第62話 公園の展望台

 走って、走って、涙ながらに走り続けた。


 街灯に照らされた路地を通り、無我夢中で前だけを見据える。いや、前なんて見えていなかったのかもしれない。

 夜の帳が視界の妨げになっていたのではなく、結衣自身が先を見ようとしなかった。未来を捨て去り、ただ暗い暗い闇の中に身を投げ出す。


 ――告白なんて、しなければよかった。


 その言葉を、胸の中で何度も呟いて。

 ぐちゃぐちゃになった感情を放置し、手が付けられないからと言って向き合わずに塞ぎ込む。


 告白が成功しないことくらい、最初からわかっていたのだ。でも、自分もああなりたかったから――千聖と秋鷹みたいに、幸福を分かち合いたかったから。

 ほんの僅かな可能性に賭け、無理だと理解していながら夢を見た。その結果がこれだ。植え付けられた恐怖が蘇り、この想いを腐らせてしまっている。


 温もりを感じられない自分が怖い。感じさせてくれる誰かがいなくて辛い。あれほど溢れていた想いは濁り、もはや色褪せてくすんで見えた。

 そして結衣に残されていたのは、痛みすら伴う苦しみのみ。いくら藻掻こうと、それだけが心に入り浸る。


「誰か、たすけて……」


 無意識に、胸中の叫びが言葉として漏れ出していた。

 どうにもできない自分の不甲斐なさと、他人に縋ってしまう心の弱さが今になって響く。助けを求めたって、どうせ意味なんてないのに。


 ――もう、ダメなのかな。


 ふいに、そんな呟きが脳裏を掠めた。

 自分は、このまま苦悩しながら生きていかなければならないのだろうか。笑顔を模れず、ずっと下を向いたまま歩き続けなければならないのだろうか。

 最近になって何度も打ちのめされてきた結衣だからこそ、どこか確信めいた思いで諦めを滲ませる。


 だが、それは背後から聞こえてきた呼び声に、難なく打ち消される脆い意思だった。


「――朝霧ぃぃいいいい!」


「きゃあっ――!? なにっ!?」


 急速に頭から血の気が引いていき、結衣は妙な落ち着き具合で後ろを振り向く。冷静に見てみれば、そこには走って向かってくる一人の男がいた。

 咄嗟に逃げようとするが、立ち止まっていた足が一向に前へ踏み出そうとしない。走り続けていた影響で手足が重たくなり、疲労感を訴えている。


 それを振り切って前に進もうとするが、結衣の手はいつのまにか誰かに握られていた。


「やっと追いついた……。はえーんだよ、お前」


「みやもと、くん……?」


 結衣の手を握り、眼前で息を切らしている少年は秋鷹だった。彼は前髪を掻き上げると、結衣のことをその鋭い瞳で見つめる。

 彼の瞳には、涙でクシャクシャに歪んだ結衣の顔が映り込んでいた。泣きながら走っていたから、泣きべそばかりの酷い顔。そんな顔を見られたくなくて、結衣は唇をぎゅっと結んで俯いた。


 しかし、秋鷹は軽く微笑んで、握った手をやさしく引っ張る。


「……来い」


「えっ、ちょ……」


 結衣は彼の手に引っ張られ、重たい足を引きずらせながら歩いた。

 手を繋いでいるのに何ともない。むしろ温かくて、体中がポカポカしてくる。なぜだろう、なんでなんだろう。震えもなければ怯えも感じられない。

 

 勘違いでなければ、結衣は異性に触れることができなかったはず。近づいただけで気分が悪くなるし、さっきみたいに追い立てられるまま恐怖から逃げていたはず。

 なのに、彼の手はとても温かい。人の体温で感じる心地よさもあるが、きっとそれだけじゃなかった。


 彼の手を握り返し、結衣は目の前にあるその背中を見る。大きくて、ちょっぴり頼もしくて、ただ見ているだけで安心してしまう。

 

