第44話 飛んで火にいる秋の虫

 暗くなった公園では、やはり人の姿を探そうとしても一向に見つからなかった。壊れてもいないのにパチパチと鳴る街灯だけが目立ち、走光性のある羽虫たちが灯りを求めて飛び交っている。


 その下にある木造のベンチで、秋鷹達はふたり隣り合って座っていた。既に帰宅は済ませたということか、ふたりとも鞄は持参していない。手ぶらで、制服姿のまま神妙な雰囲気を醸し出している。



「見て、これ……」


「これって、え、なんで……秋鷹が持ってんの?」


 隣にいるエリカに差し出したのは、秋鷹のスマホだ。保存していた写真を画面に表示させ、男と女が抱き合っている生々しい写真を彼女に見せつける。

 男の方はエリカのよく知っている人物だろう。なんせ、先程まで怒りを煮え滾らせていた相手――エリカの彼氏本人なのだから。


「聞き込みって言うか、エリカが心配で、あの先輩のことについて調べたんだよ」


 ただの暇つぶしではあるが、この一週間はそれにかかりきりだった。先輩もとい、三橋みつはしという男は聞く限りだと女癖が悪いらしい。

 学校中に知れ渡るほどではないが、噂程度には耳にすることがある。けれど確証が持てなかったため、こうして調べ上げたのだが――。


「そしたらこんな感じの、真っ黒い、噂通りの男だった」


 彼女も少なからず噂について耳にしていたのか、伏し目がちにスマホから視線を逸らした。そして、疑い問うように秋鷹に、


「じゃ、じゃあゆいゆいも……」


「いや、あいつはただ襲われただけだと思うよ」


「え?」


 淡白に言い放たれた秋鷹の声を聞き、エリカが間抜けた声を上げた。


 誰もが合意の上で行為に至った訳ではない。三橋と関係をもった者の中には強姦紛いの行為をされた者もいるし、その弱みを握られて今も逃げられない者がいる。

 結衣も、その被害者と見て間違いない。想い人がいるということだけでは推し量れないが、彼女が友達を裏切るという背信的行為をするとはとても思えなかった。

 

 実際、結衣は友達想いである。エリカの彼氏とプレゼントを買いに行ったというのは形だけ見れば怪しさもあるが、そこにやましい思いは一切感じられなかった。

 それが見当違いであれば、秋鷹の目がただの節穴だっただけのこと。そんな確信的でもない、個人の判断をエリカに伝えた。すると彼女は、意外にもすんなり納得する。


「そうだったんだ……でも、だとしたらゆいゆいが危ないんじゃっ――」


「そっちは俺がなんとかしとく。心配すんな」


 取り返しのつかないことをしてしまったような表情を浮かべるエリカに、秋鷹は安心させるように微笑みかけた。


 エリカが動揺するのも無理はない。勘違いだとはいえ、結衣を見捨てて来てしまったのだ。助けられたかもしれない後悔が、波となって押し寄せてきているのだろう。


 もし仮に、結衣が三橋から逃げられていなかったとしたら、彼女は今も絶望の色に染められているかもしれない。あるいはもう、染まり終わった頃かもしれない。

 

 ただ、それを防ぐために今すぐ結衣を助けにいくだとかの義理や人情は、秋鷹にはない。


 また、被害が性的なことにかかわるため、結衣自身、それを他人に話すことは躊躇われるだろう。

 被害者は、被害を誰にも言えなかったり、ごく一部の人にしか打ち明けられないことがほとんどである。家族や恋人、友人にも黙っているケースが多い。

 それは誰にどう思われるとかの、同情、嫌悪、好奇、そういった他人の目を恐れているからだ。


 ならば第三者の秋鷹が彼女に関わって、果たして何ができるだろうか。

 本人の意思を無視して弁護士にでも相談するのか、それともかき集めた他人の赤裸々写真でも持って、まさか秋鷹が警察にそれを提出するのか? 

