第53話 届かない恋

 いつのまにか、教室には静けさが戻っていた。少年と少女、ふたりが口を開かないままでいるため、服を着る音だけが物寂しく教室に響く。微かに、ただ微かに布地が擦れていた。


芽郁めい、約束のことなんだけど……」


「……え?」


 紡がれたその言葉に、芽郁は一瞬だけ呼吸を忘れて驚きを露にする。はだけた制服を整えて、前髪をヘアピンでとめて、それから彼女はゆっくりと息を吐いた。


「ちゃんと向き合うって、言ったよな、俺」


「う、うん……」


「お前を見るって、ちゃんと約束した」


 確認を取るような秋鷹の言い草。それは驚きから、芽郁の心を揺らがせる不安に変わったようだった。

 しかし彼女は、下手な取り繕い方で秋鷹の肩に自身の拳をぶつける。ポカッ、と力なくぶつかった。


「いたっ……」


「なんだ、覚えてんじゃん……」


 嬉しそうに下を向き、後ろ手に一歩足を引いた芽郁。照れ臭かったのか、視線を秋鷹の足元に置いていた。

 そんな芽郁と向かい合う形だった秋鷹は、背後の机に片手をつき、真剣に彼女のことを見つめる。そして口を開いて、一回なにかを言いかけた後に、また別の言葉を投げかけた。


「ごめん、その約束……守れなかったわ」


「え……。それって、どういう……」


 震えた声。待ち望んでいた答えではないそれに、芽郁が今度こそ取り繕いきれなかった不安を顔に浮かべた。

 わかっていたから、彼女は今も下を向いている。知っていたから、唇を引き結んで涙を堪えている。信じたくないから、秋鷹の言葉から目を背けていた。


「俺、付き合ってるやつがいるんだ」


 約束を破るではなく、裏切りにも近い言葉。それは芽郁を否定し、芽郁を傷つけるだけの言葉。過去にも、そんな言葉を投げつけたことがあったような気がする。


「また、なの……」

 

 だから秋鷹と同じように過去を見つめる芽郁は、どこか諦めのついた表情をしていた。秋鷹はそういう奴だ、と割り切ったうえで自分の気持ちを胸奥に仕舞い、


「付き合ってるのって、宍粟しそうさんと……?」


 芽郁は泣きそうな顔で聞いてくる。

 それを怪訝な顔で返した秋鷹は眉を顰め、思わず胸中の思いをこぼれさせてしまった。


「なんで今、あいつが……」


 そこでふと言葉を切り、「ああ」と納得して目線を下げると、


「そうか、会ったのか」


 いくらこの学校の校舎が大きくて広いといっても、劇で使用する体育館は一つしかない。秋鷹を追いかけて芽郁が即興劇を観に来たとしたら、宍粟紅葉と会う可能性もなくはないのだ。というか、体育館通路で一回すれ違ったし。


 秋鷹は嫌な偶然だと首を振り、先程の回答を芽郁に告げる。


「……違うよ。俺が付き合ってるのは、また別のやつ」


「じゃあ、復縁したわけじゃないんだ……」


「は?」


「あ、ううん、ごめんなさい。私が、言えた立場じゃないよね……」


 ボソボソと言った芽郁は、言い終えて沈黙してしまった。それに秋鷹は返答せず、一緒になって黙り込んでしまうものだから、その場には気まずい静寂だけが漂った。


 しばしの間ふたりして、違った考えを巡らせる時間。そこで、先に思考を切り上げた芽郁が、今にも消えてしまいそうな声で、


「好き、なの……? その子のこと」


「好きなんじゃない?」


「ちょっと、なんでそんなあやふやなの」


「いや、俺に恋愛語らせんなって……なんか、気づいたら付き合ってたんだよ」


「……しっかり絆されてんじゃん」


 ぶすっと不貞腐れる芽郁。彼女の言い分も、あながち間違ってないのかもしれない。確かに、好意を受け取りたいなら敢えて付き合う必要はなかった。

 言ってしまえば、ただカラダの関係を結ぶだけでよかったはずなのだ。芽郁や、エリカのように。


 けれど、秋鷹はこの選択を後悔したりはしていない。前には進めていないが、その場しのぎは出来ている。

 今ある退屈を紛らわすことが出来れば、それで十分ではないのか。それとも、身近に好意――あるいは愛情を与えてくれる存在がいないと自分はやっていけないのだろうか。恋人を作ってまで、そんなになってまで、愛が欲しいのだろうか。