 ふと、それまで見えなくなっていた視界が広がり、結衣は自分の足が階段を上っていることに気がついた。

 散歩と称して家から飛び出し、走り続けている内に近くの公園に辿り着いていたらしい。見覚えのある遊具はすでに目線の下に置いてかれ、今結衣を取り囲むのは鬱蒼と覆い茂る緑色の何か。


「ここって……」


 小さい頃、無邪気に笑ってた頃、あの頃に何度も訪れた場所。小高い山の上に何度も足を運んで、秘密基地を作ったり、鬼ごっこやかくれんぼをしたり、そして笑い合ったり。

 いくつもの思い出があるこの場所は、色褪せずに結衣の心の中に残っていた。秋鷹は、そんな思い出に浸る結衣に、いつもみたく話しかけてくる。


 それは本当に他愛もなく、明日になれば簡単に忘れてしまう程度の些細な話。けれど、それだけで充分だった。

 自然と笑顔になれて、心も綻んでいく。それと同時に、身に感じていた恐怖も、痛くて仕方なかったこの苦しみも、和やかに溶けていく。


 やがて、結衣を囲んでいた草木が周りから消え、目の前には視界いっぱいに街の景色が広がっていた。


「綺麗……」


 結衣は惹きつけられるようにゆっくりと歩き出し、街の景色が一望できるその場所へと向かった。そして、温もりから離れた結衣の手は、何かを探すようにそっと柵に置かれた。

 ざらざらとした硬い木の表面を撫で、結衣は夜景を眺めて吐息する。家の灯りが微かな輝きを見せ、それが幾つも連なると、そこはまるでイルミネーションで飾りつけされた街の風景のように心を高鳴らせてくれる。


 クリスマスまではまだ程遠いのに、幻影などとは思えない美しさすらあった。結衣は後ろを振り返り、満面の笑みでそこにいる秋鷹を見る。


「綺麗だねー…………ぁ」


「寒いだろ」


 そっと肩にかけられたのは、秋鷹のブレザーだった。包み込むように羽織らされ、結衣は思わず縮こまってしまう。

 秋鷹はそんな結衣の隣まで来ると、燦然と輝く街の風景を眺めた。それに目を奪われながら、着崩したワイシャツをささやかな風で靡かせる。


 その横顔を、結衣はじっと見つめていた。


「へぇ……穴場スポットだって言うから来てみたけど……すごいな、花生タワーも見える」


 そう言って秋鷹が微笑むと、自分の頬がほんのりと朱く色づいたのがわかった。

 熱でもあるのだろうか。結衣は肩にかかったブレザーを握り締め、手の甲を額に当てる。

 

「元気出た?」

 

 すると、秋鷹はこっちに向いて、なぜだか心配するような表情を浮かべた。それから、結衣の手をもう一度握り、両手で包み込む。


「朝霧、辛そうな顔してたから……なにか嫌なことでもあったんじゃないかって、思ってさ」


「それ、は……」


「だから、俺が全部忘れさせてやる。朝霧がまた笑えるように、そんな悲しそうな顔しないように、俺、精一杯頑張るから――」


「…………ぇ」


 秋鷹の言葉を熱心に聞いていると、いつのまにか結衣は彼に抱きしめられていた。そして耳元で、〝何か〟を囁かれる。

 それは衝撃――いや、彼らしいと言えば彼らしい問いかけだったのかもしれない。結衣は一瞬にして茹でだこのように顔を真っ赤に染め、口をパクパクさせて目を回しかけた。


「大丈夫だよ」


 なにが大丈夫なのかわからない。


「朝霧が拒むなら、俺はそれ以上なにもしない」


 近い、近すぎて。

 なにも考えられない。すぐ真横には夜景があり、至近には秋鷹がいる。彼は結衣を抱きしめながら、大丈夫と言った。

 その大丈夫が、どれほど信用できる言葉なのかはわからない。でも、それで安心したのは確かだった。


 秋鷹は抱擁を解くと、結衣の肩に手を置く。それから、真剣な表情で目を合わせてきた。


 ――顔、見れない。


「信じて、くれないかな……?」


 流されやすい結衣は、そんな一言で心を揺れ動かされてしまう。

 

