第63話 君が笑わせてくれる

「りょうちゃ~ん、うわぁ~ん」


 幼い頃の結衣は、泣き虫だった。そう言ってしまうと語弊があるため、感情表現が豊かと言ったほうが正しい。

 それこそ、結衣は愛情込めて育てられ、甘やかされ、怒られたことなんて本当に数えるほどしかなかったから、気持ちの制御が自分ではできなかった。


 とはいえ、それは幼い頃の話だ。幾ら結衣が生粋なる天然バカだとしても、成長していくにつれちゃんと学習はする。まぁ、勉強は相変わらずできなかったけれど。


 そんな結衣には、大切な幼馴染が二人いた。

 一人は隣の家に住んでいる影井涼という男の子。彼は明るく素直で、いつも友人に囲まれていた。その中に結衣も交じって、公園で遊んだり駄弁ったり、色んな楽しみを見つけたことを今でも覚えている。


「ちさちゃんも一緒にあそぼーよー!」


 もう一人は、たまに見かける近所の幼馴染――日暮千聖という可愛らしい女の子。幼稚園ようちえんではいつも隅の方にいて、独りでいるけれど、きっと恥ずかしがり屋さんだったのだ。

 当時の結衣はその純粋な解釈で千聖に近づき、彼女を無理やり遊びに連れ出していたことが多かった。嫌々ながらもついてきてくれるあたり、彼女もまんざらでもなかったのだろう。


 千聖とは悲しいことにたまにしか遊べなかったが、涼とは毎日のように遊んでいた。お互いの家を行き来するのは当たり前、周囲からは将来結婚しそうな二人だなんて揶揄われたりもしたが、顔が熱くなるだけで結衣には何がなんだかわからなかった。

 何せ、あの頃は目の前にあるものに夢中で、自分の気持ちに気づけるほどの余裕なんて全然なかったから。未来を見据えていないただの幼子たちが、ただ幼いなりに自分たちの責務を全うしていただけ。


 けれど、小学生になる頃には、ただ遊んでいるだけの結衣ではなくなっていた。その頃の結衣は、自分が将来アイドルになるのだと信じて疑っていなかった。

 家族や友達から「結衣ちゃんは可愛いからアイドルになれるよ」とか「本物のアイドルよりもキラキラしてるよ」なんて胡散臭い言葉を何度も聞かされたのが原因かもしれない。それから毎日ダンスの練習をして、テレビを観ながら歌って踊る日々。マイク片手に笑顔を模って、兄や涼の前でもそれを披露した。なぜか盛大に笑われてしまったが、結衣は本気の本気だったのである。


 そんな毎日が続いていくと、次第に友人の数は増えていった。教室ではクラスメイトたちに囲まれ、休み時間ともなると別のクラスからも結衣のことを見にたくさんの人が押し寄せてくる。

 幼馴染の涼も困っていたが、彼も人気者だったから結衣と一緒にいても何も言われなかったし、ファン第一号ということで男の子たちから疎まれることもなかった。


 しかしある日、結衣が放課後の教室に足を踏み入れようとした時のことだ。


「ちょっと顔が良いくらいで、調子乗りすぎだよねー」

「わかる~。しかもノリ悪いし、話通じないって言うかさぁ」

「あー、天然ってやつ? あれ、わざとやってるんじゃないの?」

「うわっ、それあり得る。それで男子の気を引いてるとか、マジヤバいね」


 それが自分に向けられた言葉だということは、すぐにわかった。

 心が傷つき、耳を塞ぎたくなった。だって、一番仲がよかった友達が、そんな陰口を言っているなんて思いもしなかったから。

 

 その日は一晩中泣いて、悩み考えた。明日はどんな顔で学校へ行けばいいのかを、無い頭で必死に考えたのだ。

 しかし、それは無駄に終わることとなる。次の日の学校は、怖いくらい普段通りで、友人もいつものように結衣と笑い合っていた。あれほど結衣を嫌悪し、陰でこそこそ悪口を言っていたのに。


「……おかしいの」


 そこで結衣は、ふと気づいたのだ。彼女たちが今笑っているのは、結衣が笑っているからなのだと。

 この笑顔が彼女たちを笑わせているのだと、そう思い込むことにした。これが、結衣が過剰に笑顔を振りまくようになったキッカケなのかもしれない。


 感情表現が豊かだとかアイドルだから人を笑顔にさせなければならないとか、そんなありきたりな理由じゃない。

 結衣が笑顔を作っていればみんな楽しそうに笑ってくれるし、悲しい顔を見せることもなくなる。だから、困った時はとりあえず笑顔になった。それで全部上手くいくし、乗り切れるから。


