第43話 信じるってなに
「プレゼント渡せたみたいで良かったです」
「結衣ちゃんのお陰だよ。エリカ、凄く喜んでくれてた」
ガチャリ、と体育館倉庫の鍵を開け、結衣は薄暗いその部屋に入っていく。
先ほど
特に断る理由もないので、結衣はこうして彼と体育館倉庫まで来ている。彼に関しては、体育館通路でエリカと待ち合わせをしていたらしい。
それまでの間、1оn1で暇を潰すなりなんなりするのだろう。エリカも文化祭準備で忙しそうだったから、まだしばらくはやってこない。
「喜んでもらえたなら、選んだ甲斐がありました。カチューシャ、エリカちゃんに似合うと思ったんですよね~」
「うん、僕もあれには驚いたよ。一段と可愛くなって、彼氏として誇らしかった」
「好きなんですね、エリカちゃんのこと。すっごく」
「まぁね」
三橋は温厚な性格に加え、バスケ部主将として活躍する姿のギャップもあり、女子からはよくモテる。
聞いた話によると勉強ができて頭脳明晰でもあるらしいし、告白も何回かされたことがあるのだとか。
そんな彼が選んだのが、エリカだった。彼女にはそれだけの魅力があったということだろう。
少なからず結衣も三橋のことは尊敬していて、バスケだけで言えばもはや憧れてもいる。
「そういえば、先輩とバスケの勝負するの久しぶりですね」
結衣は鉄カゴに入ったバスケットボールを触り、空気の入りを確かめながら言った。
「そうだね、結衣ちゃんは一年生の頃もビックリするくらい上手だったけど、二年生になってからはそれよりも格段に上手くなったよね。なんだか、勝てるか不安だよ」
「そんな……わたしはまだまだですよ。この前もパス出しすぎだって、先生に怒られましたし」
「それは、ボールに触れてない子への結衣ちゃんの気遣いでしょ? それがただ過剰になっちゃっただけだよ。気にすることない」
「そうですかね……」
使えそうなバスケットボールを見つけ、結衣はそれを目線と同じ高さまで持ち上げる。
すると、扉が閉まる音と共に、辺りが一層暗くなった。
「……え?」
突然の出来事に狼狽する結衣は、キョロキョロと辺りを見回す。
小窓から入り込む光で辛うじてだが、跳び箱やマット、そしてその他の用具が朧気に視認できた。
窮屈で、蒸し暑い。季節は秋だというのに、夏の余韻が熱気を運び、結衣の額に汗を滲ませる。
「――結衣ちゃん」
「――――ッ!?」
背後、聞こえてきたのはさっきまで言葉を交わしていた男の声。しかしそれは酷く濁っているようで、どす黒い何かを内包しているような声だった。
結衣は振り返ると同時に後ずさり、鉄カゴに手を置いて男を見据える。その瞬間、手に持っていたバスケットボールが床に落ち、トンットンットンッ――と男の足元へと転がっていった。
思わず目で追いかけてしまったボールから、結衣は再び視線を男に向ける。一歩踏み出せば触れられる距離で、影を纏った長身の男が佇んでいた。
「せ、先輩……?」
「この時を待ってたんだ」
「…………へ?」
ニヤリ、と男の口角が三日月型に歪んだ気がした。彼は頭ひとつ分上から見下げるように、結衣の元へやって来る。
得体の知れない恐怖を感じて足を引くが、鉄カゴが邪魔してもう後ろへは下がれない。逃げられないということへの焦燥が血の巡りを妨げ、眼前で結衣を凝視する男の視線を受けて思考が凍りついた。
凍りついてはいるが、機能しなくなった爪先から頭の先にかけて震えが止まらない。まるで極寒の南極に生まれたての小鹿が放り込まれたかのように、結衣は膝を揺らし、心臓をバクバクと鳴らす。
その男は怯えている結衣の様子には構わず、思い切り腕を掴んできた。
「や、やめ……! んぐっ……」
ガシャンッ、と身体ごと鉄カゴを跳ねのけ、結衣は背中から床に倒れ込んだ。抵抗虚しく背中と腰に強い打撃を受けてしまい、「かはっ」と肺を圧迫されたような、声にならない声が漏れ出る。
「や、だ……」
仰向けになった結衣の真上には、優しい先輩だったはずの男が覆いかぶさっていた。抵抗できないように手首を固定され、下半身には男の腰が乗せられていて自由が効かない。
力を振り絞って上体を起こそうとしてみるも、脇腹にズキリとした鈍い痛みが走ってそれどころではない。
「うぐぅッ……」
――痛い、痛い痛い痛い。