 そこまで考えて、秋鷹はふと思う。なぜ自分は、一人の好意では満足できないのか、と。


「別に、俺にこだわらなくたっていいんだよ? 芽郁には、他に色んな選択肢があるんだからさ」


「なに、それ……」


「強制してるわけじゃないんだ。いつまでも俺にくっついてたら、芽郁自身が辛いだけだよ」


「そんなの、私が決めることじゃん。秋鷹が好きだから傍にいて、一緒にいたいと思うから近くに行く。それじゃ、ダメなの……?」


 言われた言葉にそっと長い睫毛を伏せ、秋鷹は眼にかかった前髪を払うことはしなかった。僅かに影の乗った瞳で、芽郁のことを朧気に見据える。

 

「それなら構わないんだけど……さっきも言った通り、俺、恋人いるんだよ」


「…………」


「それでも、俺といるつもり?」


 そんな秋鷹の問いかけに芽郁は迷いを見出すが、考える間もなく走り飛び込んできた。ギュッと抱きしめられ、密着され、秋鷹は身動きがとれなくなってしまう。


「お願い……二番目でもいいから、秋鷹のそばにいさせて……」


「たく、泣くなよ……」


 愚問だった。

 答えは単純ではないか。足りないから、欲している。一人だけの好意じゃ心が満たされないから、秋鷹はこうやって恋人以外から想いを受け取っているのだ。


 肩を震わせて泣いている芽郁の頭を撫で、つくづく自分の愚かさを実感する。それは、欲張りにも程があるだろうに。と、そう思いながら。


「ばかだな……お前も」


「――あぅッ」


 芽郁の額にデコピンをかまし、後ずさった彼女に秋鷹は微笑みかけた。


 本当にばかだ。幸せになれる選択は他にもあって、きっと、そっちの未来の方が輝かしいというのに。彼女は一人の男に依存し、執着してしまったがために自分を見失っている。


 ――そしてそれを受け入れてしまう俺も俺で、とんでもない馬鹿だった。


「なに、やってるの……?」


「ちょっと、最後にやることがあってな」


 痛そうに額をさする芽郁に、秋鷹はポケットから取り出したスマホをぶらぶらと見せつける。

 

