第52話 除き魔のゆいちょまる
アンコール曲が披露され、サクラ・カントリー・キャッスルのソロライブは無事に成功したと言っていいほどの出来栄えとなった。
ベーシストで新たにゲスト出演した『宮本秋鷹』の存在はあったが、それも会場を盛り上がらせる一つの刺激となり、一時間に及ぶライブパフォーマンスは危うげなく今終わりを迎える――。
「ありがとうございました~!」
ステージの上で観客に向けて、バックバンドの人たちと共に頭を下げる桃髪の少女――サクラ。彼女の一挙手一投足に釣られるように、観客が一体となって拍手や声援を送る。
サクラ目当てで
人々を魅了し、次々に虜にしていくような幻想を垣間見た。
けれど、芽郁の表情はワクワクやドキドキ、感動や満足といった愉悦とは程遠かった。
それは、望みが叶いそうな時に感じるもどかしい悦び。
真隣でステージを見つめ、手を合わせながら瞳を潤わせる
「……あき、たか」
――気づけば、人の波を押し退け芽郁は駆け出していた。
こんなになるまで放置していたから、もう止まらないではないか。芽郁は抑制していた想いをさらけ出し、彼に会いたいと強く願う。
本当はもっと後に、余裕綽々な態度で彼に会いたかった。大人になった自分は、こんなにも魅力的なんだと主張してやりたかった。
でも、想いを抑えられず、飛び出してしまったのは芽郁の方だった。会いたいがために走り、人の間を縫って進んでいく。
「どこ……どこ、秋鷹……」
不快に思われても、誰かからの舌打ちが飛んでも、その足は止まらなかった。そして人波にもまれながらも、やっとのことで大型テントが見える場所まで来た芽郁。
すでにライブも終わり、雑踏と人が入り乱れる中、そこで彼女は息絶え絶えで立ち尽くした。まるでスクランブル交差点の中心に置いてけぼりにされたような光景。
霞んだ瞳を手の甲で擦り、芽郁は覚束ない視界で秋鷹を探す。走りで溜まった疲労が回復していくと、ぼやけきったピントも徐々に合ってきた。
けれど視界が鮮明になる前に、芽郁の体は前へ傾く――。
「秋鷹……!」
視界が滲んでいたのは、たぶん自分が泣いていたからだ。
芽郁は瞳で捉えた見覚えのあるシルエットに、迷いなく飛び込んだ。あの頃と変わらない温もり、やわらかさ、におい、そして溢れ出す想いが、深く沁み込んでくる。
いつのまにか近くにいた彼に抱き着き、芽郁はその大きな胸板に顔を埋めていた。迷惑になってもいいと思いながら、腰に回した腕に力を込める。
「……芽郁?」
「うん……会いたかった、会いたかったよ秋鷹……」
見上げると、彼は少しだけ戸惑った表情でいた。
でも、秋鷹だ。芽郁の知っている秋鷹。すぐに優し気な笑みを模って、慈しむように頭を撫でてくれる。
「そっか、そうだよな……ごめん」
「ううん、会えたから文句はないよ。ただ……即興劇じゃなくて、ベース弾いてたのは驚いたけど……」
「それもごめん……。俺、上手く弾けてたかな……?」
「つい見入っちゃうくらいには、上手だった。やっぱり秋鷹は秋鷹なんだね」
芽郁は自然な上目遣いで秋鷹を見つめながら、心地よさそうに顔を綻ばせる。
「怒らないんだな……場所も時間も教えないで、自分勝手にしてたのに」
「いいじゃん、秋鷹らしいよ。それに、私は会えるって信じてたから」
「へぇ……。それはそれは、随分と信用してくれてたみたいで」
「秋鷹は……嘘はついても、約束は破らないでしょ」
「なんだそれ……半分は最低な野郎じゃんか」
その言葉に、芽郁はくすりと笑った。それからコツンッと秋鷹の胸に額を置き、そのまま温もりを感じようとして瞼を閉じる。