 傷ついた結衣を慰めるにしても男の秋鷹が近づけば恐怖を蘇らせるだけ。エリカはエリカで自分を責めているし、結衣の――仲の良い友人に話したとしてもやっぱり余計な混乱を招いてしまう。


 幼馴染の彼なら真っ先に助けに向かったのだろうが、秋鷹は自分がそこまで一生懸命になる理由が見つけられなかった。結衣が危険に晒されていると知っていながらも、だ。

 

 ――呑気なやつだな、俺は。


「すごいね秋鷹は……すごいよ、ほんとに」


 それなのに、過去を思い出すように口にした言葉を噛み締めるエリカ。


 まだ何も成せていないのに気が早いやつだ、と秋鷹は思った。なんとかするとは言ったが、救えると決まった訳でもないのに。


「はぁ……」


 珍しく自信なさげな秋鷹をよそに、エリカが秋鷹のスマホをスワイプしていた。彼女は人差し指で器用にスマホを操作し、心なしか感心したような息を漏らす。

 横にスライドされていくのは、すべてが三橋の裸写真だ。男女がベッドで横たわる写真が最も多いが、無理やり致しているような証拠写真は残念ながらなかった。


「普通、こんなに調べたりしないよ。本気すぎ――」


 しかしふと、エリカの手が止まった。秋鷹は自分の手元にあるスマホを横目で見ると、次は勢いよく顔を液晶画面に向ける。


 画面には、いつか千聖と撮ったツーショット写真が映し出されていた。しかも、ほっぺにキスをされている特典付き。


「え?」


 当然、エリカからは驚きの声が上がった。


「あー、それはだな……」


 言い訳のしようもない写真ゆえに、秋鷹は戸惑いながらどう誤魔化すかを考える。その隙を与えず、エリカがツンツンと指で脇腹をつついてきた。


「もしかして、付き合ってたりするの……?」


「……うん」


 諦めて、素直に頷くことにした秋鷹。もっともバレてはいけないギャル軍団のエリカに知られてしまえば、誤魔化すことがどれだけ愚行なのかを秋鷹は理解している。


 しかし、普段なら揶揄したり大騒ぎするエリカが、今回は落ち込んだ表情で俯いた。彼女の小さな顔がショートボブの髪で隠れ、もう表情は窺えない。


「……そう、なんだ」


 スマホに置いていた指をスッと静かに下ろし、エリカは膝の上で握り拳を作る。そして首を振り、ふわりと顔をこちらに向けると、


「でも……それならなんで? 彼女でもないボクのために、なんでこんなに一生懸命になってくれたの?」


 何か期待したような目で、エリカは純粋な疑問を投げかけてきた。その疑問の答えを言うならすべて、〝癖〟で片づけられるのだが、秋鷹の癖は少しだけ他とは違う。


 秋鷹は湧いて出る下心を隠すように、慣れた面持ちで自分を取り繕った。


「見てられなかったんだ。エリカが、他の男に傷つけられるところ」


 悔しそうに、唇を噛む。持っていたスマホを膝の辺りまで下げ、エリカの瞳に自分の瞳を合わせた。

 そうして、揺れる眸子の先に思い出を映しながら、秋鷹はいつものように笑いかける。


「ずっと見てきたから」


「…………ぁ」


 僅かな沈黙。


 それが耐えられなかったようで、エリカが不意に視線を逸らした。それからしばらく視線をさまよわせ、膝を見据えながら何度も口をパクつかせる。


 言う言葉が見つかったらしいエリカは、やっとの思いで控えめに秋鷹を見て、