 今思えば、アイドルになりたいという夢は結衣にとって黒歴史だった。子供の頃の夢がヒーローだとか偉い人だとかと同じように、凡人の結衣には無謀すぎる挑戦と努力だった。


 結局それに気づいたのは、結衣が中学に上がった頃だったが。


 それは周りが皆、色恋沙汰で盛り上がる時期。早い子たちは、小学生ですでに付き合っていたりもした。アイドルになることはもう諦めたが、結衣も恋愛にはちょっとだけ興味がある。

 友人たちの話を聞くと、どうやらずっと一緒にいたいと思える人が自分の好きな人らしい。他にもそばにいて落ち着く人とか、話していて楽しい人とか。意外にもたくさんあった。


「結衣は……やっぱり影井君?」


「えっ!? わたし……?」


 友人に言われて、確かに涼と一緒にいるのは楽しいし落ち着くと思った。幼馴染だからという理由だけではなく、彼は困っている人にすかさず手を差し伸べるほど優しい心の持ち主で、素直に尊敬できる人だ。

 けれど、この気持ちは恋というのだろうか。初めての感覚で戸惑ってしまう。


「ちさちゃんはどう思う?」


「知らないわよ」


 千聖は相変わらずだった。話しかけてもそっぽを向いて拒絶してくる。クラスも違ったから小学生の頃より疎遠になり、会える時と言えば放課後の帰り道だけ。

 どちらかと言えば、結衣は恋愛より千聖との距離を縮めたかった。だから中学に上がってからも積極的に話しかけに行ったし、涼にも協力を仰いで幼馴染同士親交を深めようとしたのだけれど——結局、千聖が振り向いてくれることはなかった。


「ひょっとして、嫌われてるのかな……」


 笑顔を模ればみんな笑ってくれるはずなのに。たとえ結衣のことが嫌いでも、それを表に出すことはない。しかし千聖は、まるで出会う前から結衣のことを嫌悪していたかのように振舞うのだ。

 それ故か、いつしか結衣は千聖と関わるのをやめてしまう。彼女との仲を深めたくないわけではないが、迷惑になると思って行動を控えていた。


 そんな時に限って、思いがけない事態というのは起こってしまうものだ。機を見計らっていたかのように、それは突然やってくる。


「怖かったっ……辛かった……」

「うん……ごめん、気づいて上げられなくて」


 そこには、セーラー服をびしょびしょに濡らした千聖と、彼女のことを抱きしめている涼がいた。

 それを見て状況を呑み込めずにいた結衣だが、その後、千聖がイジメに遭っていたことを知る。


 真っ先に湧き上がってきたのは、堪らぬ後悔だった。


「そっか……わたし、気づけなかったんだ」


 一番近くにいたはずなのに、千聖のことを一番理解しているつもりだったのに。

 彼女が苦しんでいること、彼女が泣いていたこと。そのどれもを、結衣はなに一つも理解してあげられてなかった。

 もっと近くにいてあげれば、あるいは強引にでも千聖の気持ちを知ろうとしていれば、また違っていたのかもしれない。彼女の気持ちを汲み取った気になって、距離を取って、それで満足してしまっていた今までの自分が憎い。自責で押しつぶされそうになる。


「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」


 枕に顔を埋めてさんざん泣き腫らした後は、目一杯、笑顔になれるように努めてみせた。

 泣き続けてばかりでは――後悔してばかりでは、何も始まらない。まずは、千聖のそばに行くことから始めた。それはまるで、贖罪のようなものでもあった。


 涼と一緒に、昔みたいに遊びに連れ出して。悲しいことや辛いことを忘れられるように、いつでもそばにいてあげた。

 クラスは違うけれど休み時間ごとに会いに行き、放課後は家が隣同士だからって無理やりにでも三人で帰ったりと、結衣が出来うる限りの精一杯の励まし方をした。


 すると次第に、千聖の顔に笑顔が浮かぶようになった。これまでの無表情で仏頂面だった彼女からは想像できない、幼げな表情。それを垣間見た瞬間、結衣は思ってしまったのだ。自分は今まで、彼女の何を見ていたのかと。

 何も見ていなかった。独り善がりで何も知らなかった。自分本位で何も理解してあげられなかった。そんな身勝手な結衣は、酷く浅はかだった。


 ――だからかもしれない。

 