骨までは折れてはいないだろうが、転んだ拍子に脇腹を痛めてしまった。常に圧迫し続けてくる鈍痛が、動けば更なる痛みを与えてやると脅迫してくる。
それでも、今の結衣には迫りくる恐怖によって、また別の痛みが絶え間なく心に襲い掛かってきていた。
もはや誰かもわからない男の顔を見上げ、結衣はふいに込み上げてくる熱いものを両目からこぼし、信じていた者に裏切られたという悲愴感に唇を噛み切ってしまう。
棘のような鋭い痛みがした。口内に鉄臭が蔓延した。澄み切った真っ赤な血が、口の端を伝って顎下に垂れていく。
「結衣ちゃんが悪いんだよ……?」
「…………あ、ぅ」
悪いと言われて、心当たりなんて当然なかった。
結衣の今までを一言で表すなら、『笑顔』がいちばん適切だ。それは唯一、結衣が自発的に行ってきた心がけでもある。
自分が笑顔を作るのはもちろんのこと、他人まで笑顔にしてしまう器量の持ち主が結衣だった。言ってしまえば一種の才能で、子供の頃からこれだけは良い意味で変わらない。
故に、人から嫌われることなんて滅多になかった。誰とでも分け隔てなく接して、同じ距離で、しかもそれがありのままで。
だというのに、積み重ねてきた無自覚の善が、たった一言の悪で塗り潰されてしまう。見方を変えれば、結衣がしてきたことは〝悪いこと〟であったらしい。
「いつもいつも思わせぶりな態度ばかり取って、誘ってるって勘違いされても仕方ないよね? 可愛い笑顔で挨拶してくれるのは、まぁいいさ。うっかり惚れそうになるけど、それが結衣ちゃんのアイデンティティなんだろうからね。明るさを振り撒いて人を元気にするのもそう、差別なんて絶対にしない、ちょっとおっちょこちょいなところがたまに傷。……うん、これだけでも、女の子と会話したことのない男ならイチコロだ。でもね、違うんだよ結衣ちゃん。その後なんだ。どうして君は期待させるような態度を取っておきながら、それに上乗せするように自分の魅力を誇示するんだい?」
「し、してない……」
「本当にそう言える? ……ささやかだけどボディータッチは男にはご褒美なんだよ? 屈んだ時に見える胸の谷間は、それ以上の誘惑でもあるんだよ? 君はそれを平然とやってのけて、あたかも自覚なしを装ってピュアな女の子を演じている。僕から見れば、君は誰にでも股を開く淫売女となにも変わらないよ。むしろ淫売どもよりタチが悪いんじゃないかな? ……酷い暴論だと思うかい? でもそれを僕に言わせてるのは、君自身なんだよ。君が無防備で用心の欠片もない馬鹿だから、僕はこうして欲望を行動に起こすことができている。ほんと、誰かに先を越されないで良かったって思ってるよ。きっと、僕がやらなきゃ他の誰かが君を襲ってたよ。みんな同じだからね。君みたいな右も左もわからない夢見る少女は、ヤリやすいのさ……。ははっ……ねぇ、結衣ちゃん――」
近づいてくる男の顔は、とても人間のモノとは思えなかった。
「初めてが、僕でよかったね」
「――ひっ……」
耳元で舐めるように囁かれ、結衣の全身に身の毛がよだつほどの鳥肌がたつ。
今から自分は将来を誓い合ったわけではない、はたまた好意を寄せあっているわけでもない、それどころか急速に嫌悪していっている相手に、初めてを奪われようとしているのだ。
それは、あまりにも過酷で絶望的な試練だった。
この世の不条理を――穢れを知らず、何不自由なく人生を歩み続けてきた結衣には乗り越えることすら困難。
流されるまま生きてきたと言ってもいい彼女には、自分の意思で行く末を決めることも、それを実行に移すことすらもできない。ただ茫然と終わりを待ち、すすり泣いて絶望に浸るのが関の山だった。
「あ~、今日はついてるな、僕」
プチップチッとブレザーのボタンを外し、男はゆっくりと結衣の制服を脱がして行く。
「エリカももう少しで落とせそうだし、急な予定変更はあったけど充分だ。あいつ、あの見た目でガード固いから、結構骨が折れたんだよね。その点、結衣ちゃんは楽でいいよ。どうせ襲われた後は、誰にも言わないで全部一人で抱え込むんでしょ? そういうタイプだもんね、結衣ちゃんは。まぁ、写真撮っとけばもっと確実だよね? ……おお、意外とデカいなぁ」