「秋鷹って、ボクのこと……どう思ってるの? 本当は、好きだったり――」


「妹みたいだと思ってる」


 ポンッと秋鷹の手が頭に乗せられて、口を噤んでしまうエリカ。彼女はその手を振り払おうとはせず、目線を下げてか細く、


「っ……。そ、そうだよね。わかってた」


 震えた声がすぐ隣で聞こえ、秋鷹はそんな彼女の頭から手を離した。泣きそうになっているのかもしれない。しかしそれを上手に隠して、エリカはぎこちない笑みを浮かべる。


「やっぱダメだなー……ボク。チョロすぎっていうか、未練たらたらで」


「え……?」


「付き合ってるってことは、チサっちゃんが好きなんだよね……どうしよ、ボク……」


 言葉の先になるにつれ、エリカの声が段々と小さくなった。最後には掠れて消えて、残るのは彼女の息遣いだけ。

 まごついた唇を震わせる姿は、エリカの迷いの表れでもあった。それゆえに彼女の本心は、口を衝いて出ていってしまう。


「また、好きになりそう……」


 力ない声音がまたも消え入り、余韻となって夜の帳へと寂し気に漂っていく。エリカは自分の胸に手を当て、自らの想いを確認するように下を向いた。

 彼女はそうして顔を伏せたまま、


「一年生の頃はね、秋鷹のこと、好きだったんだ……」


 呟き、ぽつぽつと胸中の想いをこぼすように続ける。


「入学式から何週間か経って、クラスに馴染めないでいたボクに、秋鷹は声を掛けてくれたんだ。初めて話したのが、秋鷹だったんだよ……? しかも物凄いイケメンで、みんなにも慕われてて……なんでこんな人がボクに? ってたくさん思った」


 泣き笑いのような表情で、エリカはあの頃の懐かしさに浸っている。


「秋鷹にとっては、気まぐれみたいな感じだったんだとしても、ボクにとってはそれが響いちゃったんだ。……気づいたら、秋鷹を目で追うようになってた。ああ、好きなんだなぁ……て何度も気づかされて、キミの傍にいたいって思うようになって。でも、秋鷹はボクなんか眼中にないみたいだったから――」


 言葉を切り、エリカはこの先は言いたくないとでもいう顔で言葉を詰まらせた。しかし決心がついたのか、一泊置いてまた話し出す。


「そんな時に、先輩に告白された。これで秋鷹を忘れられるならって、最初は安直な考えだったんだよ。これ以上辛い思いはしたくなかったから、先輩と付き合うことにしたの」


 ついに零れてしまったのか、エリカは目尻に溜まった何かを指で拭う。空を見上げて吐息を漏らすと、そのままゆっくりと顎を引いた。


「初めはさ、秋鷹の想いもあって、先輩とはあまり接してあげられなかったんだよ……それに、ボク、スポーツ下手くそだから、部活はみんなより頑張らなくちゃいけなくって……。たぶんそれが、原因だったのかなぁ」


 ――エリカがこちらに顔を向けて、悲しそうに眉を下げる。


「しばらく経ってから、先輩の黒い噂を聞くようになったの……。でも、ちゃんと信じてた。いつも先輩は優しくて、こんなボクにも笑いかけてくれたから……きっと噂なんて嘘なんだって思ってた。なのに、どうして? やっと、少しずつだけど近づけて、先輩のこと好きになれたのに……。ファーストキスも、先輩にあげちゃったんだよ? やだよ……なんでこのタイミングなの? なんでボクばっかり? ボクが何か、悪いことした……!? ねぇ、あきたかっ……」