 ある日の道徳の授業で、担任の女性教員が「幸せを言葉で表すなら、皆さんはどんな言葉を想像しますか?」と問いかけてきた。

 その日は丁度、結衣の出席番号と日付が同じ日だったから「朝霧さんはどうですか?」と女性教員に訊かれてしまった。おそらくは皆、結衣なら『笑顔』と答えると思っていたことだろう。しかし結衣は、その日ばかりはチャームポイントである笑顔をしまって、


「まず、相手のことを知って理解しない限りは、幸せにはなれないと思います」

 

 結衣にはあるまじき反抗的な答え方で返した。


 知って理解する。それは当たり前なようで、とても難しいように思えた。だって、幼馴染の彼らのことでさえ、結衣はまだ何も知れてないし理解できていないのだから。

 けれど、当時の結衣は涼のことだけは自分が一番わかっているとうぬぼれていた。そう、あの事件が起こるまでは――。


「りょうちゃん……! でてきてよ! 閉じ籠ってないで、何があったか教えてよ……! りょうちゃん……」


「うるさいなぁ! もうどっか言ってくれよッ……!」


 ある日を境に、涼は部屋に閉じ籠って結衣に顔を見せることはなくなった。


「どうして? わたし、何か悪い事しちゃったかな……? もしかして、貸してもらった漫画、ビリビリに破いちゃったことで怒ってるの?」


 涼の自室の扉を叩き、結衣は懸命に叫んだ。そして謝った。


「それとも、りょうちゃんが大事に取っておいてたプリン、あれを黙って食べちゃったことかな……。ごめんね、ごめんなさい……」


 反応のない扉の向こう側に、掠れた喉を震わせて何度も呼びかけた。その場でしゃがみ込み、泣きながら涼の返事を待つ。


 しかし、いつまで経っても涼が部屋から出て来てくれることはなかった。


「わからないよ、涼ちゃん……」


「ゆ、結衣……」


 困惑している千聖の横を通り抜け、結衣はその場を離れた。

 涼のことだけは、理解しているつもりだったのに。小さい頃から築き上げてきた絆――今となってはそう呼べるかは怪しいが、それだけの信頼関係はあったはずなのだ。互いに互いを理解し合い、もはや知らないことなんて一つも無いくらいお互いの全てを知っていた。なのに、涼は何もかも自分一人で抱え込み、打ち明けることもせずに、そのまま部屋に閉じ籠ってしまっている。


 ――結衣たち幼馴染の関係は、その程度のものだったのだろうか。


 涼の家から飛び出し、結衣は鼻をすすりながら門扉を開けた。頬を撫でる冷たい風が、流れた涙をやさしく拭い去っていく。


「――影井君のお友達?」


 顔を上げると、そこには白いワンピース姿の少女が立っていた。同年代っぽい彼女は、麦わら帽子のつばをキュっと握り、四角い箱を手渡してくる。


「これ、影井君の忘れ物」


 それは綺麗にラッピングされた、誰かへのプレゼントだった。涼が嬉しそうに買っていたプレゼントに、なんとなく似ている気がする。


「あ、あのっ……」


 結衣が呼びかけようとしたのを遮って、少女は「じゃ。もう会うこともないだろうけど、またね」と言って歩き去ってしまった。麦わら帽子から垣間見える桃髪を眺めながら、結衣はプレゼント片手に立ち尽くす。


 ――それが中学二年生の時、冬の終わりが近いホワイトデーの日のことだった。


 涼はあの日から変わってしまったのだ。

 部屋から出てきた彼は、あの頃のように輝いていなかった。千聖に手を引っ張られ、下を向いて現実から目を背けていた。でも、根は変わっていないと結衣は信じていた。

 変わったのは外見と、少し消極的になった性格だけ。涼の本質である優しさだったり、人を惹き付ける力だったりは、きっと変わっていない。そう思って、結衣はこれまでと同じように彼と接し続けた。


 そしてこれまでと同じように、彼を密かに想い続けた。彼の隣には結衣なんかでは到底敵わないくらい可愛らしくて素敵な少女がいて、結ばれる相手が自分にはなりえないのだとハッキリと分かっていたから。