 ――ああ、そうか。彼はずるいんだ。ずるくて、意地悪くて、こんな弱っている女の子にだけ優しくして。そうやって軽薄そうな態度を取っていながら、それでもちゃんと結衣を見てくれていた。


 それを理解しているから、結衣は落ち着いていられる。彼の素顔を、あるいは彼の悪い部分を知っているから、怯えずにいられると。


 そう納得したかったのかもしれないけれど。それでいいのではないか、と思う自分もいた。


「わたし、どうすれば……」


 涼のことも、理解しているつもりだった。子供の頃から一緒にいて、家族を除けば一番そばにいた相手なのだから当然だ。


 しかし、それは幻想なんだと思い知らされた。好きという気持ちは変わらなかったのに、なぜか彼のことがわからなくて。気づけば昔の理想像を押しつけ、今とは違う彼を重ね合わせて満足してしまっていた。

 それが砕け散り、本物ではないとわかった途端この想いは黒く塗りつぶされてしまった。昔の彼はいない。ずっとそばにいてくれた幼馴染の彼がいないんだと思うと、ひどく理不尽な焦燥に駆られる。受け止めるよりも苦しみが先にきて、結衣の心はぐちゃぐちゃに搔き乱されたのだ。


 秋鷹に頼れば、この苦しみから抜け出せるのだろうか。

 失った恋の痛みも、そして得体の知れない怯えも。全部拭い去って、綺麗に晴らしてくれるのだろうか。

 秋鷹がしていることは浮気で、裏切りで、いけないことなのかもしれない。でも、この気持ちを晴らしてくれるなら。期待してしまう。


 あの子だって、きっとそうだ。

 空き教室で秋鷹とまぐわっていた少女――芽郁。彼女があんなになってまで秋鷹を求める理由なんて、一つしかない。

 縛り付けられているわけでも強制されているわけでもないのに、彼女は秋鷹と一緒にいることを選んだのだ。


 心が満たされるから。


 それがその少女にとっても、結衣にとっても、甘美なものになることは確実だった。

 別に、嫌と言えば逃れられるのだ。拒めば、秋鷹はそれを了承してくれる。そう言ってくれたではないか。


 だから――。


「目、閉じて」


 キスをされる。それを理解していながら結衣は、言われるがままに目を閉じた。人生一度きりのファーストキスを捧げる覚悟を決め、そっと唇を差し出す。

 ふるふると体が震える。でも、これは秋鷹が怖いからじゃない。顔が熱くて、沸騰しそうで、緊張で胸が張り裂けそうだったからだ。


 ――ちさちゃん、ごめんね。


 邪魔してばっかでごめんなさい。

 思えば結衣は、千聖の邪魔をしてばっかだ。幼馴染という関係を利用して彼女に甘え、今までずっと足を引っ張ってきた。


 涼を立ち直らせるのは千聖じゃなくて本当は結衣でなくてはならなかったのに。

 結衣の勘違いで千聖を泣かしてしまったあの日の出来事についてまだ謝り切れていないのに。

 やっと、千聖と通じ合えたと思ったのに。

 結衣はまた、千聖を困らせようとしている。


 自分がどうしようもない咎人だと自覚したのが半分、自分もあんな幸せそうな表情を模れるのかという期待半分。二つの思いが入り交じる中、どこか釈然としている。


「……んっ」


 結衣は秋鷹からもらう優しさを、その唇で甘やかに受け取った。柔らかに重なり合う肌と肌の感触は、とても心地がよかった。

 それが一体どれだけ続くのかは、結衣次第。この先に何が待っているのかもわかっているし、それを継続するか否かは結衣が決めること。


 今なら戻れる、戻ってやり直せる。取り返しがつかなくなる前にこの行為を止めれるけれど、その理性に反して結衣の手は秋鷹の腰に回されていた。

 互いが互いを求め合うような接吻を交わし、彼がそばにいてくれることを実感しながら酔いしれる。そして、わかってしまった。

 


 ――わたしは今日、人生最大の過ちを犯す。



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