第61話 失恋と恐怖

「それでね、最近の流行はチーズボールなんだって。コロコロの丸いボールの形してるんだけど、チーズドックみたいに、食べるとびよ~んって伸びるの。それを宮本君がおすすめしてくれて……」


 あれから、結衣は一人で喋り続けていた。元々お喋りさんな性格でもあったし、一度話し出してしまえば堰を切ったようにそれは続いていく。

 でも、涼は少しばかり乗り気ではなかったみたいだ。途中までは相槌を打ってくれていたが、気づけば押し黙っていた。


 ――そんなこと、今まではなかったのに。


「りょうちゃん……。興味、なかった……?」


「……へ?」


 結衣が控えめに聞けば、涼は不意を突かれたように間抜けな声を上げた。反応からして、結衣の話を聞いていなかったことが丸わかりだった。


「それとも、アイスドッグの方がよかったのかな……?」


「いや……」


 話題を変えれば耳を傾けてくれるだろう、という結衣の考えも首を振って否定される。

 その前髪の下に隠された瞳が、どんな色をしているのか知れない。ちゃんと結衣を見てくれているのか、結衣の話を聞いてくれているのか。それは、紡がれる言葉でしか理解出来なくて。


 彼の固く閉ざされた口元を見ては、寂しさに身を焦がしてしまう。だが、彼はしばらくすると、おもむろに唇を開いた。その表情は結衣と同じように、どこか寂しそうで。

 

「……結衣って、宮本君と仲良かったんだね」


「あっ……」


 言われて気がついた。結衣が話題にしていたこと全部が、秋鷹に教えてもらったものだった。

 初めこそ千聖の話をしていたのかもしれないが、段々と意識は秋鷹の話へと向けられていた。それも、自分でも気づかないほど無自覚に。


 ただ単に、楽しかったことや面白かったことを共有したかっただけなのに。そうすれば涼が喜んでくれると思ったし、また一緒に笑えると思ったから。


 でも、どうやら違ったらしい。それが何故なのか、結衣にはわからない。


「友達、だよ?」


 結衣は小さく微笑んで、涼の隠れた瞳を見つめた。

 謎は多いが、秋鷹は結衣のことを理解してくれる友人のひとりだ。そして、結衣の苦しみと悩みを知ってくれているただひとりでもある。

 

「それがどうしたの?」


「な、なんでもないよ。ちょっと意外に思っただけだから」


「ふーん、変なりょうちゃん」


 意外も何も、クラスが同じなのだから普通だと思うが。

 結衣は人差し指を顎に当て、あんぽんたんに首を傾げる。そうしていると、この場にはまた沈黙が落ちていた。結衣と涼の二人がどちらとも口を開かないため、虚しい静寂だけが部屋に流れる。


 何か新しい話題を探さなければならないのだが、思ったように頭が回らない。涼は流行の食べ物の話に興味ないみたいだし、自分はと言えば涼の好きなアニメの話なんて出来やしない。

 一体どうすればいいのか。掛け時計を見ても、まだ二十分しか経っていなくて。結衣は懸命に頭を働かせながら、力無くして俯いた。


「…………ぁ」


 すると、不意に頭に浮かんだのは先刻の光景だった。結衣は、あの幸せそうな行為に強い憧れを抱いている。

 その行為を涼とできるのなら。結衣はたぶん、幸福で心が満たされるだろう。馬鹿なことを考えているのはわかっている。でも考えずにはいられなかった。だって、結衣は涼のことがずっと前から――それこそ、小さい頃から好きなのだから。

 


「りょうちゃんは、えっちなこと考えたりするの……?」


「え、は……?」


 唐突な結衣の問題発言に、涼は前髪で隠れた瞳をきょとんとさせる。

 

