第50話 会いたくて仕方がないけれど
「見てください神宮寺さんっ。あそこに蝶々が飛んでいますよ」
「そうだね。あれはアゲハチョウかな……?」
「素敵ですね~。秋の肌寒さにも負けず、あんなにも健気で……」
「彼らには季節の縛りがないんだろうね。ある意味、自由なんだ。――あっ、といっても、蝶のほとんどは大人しく越冬するんだけどね」
「まあ、神宮司さんは虫さんにもお詳しくて?」
「子供の頃……少し。もう今は、昆虫図鑑とか捨ててしまったけど」
「私も小さい頃に読んだ絵本は、押入れの奥に眠らせています。ふふっ、なんだか似ていますね」
芽郁は隣で会話を繰り広げる
改めて、彼の名前は
そして彼が――この学校ではかなりの有名人だということは、学校を案内されている途中、嫌になるほど理解させられた。
それ故、人の視線から逃げるために中庭に来たはいいものの、向こう側のベンチにヤバそうな物体が見えた。
緑色の兜を被った、人間だ。その人間は頭の後ろで手を組み、ベンチの上でおそらくは眠っている。
一目でヤバい奴だとわかった。演劇を見る前にも何度かすれ違ったりしたが、やはり触れてはいけない危険性を秘めている。
帝と同じクラスTシャツを着ていることは少々気になるけれど、帝もあまり関わりたくないはずだ。芽郁は頷き、後ろを振り返って、
「あ、あっちのベンチに座ろ! こっちは人がいるみたいだから」
強引な誘導だったが、二人は一切疑問を抱かずに芽郁についてきてくれた。そこまで信用されてしまうと、若干むずがゆい気持ちになる。
「日差しが気持ちいいですね~」
パッツン前髪の下にある瞼を閉じて、天子が木造のベンチに腰かけた。そんな天子を挟むように、帝と芽郁もベンチに座っている。
配置的には、先程と変わらない。彼らの仲が深まってくれれば、という芽郁の配慮だ。
芽郁は手元のチュロスを口に運ぶと、一口だけ静かにかじった。
「神宮寺さん。はい、どうぞ――」
「え? いや、悪いよ光輪さん……」
「いえ、案内していただいたお礼です」
膝の上に置いている容器からタコ焼きを一つ取り、帝の口に「あ~ん」と持っていく天子。随分と積極的だが、天子にしてみれば至って真面目なことなのだろう。
困り顔の帝は、断り切れなくてタコ焼きを食べさせられた。傍から見れば、もう付き合いたてのカップルでしかない。
「――あふッ。あぅ、ぁッ……!」
「だ、大丈夫ですか神宮寺さん……!?」
「あ、うぁッ、はふっ……!」
「え、えっと、どうしましょう……ハンカチ! と、本……じゃなくてっ、パンフレット! でもなくて……あ、あぁ……」
はふはふ言っている帝の反応からして、タコ焼きはエラい熱々らしかった。即座に対応しようとする天子だが、鞄からは必要のない物ばかり出てくる始末。
困り果てて、彼女は芽郁に助けを求めてくる。そのため仕方なく「あーもうっ」と芽郁は立ち上がり、帝の前まで向かった。
天子からペットボトルとハンカチを借りて、
「大丈夫……?」
「あ、ああ……」
腰を屈め、水で濡れたハンカチを帝の口元に当てる。唇の端が少しだけ腫れているけれど、大したことはない。これくらいの火傷なら、数時間後には目立たなくなっているはずだ。
帝の顔を覗き込みながら、芽郁はその体勢でじっとしていた。それから幾らかの沈黙のあと、ふいに帝と目が合う。
彼は芽郁の振る舞いを、真剣な眼差しでずっと見ていたようだった。そしてかなり、距離が近かったみたいだ。彼の瞳が、ゆらゆらと揺れ動いている。
「……なに?」
「あ、いや……」
目を逸らし、帝は芽郁から遠ざかるように少しだけ身を引いた。
「自分でできるから、これ以上は」
「うん……じゃあ、はい」
帝とて健全な思春期の男の子だ。恥ずかしかったのだろう、と思った芽郁は、ハンカチを彼に渡す。
しかし、渡した時に手が触れてしまった。芽郁は気にしていなかったのだが、帝から「あっ」という乙女のような声があがった。それと同時に、少し離れた場所の植木あたりから「い、いま触れましたわよ! あの女が神宮寺君にっむぐッ――」「会長っ、お静かに!」と変な声がした。
