第57話 その笑顔は儚くて

 昼休みの保健室は、先生も留守にしていることが多い。昼食をとるために学外に出ていたり、職員室で会議があったりするからだ。

 その時間を見計らって、秋鷹は女子と落ち合う。開いた窓から吹き込む風が、パタパタとカーテンを揺らしていた。ふわりと、目にかかる前髪が靡く。


「やっぱり、エリカのカラダ最高だわ」


 白いベッドの上で、秋鷹はエリカのことを後ろから抱きしめた。へそが丸出しになっている体操服を整えてあげて、それから丁寧に髪を梳かしてやる。しかし、


「最っ低ー。秋鷹がそんな節操なしだとは思わなかった」


「冗談だよ冗談。だからさ、抓らないで? ね?」


 わざわざ秋鷹のワイシャツの袖をまくって、エリカがぐにっと抓ってきた。地味に痛い以外は特に何も無いが、秋鷹はエリカの肩に顎を置いて囁く


「そもそも、誘ってきたのはエリカの方じゃん」


「それでも……言い方ってものがあるでしょ?」


「可愛いって言えばよかった?」


「ん、それでいい……」


 頬にキスをしてあげると、エリカは唇を綻ばせて大人しくなった。


 彼女にとっては、これだけで充分満足らしい。秋鷹が他の女の子と同じように繋がっていたとしても、それすらも許容してしまう。

 なにせ、秋鷹の彼女ではないエリカに口出しする権利はないのだから。口出しされ、責められるべきは自分自身なのだ。


 そんな後ろめたさを否定してしまうほどに、エリカは秋鷹に深く深くのめり込んでいた。秋鷹も、そんなエリカを底なし沼に引きずり込む。


 至っても至っても――この関係は、ただ自分たちの欲を満たしているに過ぎない。


「最近さ、俺のファンクラブが出来たんだって。知ってる?」


 ふと、先刻の会話を思い出して呟いた秋鷹は、エリカの顔を横から覗き込む。


「知ってるよー。秋鷹の最新情報がメールで送られてくるやつでしょ?」


「何度聞いても腑に落ちねーな、それ……。ひょっとして、エリカも会員なの?」


「一応ね」


「やけにあっさりしてんな」


 宮本秋鷹が三分前にトイレに入りました、とか言う情報だったらマジ死ねる。それくらいには、ストーカー耐性が秋鷹には備わっていない。


「でも、だとしたら、これからは会う場所とか考えないといけないかもな。いつどこで、誰が見てるかもわからないわけだし……」


「それなら大丈夫。ボクがファンクラブの副会長だから、秋鷹と会う時だけ違う情報送っとくよ。さっきも中庭に秋鷹がいるって、一斉送信しといたから。安心して……」


「――お前かよーっ!」


「きゃぁっ」


 わしゃわしゃっとエリカの髪を搔き乱し、じゃれ合いながら押し倒した。仰向けで倒れたエリカに覆いかぶさる形で、そのまま秋鷹は、


「えっと? エリカが副会長で……会長さんは?」


「わかんない……。ある日突然、ボク宛にメールが届いたんだ。それを開いたら、副会長になれって書いてあっただけで、もうほんとに、皆目見当もつかない感じなのっ!」


「たぶんそれ迷惑メールだから、ファンクラブ副会長はこれっきりで辞めにしよう? 俺も物凄い迷惑してるしさ」


「やだ! 副会長の座は誰にも渡さない! フレっフレっ秋鷹! みんなのみんなの秋鷹! 宮本秋鷹、ファンクラ――」


「おいー! やめろっつってんだろ!?」


 形の出来てない応援歌をいきなり歌い出すエリカ。彼女の口を手で塞ぐも、暴れられてすぐに離してしまう。

 その後も謎の掴み合いが暫く続いたが、秋鷹はエリカの両手を恋人つなぎで拘束すると、再び覆いかぶさった状態となって口を開いた。


「はぁ、はぁ……もういいよ。副会長でもファンクラブでも、好きにしろ」


「やったぁ」


 そう言ったエリカを見てみると、彼女の体操服が少しだけはだけていた。髪も乱れ、呼吸も荒い。

 唇に塗られたリップがテラテラと光っている。だからだろうか。まるで吸い込まれるように、その場所に秋鷹は顔を近づけた。ゆっくり、ゆっくりと。


 しかし、そこでエリカが秋鷹の唇に人差し指を当て、大人びた表情で口元を緩める。

 