 陰ながら、陰ながら彼を想い続ける。それに、変わってしまった涼とどう接すればいいか正直わからなかった。だから、その頃から無意識に涼と距離を取っている自分がいた。


 中学生の頃はそれで何とかなったけれど、その先の不安が結衣に付き纏う。成長すれば考え方も変わり、涼を嫌悪してしまう自分もいるかもしれない。

 そんな不安に悩まされ、誰にも助けを求められないまま苦心する日々が続いた。けれど、偶然というのは不思議なもので、まるで狙っていたかのように必然的に迫りくる。あの出来事がなければ、たぶん、結衣は今もこんな純粋無垢な笑顔を保てていなかっただろう――。


「浮かない顔してる」


「……へっ?」


 高校の入学式の当日、教室の前で立ち竦んでいたら、隣から声を掛けられた。隣を見ると、そこには背の高い男の子が立っていた。彼は微笑みながら、覗き込んでくる。


「緊張してる?」


「す、少し……?」


「なぜ疑問形」


 彼はプッと噴き出すと「俺も、実はめちゃくちゃ緊張してる」と言った。ガヤガヤと騒がしい廊下を見回して、自嘲的に肩を竦めている。


「家から遠い高校選んだ自分が悪いんだけど、やっぱり知り合いがいないと辛いね」


「一人もいないの?」


「んー? どうだろ、まだわからないな」


 中学と違って高校は電車通学などがあるから、彼のように知り合いが一人もいない人もいるのだろうが、少しだけ同情してしまった。そして、幼馴染が二人もいる自分は、恵まれていると思った。


「でも、友達はできたよ」


「えっ!? 早くない?」


「なんで君が驚いてんの。俺たちのこと言ってんだけど」


「わ、わたしたち……?」


 結衣のことを指差して、彼はぶすっと不貞腐れていた。


「そうだよ、友達だよ友達。だから、もっと元気だして欲しいな。君が不安がってると、俺まで気分が沈むって言うかさー」


「ご、ごめんなさい……」


「はぁ……なんで謝んの。ほら、スマイルスマイル――」


「ひゃへっ!? ふぁふぃふんの!」


 彼にほっぺたを両方から引っ張られて、ぐにぐにされてしまう。すぐに解放されたが、結衣は頬をさすりながら、


「もう、痛いよ……」


「困ったときは笑顔が一番だよ。気が滅入ったり、打ちのめされたりした時なんかはさ、笑顔さえ作っとけばなんとかなる。言うなれば、簡単に気持ちを誤魔化せちゃう魔法みたいな感じ?」


「知ってるよ、そんなの」


「知ってたんかい」


 本当は忘れていた。笑顔が自分の一番の魅力だったことも、笑顔で人を笑わせていたことも、全部忘れていた。

 どうして忘れていたのだろうか。これがないと、自分が自分でいられないというのに。


「ところで、名前なんて言うの? ここにいるってことは、同じクラスなんだよね?」


「あ、えっと……朝霧結衣です」


「ほう、朝霧結衣ちゃん。よろしく」


「うんっ、よろしくね」


 ビシッと親指を立て、彼は「因みに、俺は宮本秋鷹です」と丁寧に言って、扉に貼られた座席表を確認していた。すると、不意に険しい顔になって、


「ねぇ、朝霧結衣ちゃん。君、クラス違うんじゃない? 座席表に君の名前ないよ」


「えっ……!?」


 彼の言う通り、その年は彼と同じクラスになることはなかった。

 しかし、こんなことを言ってしまえば誰かに笑われるだろうけれど、彼とは今後、こんな風にまた話す時が来るんじゃないかと思っていた。


 それは一年後――二年生に進級した時、実現することとなる。それもあるいは、偶然ではなく必然だったのかもしれない。


 笑顔を思い出させてくれた彼。高校に入学して初めて出来た友達。少しの会話だったが、彼のお陰で結衣は笑顔になれたと言っても過言ではない。




 ――そんな出来事を、わたしはなぜか、最近になって思い出した。




※ ※ ※ ※




 結衣が家を飛び出してから数時間、涼は彼女の跡を追って暗い夜道を走り回っていた。彼女の携帯には何度も電話をかけたし、千聖の携帯にも一応かけてみたが、二人が電話に出てくれることはなかった。

 