「おい……周りに人いるんだけど」
「知ってるよ」
「知ってんなら離れろ」
「やーだ。しばらく抱きしめさせてくれないと、もっとギュってするよ?」
芽郁がピタッと秋鷹に密着すると、観念したのか彼は溜息をついて素直になった。それをチャンスと見て、芽郁は思い切り彼を抱きしめる。
隙間がないくらいの密着具合が、傍からも窺えるほど。それは公衆の面前でイチャつくカップルの典型だった。
それでも芽郁は、心臓の鼓動を聞くように秋鷹の胸に耳を押し当てる。身長差を有効活用し、背伸びもせず、屈みもせずにドクンドクン鳴る鼓動に耳を澄ませた。
そして真横――大型テントの方にいる人物に向かって、小さな威嚇をする。頬を膨らませ、全力で睨みつけた。
「……ぁ」
この威嚇が効果あったらしく、こちらをジッと凝視していた桃髪の少女から、蚊の鳴くような微かな声が上がった。
秋鷹は自分のものだとでも言うような芽郁の態度。それに怯えを成し、少女は芽郁に背中を向けて走り去っていく。
芽郁のつまらぬ嫉妬心による行き過ぎた行動だったのだが、あの桃髪の少女には抜群に効いてしまったようだ。
――でも、仕方ないだろう。昔から、彼女とは馬が合わないのだから。
少女が逃げ込んだ先のテントを見て、芽郁は僅かながらに申し訳ない気持ちになった。
「……どうした?」
「ううん、なんでもない」
何事もなかったかのように振舞い、秋鷹の問いかけを知らん顔で躱す芽郁。そのケロッとした顔を秋鷹の胸板に押しつけ、流れるままに抱擁することで上手く誤魔化した。
そういえば、テントの前でこちらに向かってペコペコと頭を下げていたスーツ姿の女性は、一体なんだったのだろう。警備員の人はほっこりした表情をしていたが――。
秋鷹の胸に顔を埋めながら、そんな疑問を浮かび上がらせた芽郁だった。
※ ※ ※ ※
クラスの出し物が終わってすぐ、結衣はトイレを探しに校舎内を走り回っていた。これが文化祭による弊害なのか、トイレの個室が一つも開いていない。
しかし、これで不満を抱くことは筋違いも甚だしい。結衣のトイレの使用用途は、おそらくは逸脱してしまっている。
トイレを使いたい人たちからすれば、けしからぬ使い方だ。そのため、結衣は人気のない場所まで全力疾走してきたわけだが――。
「開いてる……? 鍵も壊れてるし……」
空き教室の多い棟は、まさに絶好の場所だった。たまたま辿り着いてしまったその場所で、結衣は悪事を働くようないけない気持ちになる。
教室の扉に手をかけ、静寂を纏った空間に足を踏み入れた。扉を閉めてから先ず最初に見えたのは、黒板と教卓。次に視線を移せば、左側には綺麗に並べられた古そうな机。
結衣がいつも目にする教室となんら変わりない光景ではあるが、違う点と言えば机の上に椅子が上げられているということくらいだろうか。
結衣は教卓に立って、そんな何の変哲もない教室を見渡す。
自分は今、不純な動機をもってここに立っている。不道徳だと叱られてしまっても何も言えない。
「わたしは……」
スカートをギュッと握り締め、弱々しい声音で呟いた結衣。彼女の目的とする行為は、トイレでも、ましてや教室でもしてはならないもの。
けれど、それ以上に膨れ上がる欲求が抑えられないでいる。
蓄積された不純物を取り払うための、結衣が編み出した体を清める行為。それは心に安らぎを与える、儀式のようなものであった。
――結衣はここで、オナニーをしようとしていた。
思えば今日は、一回もしていない。一日のスタート、言ってしまえば朝はルーティーンとして必ず致していた。