 秋鷹の制服の裾を掴み、エリカは今度こそ瞳いっぱいの滴を頬に伝わせた。少なくとも三橋という男は、彼女をこれだけ泣かせてしまうほどの、大きな存在であったらしい。


 返答に困って黙り込む秋鷹。エリカは涙を流す自分に慌てて気づき、鼻水をすすって涙を拭っていく。


「ぐすっ……ご、ごめんね。こんなこと言われても困るよね。今の話はなかったことに――」


 涙声で今の発言を取り消そうとするエリカ。

 そんな彼女の言葉を遮るように、秋鷹は彼女を自分の胸へと抱き寄せた。一回り以上ちいさいその身体を抱擁し、片手で腰、もう片方の手で頭の後ろを撫でる。


「あき、たか……?」


「言ったろ? 俺なら、抱きしめるって」


 先日の恋愛相談で口にした、秋鷹なりの愛情表現。それを躊躇いなく実行し、尚且つ逃げられないように優しめに力を込める。


「今はもう違うかもだけど……好きでいてくれて、ありがとうエリカ」


「う、うぅ……」


 エリカは秋鷹の胸に顔を埋めると、肩を震わせて泣きじゃくった。安心したのか、それとも恋愛に終止符を打ったためのものなのか。

 タガが外れたように、秋鷹の名前を呼び続ける。泣いて泣いて泣き続けて、自然とエリカは秋鷹の背中に手を回し、くしゃくしゃに皺が出来るくらい制服を握り締めた。


 秋鷹は彼女が泣き止むまでずっと、頭を撫でる手を止めない。エリカの艶やかな髪を指で梳かし、小刻みに震える背中をさすってやる。

 すると落ち着いてきたのか、エリカはしゃくり上げていた声を徐々に潜めていった。いつまでも続くと思われていた抱擁は解かれ、回し合っていた手が離れていく。


 そうして身体が離れていくと同時に、エリカの表情に名残惜しさが浮かんだ。泣きべそで汚れた顔に、未練が残っている。


「…………ぁ」


 けれど、それ以上先へ進めないことは、お互いに理解していた。秋鷹には恋人がいて、それはエリカの友人でもあって。

 きっとこれより先に進んでしまえば、二人は戻れなくなる。今しがた誰かの裏切りを非難したばかりなのに、自分たちがそんな過ちを犯してなるものか。


 ――そう思っていたのは、エリカだけだった。


「俺って結構、うっかり屋さんなんだ」


「……え?」


 秋鷹はベンチから腰を上げ、寂しそうな夜空を見上げた。そしてポケットに手を入れ、誰に向けてかもわからない独り言のようなものを、儚げに語り始める。


「これから家に帰って、たぶんいつもの習慣で鍵は絶対にしない。絶対にな。そのまま風呂入るか飯食うかして、それから朝霧のことをどうやって救うか考える。この順番はその時の気分次第かな。……それで落ち着いたら、あとは寝るだけ。そりゃあもう、ぐっすりな。誰に襲われても、気づかないくらいぐっすりに」


 耳を澄ませば、公園の端々から鈴の音が聞こえてきた。秋の虫が姿を現して、ゆったりとした大演奏会を開いているのだろう。


 それに重ねて、秋鷹は語り続ける。


「あるいは、そうだな……俺、実は一人暮らしなんだ。最近は一人だと寂しくて、気を紛らわすために歌ったりなんかもしてる。それくらい寂しがり屋さんでもあるんだが、きっと抱き枕なんてあったら思わず抱きしめちゃうな。そう、例えばさっきみたいな、チェリー色の可愛い抱き枕なんて良いな、抱き心地よさそうで。……人肌恋しい俺なら、一生離さないと思う。疲れてもいるし、今日・・までなら、なんでも黙認しちゃうだろうな」


 語り終わると、秋鷹の足は公園の砂利だらけの地面を踏みしめていく。


「じゃあ、俺はこれで。明日早いから、もう帰らないと。エリカもだろ?」


 言いながらエリカに背を向け、秋鷹は小さく手を振って別れの意を示した。エリカを家まで送るという選択肢を放棄して、ただただジャリッジャリッと足音を立てていくだけ。


 たったそれだけのことなのだが、秋鷹の顔は何かに満足しているようだった。


 ――ジャリッ。


 と背後の方で地面を踏む音がした。それに合わせて、虫の大合唱もリンリンと激しさを増す。


 やがて虫の音色は遠ざかり、二つの足音が地面を軽く叩いているだけとなった。とっくに砂利の音は消え、今は革靴が混凝土を叩いている。


 そして不意に秋鷹は立ち止まると、古びたアパートの前で後ろを振り返った。


「どうしたエリカ。お前も……寂しいのか?」


 そう微笑みかける秋鷹に対し、彼女は笑うことはしなかった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る