 思えば、結衣はこの部屋で涼と二人きりだ。誰の介入も許さず、そして邪魔されることもない。

 これまでの結衣ならこんな場面に出くわしたって、溢れる気持ちを抑え込んで行動しなかった。しかし、もう遠慮する必要はない。


 涼のことを想っていたはずの千聖は、今は別の誰かと付き合っている。

 ならば自分が告白してもいいのではないか? と結衣は胸に秘めていた想いをさらけ出す決意をした。


 やけに積極的な結衣だが、原因はあの動画にある。きっと当てられてしまったのだ。千聖と秋鷹の、あの行為に――。


「わ、わたしね……りょうちゃん……」


「う、うん……」


「あ、あのね……」


 好きと伝えようとして、やっぱり言葉が詰まる。暑くもないのに体中が汗ばみ、耳の先が真っ赤に染まった。

 首に手を当てれば、ここも尋常じゃないくらい熱い。声が震えて、息をするのが苦しくて。胸がキュっと締め付けられる。


「はぅ」


 ただ言うだけなのに、言って吐露するだけなのに。

 結衣は顔を火照らせて俯いてしまった。それからパタパタと手で顔を扇ぎ、もう一度、涼のことを見つめる。


 彼はそんな自分を、どんな気持ちで見ていたのだろうか。


「……すぅ…………き」


「……え?」


「すきっ! わたし、りょうちゃんのことがすきなの!」


「ぇ……結衣が、僕を……?」


 か細く放った言葉を言い直し、結衣は思い切って告白した。それはちゃんと伝わっていたらしく、涼がぼそぼそと何かを呟いている。


 しかし、結衣は心に蓋をすることができなかった。溢れ、流れ出す想いをそのまま吐き出してしまう。


「りょうちゃんになら、初めてを捧げてもいいって思ってる……。すき、だから……」


 純潔が大切なものだということは、Wikiで調べたから知っている。たぶん、特別な何かがない限り、むやみに捧げてはならないものだ。


 そして白状しよう。結衣はえっち・・・がしたい。誰でもいいというわけではなく、涼だからこそそう思えるのだ。

 いつかの空き教室で、結衣は密かに覚悟を決めていた。〝奪われるのならいっそ〝と自分の貞操に危機を覚えたこと。それは、今でも変わっていない。


 ――って、


「な、なに言ってんだっ、わたし……」


 ふと我に返るが、もう遅い。気持ちを伝えるだけで良かったのに、結衣は要らぬことまで口走っていた。

 いや、実際これも大事なことなのだけれど、本心なのだけれど、物事には順序というものがあって。まずは結衣の告白を、彼がどう受け止めてくれるのかを聞かなくては――。


 しかしその想いは、悲しくも涼には届かなかったらしい。


「結衣の気持ちは嬉しいよ。でも、僕には好きな人がいるんだ。だから結衣の気持ちには応えられない」


 意外にも呆気ない幕引き。

 想像してなかったわけではないし、予想できなかったわけでもない。当然、結衣と同じ場所に生まれ、同じだけの時間を過ごしてきた涼にも想い人がいて不思議ではない。


 なのに悲しくなる。勝手に期待して、勝手に裏切られただけなのに。


「あれ、自惚れちゃったかな、僕。本当は、結衣が告白してくるなんてあるわけないのに……。えっ……ゆ、結衣……?」


 何も言わない結衣の顔を見て、涼は戸惑っていた。


「ぁ、いや……ち、ちがっ……」


 つぅっと頬に熱い何かが滴る。それは零れ出すと、やっぱり止まらない。


 別に付き合ってほしいとか、えっちしてほしいとか、そんなことのために勇気を振り絞ったんじゃない。それらは二の次で、叶えられるならの話。

 気持ちを伝えるだけでよかったのだ。それだけでよかった。涼に想い人がいただなんて知りたくなかったし、これが報われない恋だなんて思いたくなかった。


 そうやって強がっていないと、また零れてきそうで。すでに頬を濡らしている滴を、結衣は拭うことしか出来なかった。


「泣く、つもりじゃなかったのに……う、ぐ……なん、で……」


「ぁ、えっと……ごめん。結衣がそんなに想ってくれていたとは、知らなくて……僕……」


 振られたからって、二人の関係は終わらない。ギクシャクしても、気まずくなっても、幼馴染としての関係は変わらないのだ。

 この先、チャンスなんて幾らでもある。彼が振り向いてくれれば、付き合うことも出来るし、えっちだって出来るかもしれない。


 けれど、結衣は涙脆いから。少し傷つけられただけでも泣いてしまう。


「ぐすっ……わたし、わたし……ぅ……」


「結衣……」


 膝の上で握り締めた手に、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちていく。視界が滲んでいて、なんだか溺れそうだ。

 おそらくは、泣いたらスッキリする。何もかも吹っ切れる。だから、しばらくは泣かせて欲しかった。


 ――あと少しで笑顔になれるから。いつもみたいに、笑えるから。


 そんな結衣の隣に、涼がゆっくりと近づいてきた。彼は申し訳なさそうに眉を下げると、


「こんなこと言っても、誠実さの欠片もなくて結衣に嫌われちゃうかもしれない。でも、結衣が待ってくれるって言うんなら、僕は……」


 正座しながら泣いている結衣に、涼は膝立ちで優しく語りかける。そして言葉に詰まって、踏ん切りがつくと、そのまま結衣に触れようと手を伸ばす。


 しかし――。


「ケジメとして、僕も告白して来っ――」


「やっ……」


 結衣は自分の手に触れようとしてきたその手を、咄嗟にバシッと振り払った。そして隣に涼がいたことに気づき、恐怖に歪んだ顔で距離をとる。


 ぞわぞわっと背筋に戦慄が走った。自分の手を恐る恐る見てみれば、それは小刻みに震えていた。まるで何かトラウマでも思い出したかのように、結衣の体は異様な寒気と共に強張る。

 