「体育、どうすんの?」


「えー? サボるから平気」


「……悪い奴」


「なに当たり前なこと言ってんの」


 小さな声で呟いたエリカに、秋鷹は笑ったかどうか解らないほどの微かな笑みを向けた。

 そしてベッドの上に置いてあった『オカモトゼロワン』を手に取り、中身を確認する。


「あー……切れてんじゃん」


「あきたか……」


「ん?」


 オカモトゼロワンを放り投げた秋鷹を、エリカが潤んだ瞳で見つめていた。何か言いたそうなので、秋鷹は聞く体勢に入ってみる。


「あ、あの……お薬とかちゃんと飲むから、生じゃ、ダメかな……?」


 その言葉に秋鷹は一瞬だけ目を見開かせるが、すぐに眉間に皺を寄せ、エリカの額を軽く小突いた。


「はぅッ……」


「ダメに決まってんだろ。今日はもうお終いにして、また今度な」


「じゃあ、ここでお別れ?」


「うーん、おしゃべりしたいな、俺は」


 名残惜しそうなエリカの隣に寝転がり、秋鷹は保健室の天井を見上げる。


「エリカには、サボり仲間になってもらおう」


 返答も何も求めていない言葉だったが、エリカの鼻がすんと鳴った。



※ ※ ※ ※



 体育の時間、バトミントンのラケットを手にした女子たちは、それぞれ集まって雑談していた。少し前までは男女そろってバスケだったが、この時期になると種目も変わり、男子たちは校庭でサッカーとなっている。


「それでは、準備のできたところからペアになって練習始めてくださーい!」


 ジャージ姿の体育教師が声を上げた。

 その声と共に女子たちはペアを組み始め、体育館の空いたスペースに移動していく。すぐペアになる女子たちもいたし、数人で固まったまま相談している子たちもいた。


 そんな中、結衣は珍しく一人あぶれていた。ラケットをコンと顎に押し当て、周りを見回す。


「あっ……! 杏樹ちゃんっ。バトミントン、一緒しよ?」


 同じく余っていたらしい来栖杏樹くるすあんじゅを見つけ、結衣はすぐさま駆け寄った。しかし、うんともすんとも返ってこない。


「杏樹ちゃん……?」


「見学するわ」


「……え」


 一言だけ言い放つと、杏樹は背中を向ける。


「体調悪いの?」


「あなたには関係ないでしょう」


「あ、あるよ! 友達だから心配に――」


「あまり、話しかけないでくれるかしら? それと、名前でも呼ばないで」


「…………ぁ」


 杏樹はぴしゃりと結衣に告げると、黒い長髪を流して体育館の隅に行ってしまった。結衣はまた一人になってしまった。


 すると、背後から聞き覚えのあるハスキーボイスが聞こえてくる。


「ゆいちー、ペアいない?」


 金髪をふわふわさせた春奈が、にこにこしながら話しかけてきた。


「うん……」


「なら、あーしらとやろうよ?」


「……ちさちゃんは?」


 春奈と千聖は仲が良く、いつも二人でペアを組んでいることが多い。一方、結衣はエリカとペアを組むのが通例となっていたのだが、エリカがいなくてペアを見つけられないでいた。


