第58話 戸惑う気持ちは淡紅色
授業に部活、それから帰宅を済ませ、現在はお風呂上がり後の自由時間。
部屋着姿の結衣は自室のベッドの上で、三角座りになりながら
「まだ、来ないか……」
ここ一週間は、秋鷹とメッセージのやり取りをしていた。内容は言わずもがな、あの事件のこと。
一人の生徒が
無論その生徒には、厳正な処分が下されている。詳しくは結衣の心を気遣って教えてくれなかったが、言いぶりからそれ相応の処罰を受けたのだと理解出来た。
被害を受けた女子生徒には、学校側がカウンセリングを実施してくれているらしい。結衣にも声はかかったが、やんわりとお断りした。
このことは一応、両親にも知らされている。カウンセリングを受けなかったのは、家族会議で結衣が「必要ない」と口にしたからだ。心配をかけたくなくて見栄を張ったのだが、当然胸の内ではまだしこりが残っている。
とはいえ、この事件は噂程度に話をされることはあれど、学校ではそれ以上の大事になることはなかった。ただの偶然なのか、生徒らの目は『宮本秋鷹ファンクラブ』に向けられている。それがなければ、今頃は結衣たちのことで大騒ぎになっていたことだろう。
そうならなかっただけで、結衣には一つの安堵が生まれていた。これはちょっと恥ずかしいことだけれど、そのお陰で自慰行為も捗っている。
一件落着とは行かないが、これまでの日常に戻りつつあるのだ。
ただ、自分より他人優先という性格上、結衣はどうしても自分の心情を見落としてしまいがち。
それを見抜いているからこそ、彼は毎日、結衣を気にかけるのかもしれない――。
「わっ、電話……」
突如バイブした携帯を上に放り投げ、落下してきたところを慌ててキャッチする。画面を見れば、映し出されていたのはいつもの彼の名だ。
結衣はゆっくりと携帯を耳に当て、邪魔になっている髪を耳に掛ける。
「もしも――」
『こんちわ~す』
「あ、脳みそ夫だ!」
流行の芸人の名を口にした結衣の表情が、一瞬にして晴れやかになった。さっきまで思い悩んでいたのが、まるで嘘のよう。
『元気?』
「んー? 元気だよー」
彼は毎回、こんな感じに結衣を一回笑わせてから、毎回同じ言葉を投げかけてくる。元気、とだた一言だけ。
『それならよかった。でも、なんか怪しいな』
「怪しくないよ。ほら、こんなことだってできるし」
結衣は携帯を耳に当てながら、おったま遣隋使ポーズをとった。
『いや電話越しじゃわからないよ』
「だよね……トホホ……」
『まぁ、元気なことだけは伝わった』
「さいですか」
これには、確認の意図が込められているのだと思う。結衣が思い詰めていないか、苦しんでいないか。彼なりに把握したかったのだろう。
その証拠に、彼はまた聞いてくる。
『結構、学校生活も慣れてきた感じ?』
「友達とは普通に話せてるよ。あと、男の子ともちょこっと」
『そっか、頑張ってんじゃん』
「そんなことないよ。全部、宮本君のお陰」
『そう? 俺はなにもしてないけど』
そのとぼけた声も、彼の温情から出たものなのだろうか。結衣は目線を下げ、自分のつま先を意味もなく摘まむ。
「知ってるよ……。こうして毎日電話してくれるのは、わたしを気遣ってのことなんでしょ?」
『……なんだ、バレてたのか』
「だって、なんか過剰なんだもん」
結衣が少し不貞腐れたような声で口籠ると、携帯から、秋鷹の渇いた笑い声が聞こえた。釣られて結衣も、彼とは違った穏やかな笑みを模る。
「けど、もういいよ。これ以上迷惑はかけたくない」
結衣の表情は、いつのまにか悲しみに染まっていた。
頭の中に、両親の泣き顔が不意にチラつく。結衣が強姦未遂にあったと聞いたとき、彼らは泣いていたのだ。
思い出しただけで、胸がきゅっと締め付けられ、喉が詰まる。その恐れからか、彼に頼るのを躊躇してしまった。
しかし――。
『迷惑か……』
彼はしばらく黙考した後、宥めるような優し気な声で。
『俺はさ、朝霧』
