第66話 泣き虫なふたり
「いい湯だな、あははんっ。いい湯だぁな、あははんっ」
浴室から、水が流れる音と結衣の歌声が聞こえてくる。おそらく彼女は、シャワーを浴びる時に歌を歌うタイプの人間なのだろう。しかし、秋鷹的には鼻歌にして欲しかった。うるさい。
とはいえ、これも彼女たちが和解してくれた結果だ。元々仲の良い友人同士だということもあって、そこまで白熱した争いにはならなかった。
実際のところは定かではないが、今は落ち着いてくれているのでそれでよしとしよう。秋鷹は畳の上で胡坐をかき、同じく眼前で女の子座りしているエリカにこう言った。
「エリカ様、これでよろしいでしょうか?」
「うむ、もう少し優しく頼むぞい」
ウィーン、と聞きなれた機械音を鳴らし、秋鷹はエリカの髪を靡かせる。髪の一本一本が風で揺れるたび、甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「おいこら、なんで俺がドライヤーやってあげてるんだ」
「――あふっ」
秋鷹は目の前にあったチェリー色の後頭部に、軽くげんこつを食らわせた。すると、ワイシャツ姿のエリカが頭を押さえながらこちらに振り向く。
「激しい運動の後は、女の子を労わるのが男の子の務めでしょー?」
「エリカお前、調子乗ってんな?」
「調子に乗ってんじゃなくて、秋鷹の上に乗ってんのっ」
「だぁーっ、髪濡れてんだから動くな!」
膝に乗ろうとしてくるエリカを、秋鷹は強引に引き剥がした。そして再び、ドライヤーで髪を乾かしてやる。
「たく、裸エプロンといい喧嘩といい、お前はどれだけ俺に迷惑かけるんだ……」
「最初は裸エプロンじゃなかったんだよ? 童貞を殺すセーター買ったんだけど、サイズが合わなくて……しかも、買った後に『秋鷹は童貞じゃない!』って気づいて、泣く泣く裸エプロンにしたんだ」
「童貞を殺すって、すごいパワーワードだな」
「そう、そのキャッチフレーズを見て買ったんだよ」
少しだけ気になる気持ちもあったが、裸エプロンでもうお腹いっぱいだった。秋鷹はエリカの髪をわしゃわしゃっと搔き乱し、雑念を取り払う。「あぅあぅあぅあー」とエリカが唸る中、その傍らではメッセージアプリの通知音が鳴っていた。
「メッセージ、確認しなくていいの?」
「髪乾かした後に確認するよ。もうすぐ終わるし」
見た感じ触った感じだと、エリカの髪は大分乾いてきている。初めは髪を乾かすことに不満はあったが――秋鷹は焼肉は自分で焼く派なので――乾かしている内に自然と世話を焼いてしまっていた。あと、観葉植物に水を与えるのも好きだ。
――ピコン。
再び通知音が聞こえてくるも、秋鷹は気にせずドライヤーをかける。そうしていると、エリカがぽしょりと呟いた。
「秋鷹は、ボクの髪型どう思う?」
「髪型? 可愛いと思うよ。似合ってるし、いい意味で幼く感じる。このうなじが見える感じも、色気があって俺は好きだな」
「えへへ……もっと褒めて」
「結構サラサラだから、お手入れ頑張ってるんだよね、きっと。……うん、ずっと触ってたいかも」
ショートボブの髪を手櫛で梳き、さらさらと流していく。天使の輪っかが出来るほど、頭のてっぺんは艶めいていた。
――ピコン、ピコン。
「ヘアオイルも使ってて、髪のケアは欠かしてないんだ。それに、スキンケアも頑張ってるんだよ。ほら、触ってみて? もちもちしてるから」
「ほんとだ、モチみたい。ちゃんと保湿されてるってことは、もしかして化粧品とか持参してんの?」
「今日はね。『秋鷹とえっちする!』って決めてたから、ちゃっかりお風呂に入る前提で持ってきたの」
「まぁ、髪まで洗っちゃえば夜洗わなくて済むしな」
性行為後のシャワーで髪を洗うタイプは珍しいが、意外と面倒くさがりなエリカのことだから、体を洗うついでに髪まで洗ってしまったのだろう。さらには洗顔まで済ませたみたいだが……ん? ちょっと待て。もしかして泊まろうとしていたのだろうか?