それさえしてしまえば、夕方までの生活は安泰なのだ。しかし〝あの事件〟が起こってからは更に拍車が掛かり、もっと体を清めなければ結衣は自分を保てなくなっていた。
幸いなことに、その痛切はエリカのお陰で少しだけ和らぎつつある。彼女とは口も聞けないとばかり思っていたのだが、何の冗談か彼女の方から謝ってくれた。
自分があの場で何も出来なかったこと、結衣を見捨ててしまったこと、その他にも数えきれない贖罪を乗せて、エリカは今日一日を存分に使って結衣を楽しませてくれた。
しかし一方で、心の片隅ではあのとき植え付けられた恐怖がしっかりとざわめいていた結衣。
自分よりも大きくて、力が強くて、抵抗なんて無意味だと思い知らされたあの記憶は消えない。組み敷かれていた時の震えが、表面上に表れなくとも体の芯で頑固に定着している。
いくら気丈に振舞えど、結衣の笑顔の裏にはそんな煩悶が根付き蔓延っていた。男を見ただけで刻み込まれた恐怖が蘇り、触れられれば手の付けられないほどの戦慄が走る。
だがその反面、貞操の危機に陥った反動なのか、結衣の幼馴染であり想い人でもある彼――涼に抱かれたいという思いが
――奪われるのならいっそ。
そんな心の叫びが胸臆を支配したのだ。でもやっぱり彼は異性で、男だから、触れるのが怖い。
もし、結衣の感じる恐れが彼に伝わってしまったなら、あるいは結衣の怯えが原因で彼に触れられなくなってしまったなら。
と、どちらの不安も小さいことなのかもしれないけれど、それらの痛心は結衣を悩ますには十分な心のしこりとなっている。
この苦しみから逃れるには、一番避けたかった性的な行為をするしかほかなかった。
いつのまにかストレス発散のようなものになっていた自慰行為。悪く言えば現実逃避のそれは、結衣の傷ついた心を癒すのに必要な精神的な麻薬だったのだ。
「わたしって、えっちなのかな……」
握り締めたスカートから手を離して、自分の本質を見つめ直す結衣。
たぶん、こんなはしたない真似をしているのだから淫らなのだろう。と他人事のように回答する。
そして制服のスカートの下に手を入れ、ほんのりと頬を紅潮させた。
「もう、濡れちゃってるよ……」
スパッツなどのインナーを履く余裕なんてなかったから、スカートの中は無防備にパンティーだけの状態。
それに加えて、上は即興劇の時とは打って変わって、クラスTシャツを身に付けている。あまり着る機会がなかったのもあったし、ドレス衣装のままじゃ動きづらいのだ。
結衣はその身軽な格好で、今、パンティーをぬぎぬぎしていた。黒板の前に立ってやることではないが、気持ちが昂っていて正常な判断力を失っている。
とはいえ、脱いだはいいがパンティーの置き場所が定まらない。地面に置くのも何故だか躊躇われるし、結衣はさっきまで履いていた自分の下着を持ちながら立ち尽くしてしまった。
「……え?」
しかし、そんな時だった。
教室後方の扉から、微かに話し声のようなものが聞こえてくる。それは段々とこちらに近づき、結衣の心拍数を高まらせた。
「な、なんで……!」
結衣は咄嗟に教卓の下に隠れ、疑問符を頭いっぱいに浮かべてうずくまる。
ガラガラ――と扉が開かれる音がした。
「ここって本当に誰もいないの?」
「いないよ。それに、もうすぐ閉会式始まるから、ここの生徒は誰も近づかないんじゃないのかな」
「へ~。体育館から離れてるもんね、ここ。……でも、空き教室って言っても不用心な教室だね、鍵かかってないし」
「鍵は俺がぶっ壊した」
「お前か! 悪い奴だな~、秋鷹は」
――あきたか?