 そうして、視線を目の前の大きな影に移した――。


「ひっ……だ、だれ……」


 涙で視界が滲んでいるからではない。結衣は確かに、その存在に恐怖した。先までの胸の痛みや、失恋の悲しみが急激に冷めていく。

 恋をしていたこと自体が嘘だったかのように、じわじわと恐怖が頭の中を支配した。


 好きだったはずの彼に、結衣は触れることができない。その痛みや苦しみを分かち合うことも出来ない。そして、分かり合うことさえも出来なくなった。


「ゆ、結衣……?」


「こないで――ッ!」


 手を伸ばそうとしてきた彼を、結衣は必死に叫んで突き放した。ガクガクと膝が震え、腰が砕けそうになる。


「どうして、なの……」


 彼も、ダメなのか。

 好きなのに。触れたいと、一番に願うべき相手なのに。そこには目に見えない境界線が存在していた。線を越えてしまえば、結衣は自分を保てなくなる確信があった。


 だから、彼が踏み込もうとしてくる前に、結衣はその場から逃げ出した――。


「結衣っ……!」


 部屋から飛び出し、廊下を駆ける。覚束ない思考のまま階段を下り、痺れた足で玄関まで走った。

 振り向かない。込み上げてくる悲愴感を携えて、嗚咽を漏らしながら靴を履いた。


「結衣ちゃん……? どこか行くの?」


「…………散歩っ」


 リビングから出てきた母親に、涙を堪えて返事をした。悟られないようにトントンッと踵を叩き、結衣は玄関の扉を開ける。


 すると、外の冷たい空気が頬を撫で、そこに滴っていた涙をきつく乾かしていった。ヒリヒリと肌が痛み、夜の肌寒さを身に感じる。


「…………はぁ」


 玄関の扉を閉めてから、結衣は鼻をすすりながら吐息を洩らした。


 なぜだろう。辛くて苦しくて、全然楽しくない。喜びも感じられない。笑っていられる人生が、ひどく淀んでいる気がした。


「なんでかなぁ……うぅ……」


 門扉から出ると、視界がぼやけてそれ以上前に進むことができなかった。手の甲で何度も涙を拭い、またもしゃくりあげる。


 そして、行き先も決めず、走り出した。


「うぁああああああああ――!!」


 失恋した悲しさよりも、一瞬で変化してしまう自分の心から目を背けたかった。涼が好きだというこの気持ちが、真っ黒い何かに染められていく。

 苦しくて、現実を受け入れられない。幾つもの感情が入り交じり、積み重なって、結衣ひとりではもうどうすることもできない。



 ――わたしの心は、くちゃくちゃだ。

 


※ ※ ※ ※



 ここ最近の秋鷹は、放課後は千聖の家にいることが多かった。てか、ほぼ毎日である。合鍵も作ってあるし、いつでも侵入可能だ。

 今日は結衣と勉強会を開いていたらしく、十八時頃まで千聖は帰ってこなかった。言っても、本棚に並べられている本をすべて読破するという使命に駆られているので、秋鷹はまったく暇ではなかった。


 そして帰宅した千聖と戯れて、かれこれ一時間ちょっと。今日は泊まるつもりがないため、はやく家に帰りたいのだが――。


「やだやだやだ! 秋鷹と一緒にいるっ」


「おい……我儘にも程があるぞ……」


 玄関で千聖が秋鷹の胸に飛び込み、顔を埋めてきた。つむじを押しても、一向に離れようとしてくれない。逆に、その豊満な胸を密着させてぎゅっと抱きしめてくる。


「わかったから、明日もいてやるから。離れてくんない?」


「明日はバイトだもん」


「……じゃあ、明後日。泊まる準備とかしてないし、俺、帰ったらヤることあるし」


「……いけず男」


 不貞腐れる千聖を引き離して、秋鷹は彼女の額に自分の額をくっつけた。そして頭をポンポンする。


「お願い、千聖」


「…………寝るっ」


 秋鷹の渾身のお願いに対し、千聖はぷいっとそっぽを向いた。たぶん、これは帰ってもオーケーサインだ。


 秋鷹はズボンのポケットに手を入れると、靴を履く。しかしその時、玄関の外から――。


「うぁあああああああ――!!」


「な、なに……?」


 まるで亡霊が通り過ぎたような嘆きの声に、千聖がびっくりしていた。それから眉を顰め、


「すごい近所迷惑な人」


「だね」


「気をつけてね、秋鷹。ここら辺、変な人多いみたいだから」


「ん、サンキュ」


 心配する千聖を後目に、秋鷹は玄関の扉を開けた。


「じゃ、またね」


 千聖に向けて手を振り、扉を閉める。「またね」と言った彼女の最後の顔は、少しだけ寂しそうだった。


 そうして、秋鷹は門扉を出て辺りを見渡す。街灯があっても、ここの住宅地は夜になると異様に暗い。


 その道の先を見据えて、秋鷹は走り出した。


「確か、こっちだったよな……」


 真新しい記憶を辿りながら。




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