と、秋鷹はドライヤーで丁寧に髪を乾かしてあげながら、今一度、不満顔を模る。その刹那、
――ピコン、ピコン、ピコン。
「ピコンピコンうるさいなー!」
エリカが秋鷹の携帯に向かって叫んだ。
秋鷹は一旦ドライヤーを止めると、自分の携帯を手に取る。現在進行形で鳴り続ける携帯には、通知が100件ほど溜まっていた。
「チサっちゃんから……?」
「うん、バイトがはやく終わったんだって」
よくわかったな、とエリカに言うと、彼女は「だって、もう着替えてんじゃん」と頬を膨らませた。
秋鷹はポケットに携帯を入れ、出かける準備をしていた。そして、ブレザーに袖を通しながら、浴室にいる結衣へ、
「結衣。俺、用事できたんだけど、一緒に帰る?」
「うーん、ひとりで帰れるよー!」
結衣は元気いっぱいの声音で返答した。
「エリカはどうする?」
「ボクは……ゆいゆいと帰るよ。作戦会議しなきゃいけないしね」
「なんの作戦会議だよ」
意味深な発言をしたエリカにツッコミを入れつつ、秋鷹は玄関で靴を履く。
近くからはシャワーの音が絶えず聞こえていた。随分と長い間シャワーを浴びているが、彼女も髪を洗っているのだろうか。そう思いながら、秋鷹は別れの挨拶をエリカにし、家を出たのだった。
※ ※ ※ ※
「死んでる……?」
結衣が浴室を出ると、エリカが畳の上で死んだように寝転んでいた。秋鷹の姿は当然ながら見当たらない。自分の息遣いが聞こえてしまうくらいの静寂が、辺りに漂っていた。
「えりかちゃん……?」
横向きで倒れているエリカの真横にしゃがみ込み、結衣は彼女の顔を覗き込む。どうやら寝ているようだ。瞼を閉じ、心地よさげに寝息を立てている。
つんつん、とエリカのモチ肌を突っついてみた。ぷにぷにしていて気持ちいが、その瞬間――。
「……ゆいゆい」
「わっ……」
突然、エリカが目を覚ました。しかし、彼女は寝転がったまま遠くの方を見つめていた。
「ゆいゆいはさ……罪悪感とか感じる?」
小さくて聞き取りづらいその声は、しかしはっきりと結衣の耳に届いた。
「秋鷹といる時は、やっぱり幸せだし、他のことなんて考えられないくらい温かい気持ちになるんだけど……そんな時、ふと思うんだ。チサっちゃんがボクたちの関係を知ったら、どう思うのかって」
「それは……」
「死にたくなるよね。大好きな彼氏が浮気してるんだもん」
悲しそうに呟くエリカに、結衣はなんの言葉も返せなかった。自分も、あるいは当事者だから。
「でも、結局はボクたちが離れればいいだけなんだ。秋鷹はそれを許してくれるし、強引に引き留めてはくれない。浮気して心が押しつぶされそうになっても、それを晴らす方法をボクたちは知っている。ただ、秋鷹から離れればいい。それだけの話なんだよ」
「エリカちゃんは、離れられるの……?」
「無理」
即答だった。
「だから苦しいし辛い。チサっちゃんに対する後ろめたさで泣きたくなる。でも、それでもさぁ……好きだから。好きで好きで堪らないから……どうしようもないくらい、溺れちゃうんだ……」
震えた声、掠れた声。絞り出されたエリカの言葉には、秋鷹に対する想いが尋常じゃないほどに沁み込んでいた。
結衣も釣られて泣きそうになる。いや、すでに泣いていたのかもしれない。鼻の奥が、ツンと痛くなった。
「わたしも、わかるよその気持ち。他に好きな人が出来たり、この想いを捨て去ることが出来れば、それが一番なんだろうけど……今は、そんなこと一ミリも考えられない」
仮に、他に気になる人が出来て付き合ったりしてみても、今の結衣なら秋鷹のことを忘れられずに想い馳せてしまうだろう。
幼い頃の楽しかった思い出が永遠に記憶に残り続けるように、きっと秋鷹との思い出は色褪せることはない。それほどまでに、彼が残したものは大きかった。
けれど、それは決して悪いものではない。トラウマとして記憶に残り続けるのではなく、ふと思い出した時に幸せになれるような、そんな想い出であって欲しかった。
だから、結衣はエリカに向けて微笑んだ。もう後戻りできないのなら、少しでも幸せになれる選択肢を選ぶ。
「――大丈夫だよエリカちゃん。わたしも、共犯だから」
それが、結衣の答えだった。好きな人と一緒にいられる未来、それを自分たちは求めている。
物寂しい六畳間の一室で、ひとりの少女のすすり泣く声が響いた。その寂しさを埋めるように、結衣は彼女に寄り添う。
そして心の中で、ひっそりと涙を流した。
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