「……こっちのばかも、かまってあげないと」


 チラリと教卓の方を見て、密かに呟いた秋鷹だった。



※ ※ ※ ※



「どこへ行ってしまったのでしょうか、姫乃さん……」


「鞄はあるみたいだし、先に帰ったってことはないと思うけど……」


 夕焼けに照らされた中庭で、神宮寺帝じんぐうじみかど光輪天子みつわてんこの二人は心配を募らせ黄昏ていた。


 聞いたところによると、芽郁はアイドルのライブが終わると同時に姿を消してしまったらしい。その知らせは、天子がわざわざ体育館まで来て帝に教えてくれた。

 唯一残されたのは、今ベンチの上に置かれている芽郁の鞄だけ。それを突っ立ったまま見下ろす帝は、ベンチに座っている天子に向けて、


「とりあえず、これ食べちゃいなよ。クレープ、好きなんだよね?」


「は、はい……! ありがとうございます、神宮司さん」


 手に持っていたクレープを渡し、帝はお得意のイケメンスマイルで場を和ませた。


 すでに閉会式は終わり、現在ここの生徒は文化祭の片付けに追われている。余り物のクレープを頂けたことは、僥倖と言えようか。

 片付けを手伝えない申し訳ない気持ちもあるが、いま帝が優先すべきは芽郁を探すこと。一般の人たちも学内にはほとんど残っていないし、はやめに見つけたいものだが――。


 と、そんな思考を働かせて渡り廊下を見た時、そこにタイミングよく尋ね人が通りがかった。


「ひ、姫乃さん……!?」


 純白の制服、おでこを丸出しにしたヘアスタイル、大人びた左眼の泣きボクロ。帝の知っている、姫乃芽郁その人だ。


「光輪さん! 君はここで待っててっ。俺は彼女を呼び止めに行くから」


「い、いってらっしゃいませっ!」


 唐突な出来事だった為、お互いにあたふたしながらも行動を起こした。ほっぺに生クリームをつけた天子を流し目で見て、帝は渡り廊下の方へと駆けて行く。


「姫乃さん……!」


「神宮寺君?」


 芽郁の前までたどり着き、なにを口にしようか迷いに惑う帝。夕陽に照らされた瞳を輝かせ、真っ直ぐと彼女を見据えれば、


「探したんだよ? 光輪さんも、心配してたみたいだし」


「あっ、ごめんね……私、自分のことばっかで……」


「いや、責めてるわけじゃないよ。ただ、今度からは一言伝えるなりなんなり、気をつけた方がいいかもね」


「うぅ……ごめんなさい」


 模擬店を回った時とは違って、何故だか芽郁は弱々しかった。額を押さえて頬を朱く染め、夕陽をバックに猛省している。

 そんな芽郁のおでこを見て、帝は小さな疑問を一つ。


「それ、どうしたの……?」


「これは……ちょっと、ぶつけちゃって」


 額に置いていた手を外して、芽郁は無邪気にはにかんでみせた。彼女の額には傷も何も一切ないが、帝の心は当然のように大きく揺さぶられていた。


「姫乃さんって……意外とドジだったりするのかな……?」


「どうだろ……自分じゃわからないな」


「結構真面目だと思ってたけど、俺にはそう見える」


「真面目なのは、神宮寺君もでしょ?」


 くすり、と芽郁は控えめに笑い、癖なのか後ろで手を組んだ。その姿はやっぱり、帝の胸をぎゅぅっと締め付けるほど可愛らしくて、素敵で。

 もう何度目かになる恋の自覚を、一方的に押しつけてくる。そうだ、そうだった。何度考え何度おもいみようと神宮寺帝は、目の前で笑顔を模っている少女――姫乃芽郁のことが、どうしようもないくらい好きなのだ。


「あのさ……」


「……ん?」


 だから、つい要らぬ言葉を投げかけてしまう。今いうべきではないのかもしれない。きっと、もっと仲を育んだ先で、想いを込めて伝える言葉なのだろう。

 でも、帝はこの瞬間をチャンスだと思った。これを逃してしまったら、彼女とは一生会えないかもしれなかったから。


 本当は、もう二度と会うことなんてないと諦めていた。

 恋をしたことのなかった帝の初恋は、淡く儚い一目惚れで。しかもそれは、名前も知らぬ、誰かもわからぬ少女に対してのものだった。

 まさか自分が、一目惚れをしてしまうことになるとは。驚いたし、その時の衝撃は未だ拭いきれていない。


「君は覚えていないと思うけど、俺たち、実は少し前に会ってるんだ」


「え……」


「うん、一瞬のことだったから、気づかなかったのも無理はない。でも、これだけは言わせて欲しいんだ」


 あの時のことを覚えられていなくとも、今日一日で顔も名前も覚えてもらえたではないか。

 男女の仲ほど親しくなったとは言い難いが、それで臆してしまうのは違う気がする。気持ちを伝えられない方がよっぽど悔しいし、後悔を背負って未練がましく生きるのも気が重すぎた。


