです」
「だよね。テストは明日だから、今日教えたこと、ちゃんと復習しなよ?」
「はいデス。あとはおねーちゃんに教えてもらうので、涼は心配しねーでください」
母国語で教えてもらった方が効率的だし理にかなってるし反論の余地なし。手を振りながら図書室を出る彼女に、涼は小さく手を振り返した。
「来栖さんも、帰る?」
「ええ、そうするわ」
「そっか。またバイト?」
「いつも通りよ」
机に広げられた教材やノートを鞄に仕舞い、杏樹は淡々と返答した。
彼女が家庭の事情で色々と大変なことは、この学校の生徒の中で涼が一番わかっている。それ故、ここに呼び出してしまったことを申し訳なく思った。
「今日は無理言っちゃってごめんね。マリーがどうしてもって言うからさ」
「気にしてないわ。元々、あなたと私で勉強する予定だったでしょう?」
「それでも、うるさかったでしょ?」
「自覚しているならわきまえなさい。それと、私と約束しているのに、他の女を連れてくるなんて、最低な男ね」
杏樹は瞑目すると、盛大に吐息した。
そして立ち上がり、鞄を肩にかけて図書室を出ると思いきや、扉の前でじっとこちらを凝視してくる。
「……帰らないの?」
「帰るわ」
「えっと、なぜそこに?」
「影井君を待ってるのよ。はぁ……どうして毎回、私の方から言わないといけないのかしら? 友達なのだから当たり前でしょう? それとも、影井君はその歳になって異性と帰ることが恥ずかしいと喚き散らかす、ただのヘタレ男子なの?」
杏樹の透き通った声音は、静寂を纏った図書室に静かに響き渡った。幸い涼と杏樹以外だれもいなかったため、注意されることはなかった。
「ごめん……僕と帰るの、迷惑かと思って」
「そう思われる方が、こっちとしては迷惑よ。――影井君、あなたはもう少し自分に自信を持ちなさい」
「え……?」
「私はあなたの、根が優しい部分だったり否応なく人を助けてしまう美徳だったりを知っているけれど、他の人はあなたを外見だけで判断して中身を見ようとしない。だからあなたのいい部分をいつまで経っても知ることが出来ないの。それって少し……いえ大分、損なことではないかしら?」
杏樹は表情一つ変えないまま、涼に向けて言葉を投げかけた。
「影井君、あなたはもっと自信を持っていいのよ。少なくとも、私から見れば、あなたは他の誰よりも輝いて見えるわ」
「なんか……そんな褒められると照れるな……」
冗句だとわかっていても、涼は自分の顔が熱くなるのを感じた。いつも毒舌な杏樹に言われたからだろうか。真に受けてしまいそうだった。
そんな自分自身を隠すように、涼はぎこちなく微笑む。
「帰ろっか」
杏樹の頬が朱に色づいていたことには気づかずに、涼は彼女の元まで駆け足で向かった。
※ ※ ※ ※
昇降口を出ると、辺りは綺麗な緋色に染められていた。下校中の生徒はぽつりぽつりといるだけで、大した数ではなかった。
部活動は当然ながら停止されている。しかし、グラウンドには二人の少年と少女がいた。昇降口から校門に続く道途で涼がその光景を眺めていると、少女の方がこちらに振り向く。彼女は大きく手を振ると、颯爽と駆け寄ってきた。
「――りょうせんぱーい! こんちわっすっ」
先ほどまで相当な練習を行っていたのだろう。体操服から垣間見える彼女の肌の至る所に、汗と思しき透明な水の粒が滴っていた。
「来栖先輩もこんちわっす!」
「チッ……」
「えっ? 今舌打ちした?」
少女の挨拶に舌打ちで返した杏樹は、涼の後ろで文庫本を開いた。しかし、そんな杏樹の様子はお構いなしに、少女は明るい表情で言う。
「先輩! 最近会えに行けなくてすみません」
「いやいや全然、別に会いに来なくてもいいんだよ?」
「そうはいきませんよ! りょう先輩、いつも独りぼっちで可哀想じゃないですか!」
「うーん、なんて言えばいいんだろ。柚木さんが僕の教室まで来ると注目されるっていうか、僕的にはちょっと困るんだよね……」
未だ理由はわからないが、
ただでさえ可憐な容姿をしているのだから、その笑顔、むやみに振り撒かないで欲しい。クラスメイトの男子が毎回大騒ぎして最終的には涼に視線が集まってしまう。
「そんなことにかかわらず、りょう先輩っていつも目立ってるじゃないですか。ほら、千聖先輩だったり結衣先輩だったりが周りにいて……ってあれ? 今日、千聖先輩はいないんですか?」
茜は小首を傾げると「あと、結衣先輩も……」と反対側にまた小首を傾げる。それを受けて途端に、りょうは歯切れが悪くなった。
「あー……結構前からなんだけど、二人とも忙しいみたいでさ、一緒に帰ったりとか中々出来なくて……」
「……そうなんですか。前は、あんなに一緒に帰ってたのに」
「うん、仕方ないよ。この時期って、色んな行事ごとが立て続けに行われてるからね」
「それもそうですけど……」
涼が放ったそれは、強がりのような、寂しさを紛らわすための弱々しい言葉だった。単純に千聖と結衣が大切な幼馴染だということもあるが、それとはまた別の気持ちに涼は翻弄される。そのもやもやは、心の中で徐々に徐々に膨れ上がっていく。
すると、茜が昇降口の方を見て「あっ……」と小さな声を上げた。涼も振り返ると、そこには鼻歌を歌っている結衣がいた。
しかし彼女は、急ぎ早にローファーを履き、涼の真横を通り抜けていく。実際は幾許か距離は離れていたけれど、決して気づけない距離ではなかった。ましてや結衣なら、確実に涼のことを見つけてくれるはずなのに――。
校門で立ち止まった彼女は、そこにいた黒髪の少年と楽しそうに笑い合っていた。肩が触れ合いそうな距離で、一緒に携帯を覗き込んでいる。それを見ていると、何故だか心がざわついた。
「なるほど、そういうことですか……」
茜がぽつりとつぶやいて、納得したように僅かに頷く。
そんな茜に気を取られ、よそ見していた涼が再び校門を向くと、もうそこには彼らの姿はなかった。ただただ涼の心に、ずっしりと重たい何かが残る。
「りょう先輩」
「ぁ……」
その呼びかけに対し、茫然としていた涼は、かすれた声でしか返事が出来なかった。
「自分から行かないと、拾えるものも拾えませんよ」
わかっている、そう言い返したかった。だから告白すると決意したし、結衣とまた面と向かって話し合いたいとも思っている。
それでも未だ一歩が踏み出せないのは、なぜなのだろうか。早くしないと、結衣は涼ではない他の誰かを見てしまうかもしれないのに。
「それじゃあ、私はあと少し練習するので」
お辞儀をすると、茜はグラウンドへ戻っていった。
すると、くいくいと制服の裾を引っ張られる。見れば、引っ張っていたのは憂鬱そうな表情をした杏樹だった。
「帰りましょうか、影井君」
「うん……」
――誰か、僕に勇気をください。
涼は杏樹の隣を歩きながら、いもしない誰かに助けを求めた。それが、いけないことだとわかっていながらも。
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