「三人で練習すれば問題ないでしょ?」


 結衣が遠慮していると、春奈の後ろから千聖が声を掛けてくる。腕を組んでいるが、顔は全然怒っていなかった。


「いいの……?」


「いいも何も、練習なんだから変に気にする必要ないわよ」


「うぅ……ちさちゃんが優しい……」


 何日、いや何か月ぶりに話したレベルで嬉しく、結衣はうるうるした瞳で千聖を見つめた。

 それに千聖はおかしなものを見る目で返し、春奈の隣までやって来る。


「そっか、エリカがいないんだ……」


「なんか色々あったみたいだし、調子悪いんじゃない?」


「そうだね、今朝もテンション低めだった気がする」


「あとで慰めてあげよっか? ゆいちーがエリカの所為で困ってたよーってお叱りつきで」


「――はい、はい! わたしもそれに参加してよろしいでしょうか!」


 ビシッ、と手を上げ、結衣が声を張り上げた。


「参加……? あーっ、ゆいちーも慰めたいのか! じゃあ三人で慰めに行こう!」


「うん! エリカちゃんを『慰める会』結成だねっ!」


「いいね~それ。早速、今日の放課後とか行っちゃう?」


「うんうんっ、早い方がいいもんね!」


「ちょ、ちょっと、二人ともストップ!」


 勝手に進行していく計画に、千聖はたまらず待ったをかけた。結衣と一緒に首を傾げている春奈に対し、何か言いたいことがあるらしい。


「春奈、今週は予定入ってるって言ってたじゃん!」


「あ……そういえばそうだったっ。ごめんゆいちー、今の計画、なしってことで」


「え――っ!? 春奈ちゃんノリノリだったのに! 急にドタキャンセルなの!?」


 顔の前で両手を合わせる春奈の切り替えの早さに、結衣は驚きを隠しきれない。そんな結衣に、春奈が髪を靡かせて耳たぶを見せつける。


「ほんとにめんごっ。今週はデートの予定が山積みで……」


「わぁ……そのイヤリング可愛い……」


「でしょー? あーしの勝負イヤリングっ。そしてこれは、あーしのマジネックレス」


「ネックレスも、キラキラしててすごいよ……」


「二人とも……エリカの話はどうなったの?」


 切り替えの早さに定評があるのは春奈だけでなく、結衣もだった。彼女たちのやり取りに呆れ返っている千聖は、盛大にため息をつく。


「来週なら空いてるし、エリカを慰めるのはその日にしよっか……て言いたいとこだけど、流石に勉強しないときつくない? 特にゆいちー」


「――はッ!? なんで春奈ちゃんがそれを……」


「大丈夫。みんなわかってるよ。ゆいちーがおバカさんなこと」


「酷いよ春奈ちゃん……そんなストレートに言わなくても……」


 図星すぎてぐうの音も出ず、結衣は俯いて縮こまってしまった。エリカを慰める以前に、結衣はまず自分のことを何とかしなければならない。

 

「もうっ、勉強ならあたしが教えてあげるから。来週はちゃんと三人で、エリカを慰めよう?」


「えっ? ちさちゃんが教えてくれるの……?」


「そう言ってるでしょ。勉強が疎かにならなければ、目一杯遊べるんだから。ね? 頑張るわよ」


「え? え……ちさちゃんが……」


 結衣はぽけっとした顔で立ち尽くし、千聖の名前を口に含んではか細く吐き出す。茫然と、なにが起こったのか解らないままでいた。


「よかったじゃんゆいちー! マンツーマンだよ」


 その声を聞き流してしまうくらい、それは衝撃的だった。幼馴染で、小さい頃から一緒にいた千聖が、やっと自分を見てくれたのだ。


 彼女が世話焼きなのもわかっている。優しいのもわかっている。素直じゃないところも、当然わかっていた。

 でも、わかっているだけじゃ通じ合えなくて。それが悲しくて苦しかったのに。それなのに、なぜだろう。


 それがぼやけ切った靄を払い除け、澄み渡るように晴れていけば、少し、泣けてくる。


「……ありがとう」


 結衣は滲む感情を押し殺し、彼女たちの前では満面の笑みを作った。

 

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