結衣は聞き覚えのある名前に反応し、教卓の下で異様な緊迫感を醸し出した。
そんな結衣のことを知らない彼らは、冗談を言い合いながら楽し気に会話している。その声は窓際の方に移動し、そこで止まった。
「にしても、やっぱり神宮寺君と同じクラスだったんだね」
「ああ、それな。驚いたよ、芽郁が帝と知り合いになってたなんて」
「うん、すごく優しくしてもらったよ。あれは、出来る男だね」
「俺への当てつけか? それ」
「そうだよ。秋鷹は偏屈で、ぶっきらぼうで、根性ねじ曲がってて、意地悪なんだから」
「まさに正反対なこと言い当ててるな。俺、そこまでイメージ悪い……?」
相手を落ち着かせるような低い声と共に、机と椅子がぶつかるような音がした。音的に、机の上から椅子を下ろしたのだろうか。
「よくはないよね。まぁ、秋鷹のクラスにいる、緑色の被り物した人よりは良いから。大丈夫、安心して」
「――ん? え?」
「いるでしょ? 私ビックリしちゃったよ。中庭のベンチで優雅に寝ててさ、思わず避けちゃった」
「あ、ああ……確かにいたな、そんなやつ。今思い出したわ」
「変な人って、どこにでもいるんだねー……」
「そうだな。そういうやつにはあまり関わるなよ、芽郁」
「わ、わたし……?」
さっきから、たびたび自分の名前を呼ばれているような気がするのだが、ただの気のせいだろうか。
教室が静かなだけに、二人の会話が結衣にまで届いてしまう。一つ難点を上げるとすれば、教卓によって声が跳ね返ってしまうというとこ。
「とはいえだよ少年。私に何か言うことはないのかね?」
「言うこと……?」
「わからない? ほらほら、誠意を込めて言ってくれたまえ」
「そっか、寂しかったんだな……今まで放置してて、ごめんな芽郁」
「――ちっが~うっ!」
突然に大声を上げた少女。彼女の名前が芽郁というらしい。結衣と名前が似ていて勘違いしてしまったが、どうやらまだ結衣が教卓の下に隠れていることはバレていないようだ。
「もうっ、私から言うよ」
「ああ、そうしてくれ。なんか俺、ものすごく鈍感みたいだから……言われないとわからないんだ」
「そういうところが意地悪って言ってんの。でも、ね……。そんな秋鷹が……」
「……うん」
「好きだよ。ずっと大好き――」
その告白に乗せて、ちゅっと柔らかな音が教室に響いた。
「秋鷹は、どう……? 私のこと、好き……?」
「どうだろうな……少し揺らいだけど、まだわからない」
「ちゃんと教えてよ……」
「なら……俺が芽郁のことどう思ってるか、言わせてみろよ」
「力尽くで言わせてやるっ」
彼らのやり取りは、声だけ聴いている結衣からでも楽しんでいるようで、遊んでいるようにも思えた。
良い意味で、それは結衣の憧れとする馴染んだ会話。そこに鬱陶しい雑念や他人の入る余地はなく、彼らはどこまでも自分たちの世界に浸って誰も寄せ付けないでいた。
だからだろう。甘く柔らかな音が跳ねるたびに、結衣は胸中に疑念を渦巻かせていった。
彼には恋人がいるのだ。それも非の打ちどころのないような少女で、可愛らしくて、素直じゃないところが意地らしくて――。
「わたしの幼馴染で……」
結衣は膝を抱えながら、か細い声音で呟いた。
わからなかった。恋人と交わしていた甘やかな口づけを、何故そうではない別の少女と交わしているのかが理解できない。
結衣の頭はもはやパンク寸前だった。これ以上他の何かを考えると爆発してしまうのではないか、と言えるくらいには色々な感情が犇めき合っている。
しかし、一頻り続いた口づけの嵐が止むと、カチャカチャと別の音が鳴ってそちらに気を取られてしまった。
バレてしまうことを懸念していない訳ではないが、おそるおそる彼らの行動を窺いにかかる結衣。教卓から顔を半分だし、窓際の最奥を覗き見る。
そこでは、やはり男女ふたりがいけないことをしようとしていた。
窓側の最後列の机に秋鷹が軽く腰かけ、そんな彼のベルトを芽郁と呼ばれる少女が外している。
それから何を行うかは、言葉にされなくとも今の結衣なら容易に想像できた。性にまみれた、男女間の密接的な行為。結衣がひとりで苦慮している内に、彼らはふたり悦楽に飛び込んでいく。
そしてふと、結衣がおもむろに秋鷹の顔を見据えると――目が合ってしまった。
「えっ……」
凍りついたように結衣は硬直し、瞬きもせずに喉を鳴らす。バクバクと胸に響く心臓の鼓動が、やけにうるさかった。
しかし秋鷹は、無言を貫くと静かに結衣を見つめるだけ。
たったそれだけの仕草が、瞳が、何もかもを見通しているようで、心を見透かされているようで、結衣は人知れず不安に苛まれた。
――そしてその揺らめきを、秋鷹は加速させてくる。
彼はシーッ、と唇に人差し指を当て、やわらかに微笑んでみせた。それが結衣の心情をどれだけ騒然とさせたかは、言うまでもない。
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