「うん」
『立ち直って欲しいって気持ちだけじゃなくて、話したいって気持ちもあるから朝霧に話しかけてるんだよ』
「うん……つまりは?」
『つまりはぁ……』
結衣がちんぷんかんで聞くと、おそらくは苦笑したように、彼はゆっくりと言い直す。
『朝霧と話すのが楽しいから、毎日電話してるってこと』
「またそうやって誤魔化す……」
『マジだよー? まじまじ。なんなら、生きる活力になってるまであるよ』
「宮本君はホラ吹きマスターなのかな……?」
信じられなかった。だって、元気をもらってるのは自分の方だったから。彼の言葉がすべて大袈裟に聞こえてしまって、結衣は耳を塞ぎたくなる。
『本気で本当、マジもんのマジ。嘘なんかじゃ、絶対にないよ』
「わたし、迷惑、じゃない……?」
『そう思われてんなら、たぶん俺の努力が足りなかったんだ』
彼に言われて、結衣はぎゅっと唇を結んだ。
『友達なら気遣うのは当たり前だし、楽しいのも当たり前。迷惑なんて思わない方が、至極当然なんだよ』
迷惑だなんて微塵も思っていなかった。それだけ聞けて、結衣は少しだけ嬉しくなる。
『それに朝霧も、誰かの笑顔を見るために一生懸命になるだろ? それと同じで、俺は朝霧を笑わせたい』
ああ、なぜ彼はこんなにも朝霧結衣にこだわるのだろう。バカでのろまで、他人のことしか考えていなくて。自分のことになると、途端に不器用になる。
そんな不格好な結衣を気にかけてくれたのは、きっと友人だったからだ。そうありたいと、彼は願ってくれていた。
だから、こんな言葉が飛んでくるのも不思議じゃない。
『あるいは朝霧の、味方でいたい』
それはまるで、おまじないのような言葉だった。悩み苦しんでいる今の自分に、一番与えたかった言葉なのかもしれない。
結衣は口の端を僅かに上げて、微笑を湛える。でも、視界はピンぼけた写真みたいに霞んでいた。
「パパとママにも、そう言われた……」
『じゃあ、俺はお兄ちゃんかな?』
「お兄ちゃん枠はもう埋まってます」
『えっ、朝霧ってお兄さんいんの……!?』
「いるよ。だから、宮本君は弟だね」
結衣がクスクスと笑うと、彼の小さな悲鳴が上がった。それから、二人で他愛もない会話を繰り返した。
くだらない話ばかりだった。でも、久しぶりに笑えた気がする。心の底から、ただ何となしに。
そうして。
時間を忘れてしまうのも仕方ない、と彼は言った。結衣は楽しかったもんね、と嬉々として返す。それが、最後の会話となった。
『じゃ、また明日』
「うん、またね」
通話が切られ、こぢんまりとした部屋に静寂が落ちる。彼の声に思わず寄り添いたくなる気持ちを、結衣はそっと胸に秘めた。
「なんでなんだろ……」
ボフッ、と枕に顔をうずめ、うつ伏せになりながら足をパタパタさせる。
彼は間違いなく良い人だ。結衣がこれまで感じ、見た限りでは、決して悪人だとは思えなかった。
だから、この前のアレも間違いであって欲しい事柄なのだけれど――。
「気の迷い……愛情が無くなった……」
結衣は顔を横に向け、携帯の画面を見て呟く。画面には検索窓が映されており、『浮気』という単語がびっしりと履歴として残っていた。
何度もそのことについて調べたが、やっぱり理解できないものが多い。彼に直接聞いてしまえば、それが一番手っ取り早いのだろう。
しかし、切り出すチャンスも度胸も、今の結衣には無かった。あの日、スカートが舞い上がらなければあるいは聞きだせたのかもしれないが――。
「うぅ……風さん、許すまじ……」
結衣の心には、新たなもやもやが溜まっていた。一つの事件を解決したと思いきや、またも難題を突き付けられる。
だが。
「絶対、なにか理由があるはず……」
結衣は彼を信じて、首を振って疑念を取り払った。彼――宮本秋鷹に、口説かれていたとは気づかずに。
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