「え……? 今、あそこの植木から何か聞こえなかった?」
「そう、でしょうか? 私にはさっぱり……」
「うーん……たしかに聞こえた気が……」
帝を見れば、彼は聞いているとか聞いていないとかの次元ではなく、耳の先を真っ赤にさせて俯いてしまっていた。
「ま、いっか」
切り替えの早いところが芽郁の良いところだ。友人からはサバサバ系女子だなんてたまに言われることがある。
自分ではあまり自覚していないし、実感がない。むしろ、一途に男を想い続けるだけの執着があるのなら、サバサバではないのではないか。
しかもそれは、芽郁にとっての初恋だ。恋をした日のことは、昨日のことのように思い出せる。それから目移りをしたことも、新しい恋を見つけたこともない。
ずっと秋鷹だけなのだ。我ながら執念深く、面倒臭い女だと思う。それでも、彼しかいないのだ。どんなに嫌がられようと、諦めるつもりは毛頭ない。
「姫乃さん……?」
「あ、うん……ごめんごめん、なんでもないよ」
帝の正面で立ち尽くしていた芽郁は、微笑んでから天子の隣に座った。
「ていうか、だめだよ光輪さん。すぐ周りが見えなくなるのは光輪さんの悪い癖、直さないと」
「はい……気をつけます……」
「でも、私は光輪さんのそういうとこ、好きだな。あっ、別に肯定してる訳じゃないよ? 悪い癖は悪い癖であって、直さないといけないんだけど……ただ、そのひたむきさは誰にも真似できないことだから……。うん、光輪さんはそのままでいてほしい。――って、これじゃあ改善されないじゃん」
上手くまとめようとして、失敗する芽郁。彼女は肩を竦めて笑ってみせると、不器用な自分を恨めしく思う。
「ありがとうございます。姫乃さんはいつも、そうやって私を叱ってくれて……。なんだか、今日だけで姫乃さんのことが凄く、すご~くっ。好きになってしまいましたっ!」
「叱られて好きになっちゃうの?」
「はい……!」
「ふふっ、なんか潔い」
天子はかなり変わっている。だからこそ、こうして仲を育むことが出来たのかもしれない。
芽郁は一見すれば真面目だが、そういった誠実さの塊みたいな相手とはそりが合わない。いつだって、気が合うのは芽郁にはない物をもっている人たちだった。
天子もしっかりしてはいるが、根が普通とは掛け離れている。そう、芽郁の想い人である彼だってそうだった。
当然、初めて出会った時から彼は普通ではなかった。どこか周りとは違くて、大人びていて、恐ろしいほどに完璧だった。それを最初は、嫌悪していたのだけれど――て、
「私、秋鷹のことばっか考えてるな……」
下を向き、ぼそりと呟いた。
考えるたび考えるごと、すべての事柄が秋鷹に結びついてしまう。もはや病気だ。それで日常生活に支障が出るわけではないが、そろそろ自重しないと。
「ごめんなさい神宮寺さん、私……」
「気にしてないよ。不注意だった俺にも非があるからね。それより、このハンカチはどうすればいいかな……?」
「あ、はい。それは……洗って返してください! 私、待ってますので」
「え、洗って……? 洗ってか……」
そんなやり取りを聞きながら、芽郁は僅かに顎を上げる形で空を見上げていた。陽の光に当てられ、眩しそうに目を細める。
そういえば、彼――神宮寺君は、真摯でとても素直な人だ。と芽郁は薄っすらと考えていた。彼のような人は、女性からはよくモテたりするのだろう。
証拠に、芽郁たちが中庭に来た理由がそれだった。追っかけがいるとか、どこの漫画やアニメの話だ、と思わなくもない。
そんな彼を、芽郁は他の誰かと重ねて見ていた。とりとめのない考えだけれど、
「なんか……」
昔の秋鷹に似ている。本当に、さして重要ではないこと。けれど、完璧すぎる中にある脆さが、なぜか重なってしまった。
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