 それ故に、帝の意志はとっくに定められていた。


「最初は一目惚れだった。だけど、君と話すうち、君の人柄も知れて、もっと好きになってしまった」


「…………」


「付き合ってくれとは言わない。どうか、俺を見てくれませんか?」


 中途半端な告白と捉えられるかもしれないが、これが帝の精一杯だった。振られる前提で交際を申し込めば、玉砕は必至だろうから。


「……ごめんなさい」


 だが、どうやら結果は最初から変わらなかったらしい。芽郁はなにを言われるか理解していたかのように、ただ淡々と頭を下げた。


「神宮寺君のことは嫌いじゃないよ、でも……」


 聞きたくない。そんな言葉を帝が発する前に、芽郁からは無情にも残酷な一言が飛び出す。


「私の好きな人は、他にいるから」


「そっ……か……」


 想像していなかった訳ではない。想像したくなかったし、信じたくなかった。

 帝は得心が言ったように、「そっか、そっか……」と俯くことしか出来なかった。そして振られた余韻に打ちひしがれる帝を前に、芽郁が続けて「それに」と口にした。


 彼女の視線の先――それは中庭のベンチの辺りだ。釣られて帝も顔を向けると、天子が丁度よくこちらに到着し、


「――どうかされました……?」


「あ、いや……大丈夫だよ、ありがとう」


 向こうのベンチから走ってきたらしい天子は、少しだけ息を切らして帝の顔を覗き込む。

 芽郁が「それに」と口にしたのは、天子が帝に対し想いを寄せているとまでは行かなくとも、気になる程度の存在にはなっていたからだ。


 帝もそれはわかっていたし、わかっていながら芽郁と会話するための口実として彼女を利用したことを、申し訳なく思っている。それくらい、自分のことを卑怯者だとも思っていた。


 それが例え恋愛を成就させるためだったとしても、人を利用するなんてのは非難されるべき行いとなるはずだ。

 それでも、これだけは譲れない、譲れなかったから。自分の恋のために必死になって、我儘で強欲になって、そうしていつかは報われたい。


 その身勝手さは許されないことなのかもしれないが、諦めて想い残してしまう自分自身を帝はもっと許せなかった。


「あっ、お二人とも。もう連絡先は交換しましたか……? 私はまだなので、交換したいのですが……」


 そう言い放たれ、帝と芽郁はそれぞれ違った驚き方をした。そしてこれを、帝はいい機会だと思い、内心謝りながらも、


 ――少しだけ、意地悪をさせてください。


「俺たちもまだだから、三人で交換しようか」


「えっ、ちょ――!」


「それなら、グループも作ってしまいましょう~。また三人で、どこかへ遊びに行きたいです」


「もう、光輪さん……」


 天子が純粋すぎるあまりに、芽郁は諦めて溜息をついてしまっていた。


 そんな二人を見て、帝は静かに想い馳せる。芽郁の様子からすると、彼女はまだ好きな相手とやらと交際していないと見受けられる。

 なら、このまま自分がアタックしても悪くはないはずだ。そうして帝は頷き、夕陽色の景色に視線を移した。


 沈みゆく太陽とはまた異なって、この心はじわじわと浮かび上がる熱に侵されていく。熱くなる胸にそっと手を置けば、それはまた温かさを運んできた。


「はぁ……」


 胸の苦しさに思わず吐息を吐くと、瞬間、校舎の中から小さな音色が聞こえてきた。徐々に大きさを増し、やがて近くにやってきたと理解できるほど、鮮明な旋律となる。


「朝霧さん……?」


 渡り廊下の奥、校舎との境目で扉に手をかけていたのは朝霧結衣だった。彼女の右手にはスマホが握られており、そこからは独特なメロディーが奏でられている。

 これはたしか、花生高校の校歌だ。クセの凄い着信音である。が、結衣は突然走り出すと、着信音を鳴らしながら反対の校舎へと駆けて行ってしまった。


「神宮寺さんと同じクラスTシャツ……」


「ああ、俺のクラスメイトだよ」


 不思議そうに首を傾げる天子の呟きに、帝はサボり仲間をみつけた気分で噴き出した。

 だが、すれ違いざまに見えた結衣の顔は、悲痛に歪んでいるような気がした。一瞬のことなので曖昧ではあるが、帝も天子と同じく首を傾げてしまった。

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