 すると、涼の携帯に電話がかかってくる。涼は足を止めると、ポケットから携帯を取り出した。


「……もしもし?」


「お兄ちゃん? いい加減帰ってきなよ」


「で、でも……」


「ゆいちゃんなら、ちさとちゃんのお家に泊まるってよ」


「……え?」


 妹から聞かされたその言葉に、涼は一瞬の間抜け面と安堵の表情を湛えた。


「なんだ、ちゃんと家に帰れてたんだね……」


「だから、お兄ちゃんも無駄なランニングなんかしてないで、早く帰ってきなよ。鍵締めちゃうからね」


「か、帰ります……!」


 すぐさま電話を切り、急ぎ早に自分の家へと帰る涼。

 向かう途中、結衣のために自分はどうしたらいいのかを考えていた。まさか告白を断られて、彼女があんなにも取り乱してしまうなんて思いもしなかったから。


 ――それほど、涼を想ってくれていたということだ。


 走り疲れた影響で額に汗が滲んだため、涼はそれを、手の甲でそっと拭う。そしてふと、何者かの話し声を耳で拾った。


「うん、うん……送ってくれて、ありがと。うん……またね。ちゅっ……」


 俯いていた顔を上げると、結衣の家の前に一人の少女がいた。誰かと話しているように思えたが、他に誰もいないし、どうやら気のせいだったみたいだ。


「結衣……?」


 涼が声を掛けると、その少女がこちらに顔を向けた。外灯でその横顔が照らされ、彼女の橙色の髪がほのかに光り輝く。


「りょう、ちゃん……」


「あれ、千聖の家に泊まるんじゃなかったの?」


「あ、いや、それはね……ほら、わたし、ちさちゃんの携帯そのまま持って行っちゃったでしょ。だから、みんなに心配かけないように、ちさちゃんの携帯で、ちさちゃんの家に泊まるっていうことを、一応だけどママと陽ちゃんに連絡しといたの」


「それまた律儀なことで」


「でも、ちさちゃん寝ちゃったみたいだから、携帯返すのは明日になりそうかな」


「じゃあ、結局は自分の家に帰るんだ」


「うん、みんなには内緒だよ。寝静まってる間に、こっそり帰るんだから」


 普通に堂々と帰ればいいと思ったが、涼はそれを胸中に仕舞い込んだ。しかし、それとは別に、涼の視線は結衣の衣服に移される。


「その服、どうしたの?」


「あ、これ?」


 ブレザーを脇に抱えている結衣は、ワイシャツの上に黒色のセーターを着ていた。外灯に照らされてはいるが、薄ぼんやりとしていて柄はハッキリしない。


「これは、友達に貸してもらったんだよ。さっきまで、友達の家にお邪魔させてもらってたから」


「そ、そっか……僕の、所為だよね」


 結衣が家を飛び出したのは、涼が間違った告白の返事をしてしまったからだ。  

 でも、あの時すでに、涼の中では答えが出ていた。それは今になっても変わらない。


「あ、あのさ、結衣……」


「……ん?」


 首を傾げる結衣を見て、涼は全力で頭を下げる。


「ごめん! 結衣の気持ちも考えないで、あんな態度とっちゃって……」


 顔を上げると、結衣は困ったような笑みを浮かべていた。


「もし、結衣が待ってくれるって言うんなら、ケジメだけつけさせてくれないかな」


「けじ、め……?」


「うん、僕も告白するよ。この気持ちに、終止符を打つ」


 明日とか明後日とか、すぐに告白できる勇気は今のところないが、それでも、必ず告白してみせる。


「告白って言っても、気持ちを伝えるだけなんだけどね。この想いをしっかりと清算しない限り、結衣とは真剣に付き合えないと思うから」


 告白して、この想いを吹っ切って。その上で、自分は結衣と――。


「だから、もし、結衣が待ってくれるって言うんだったら、その時は僕の方から告白させてくれないかな? 結衣に告白されて気づいたんだ……。僕、好きな人は他にいるのに……なのに、結衣のこと、ないがしろに出来なくて……」


「もう遅いよ、りょうちゃん」


「――えっ?」


 涼が自分の気持ちを吐露しようとした瞬間、結衣が被せるように何かを呟いた。下を向いている所為か、その表情が前髪で隠されていて読み取れない。しかし、そう思ったのも束の間、彼女はニコリと笑って涼に言ってくる。


「明日も学校だよ。おやすみ、りょうちゃん」


 結衣らしい、純粋な笑顔だった。

 背中を向ける彼女を呼び止めようにも、なぜだか躊躇われてしまう。それから、玄関の扉を開ける彼女のことを、涼はじっと見ることしか出来なかった。


 ただ、彼女の首筋にあった小さな痣と、微かに匂った甘い香りが、少しだけ気になった。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る