ワイシャツのボタンを半分まで外され、下着を纏った結衣の胸が露出した。室内スポーツをしているため、日焼け跡は一切見当たらない。真っ白く、どこか儚い胸の谷間が男の情欲を煽り立たせる。
結衣はそんな辱めを受けていても、虚ろな瞳をしたままで何も言わなかった。既に諦めきったような面持ちで。屈辱を噛み締めることもしない。
――なぁ、朝霧。お前、人を疑うことくらい覚えろよ。
いつか誰かに、そんな心配をされたことがあった。
彼の言葉を真に受けず、笑顔を作り続けていた結果がこれだ。憐れでもあるし、愚かでもある。
結衣はその時「ちゃんと逃げれるよ」と高を括ってしまっていた。しかし現実はそう甘くはなく、結局は力及ばずに組み敷かれている。
脇腹の怪我がなければ――という考えももう無意味だ。起こってしまった出来事は覆せないし、結衣に残されているのは、どうせ終わりのない絶望だけなのだ。
ならば結衣にできることと言えば、ただ淡々と、死んだように、朽ち果てる未来を迎えることのみ。そこに希望があったとしても、その未来で幸せに生きることなんて絶対に出来ない。
だから、この男に穢されるという事実を否定するために、暗闇の中で結衣は懸命に気を紛らわした。
赤い絵の具と青い絵の具を混ぜると、毎回違った紫になる。晴れの日の朝のオレンジジュースは、毎回少しずつ甘さが違くて。けれど焼け爛れた憂愁な暮れ空は、毎回同じような哀しさを秘めていた。
その空を自由に羽ばたく奔放な鳥になれば、あるいは救われるのだろうか。今現在、結衣に取り巻くすべての不条理が、もしかしたら、風に乗ってどこか遠くへと解放されるのかもしれない。
学校の屋上からだって簡単に飛べる。結衣の家の近くにも、確か空を飛べそうな小高い丘があった。そこからは街の景色が一望出来て、きっと何もかも吹っ切れて気持ちよくなれるのではないか。
現実逃避に走っていた結衣の心には、そういった新たな願望が湧き上がっていた。決して救われることのない願いになるはずなのに、それを待ち望んでいたかのように甘美な誘いに乗ってしまう。
そんな馬鹿らしくも愚かな決断は、しかしながら実際、ちっぽけな救済の光にすら負けてしまうような、脆くて崩れやすい決断だった。
「――せんぱーいっ。……いない? おっかしいなぁ、体育館開いてるのに」
ふいに聞こえた微かな声に、結衣は涙で濡れた顔を横に向ける。自分に覆いかぶさっている男の横から体育館倉庫の扉を見て、それが僅かに開いていることを知った。
知ったところで何が変わるのかはわからない。だが、自分の視界が涙でくしゃくしゃに歪んでいくのがわかってしまった。
「あ、ここに隠れてるんですか?」
ギィィ、と建付けの悪い扉が開かれる。照明が点いていないため光は弱いが、それでも倉庫内に外の明るさが広がっていく。
「なっ、エリカ……!?」
結衣の胸を視姦していた男が、いいところでゲームを取り上げられてしまった子供のような声を上げる。
「三橋先輩……? と……ゆい、ゆい……?」
誰が見ても、それは異常な光景だった。エリカからすれば、自分の彼氏が他の女といかがわしい行為をしている浮気現場だ。
結衣の服ははだけているし、彼氏らしき男は上半身が裸。今から何をしようとしていたかなんて、想像に難くない。
「なん、で……」
「いや違うんだ! これは、その……そう! 倉庫に閉じ込められちゃったから、二人で身体を温め合おうって――」
「うるさいッ!!」
「へぶッ」
立ち上がってエリカの前に行き、必死に辻褄の合わない弁解をする男。彼の顔に、エリカの頭につけられていたカチューシャが投げつけられた。
彼女には言い訳を聞く耳なぞなかったのだ。この決定的な現場を目撃してしまったのであれば、もはや何も言うまい。
「信じてたのに……」
最後に一言だけ呟いて、エリカは体育館倉庫を走り去っていった。
これを、見捨てられたとは結衣は思っていない。かえって納得していた。彼氏が浮気していたのだ、エリカとて結衣が襲われていたとまでは考える余裕はなかったはず。
――だから、これでいい。
助けてもらうなんてのは虫が良すぎる話だ。ここからは自分でなんとかしなければならない。
折角、天が味方してくれたのに、この機会を無駄にはできなかったから。結衣は脇腹にくる激痛に耐え、歯を食いしばりながら身体を起こした。
「はぁ……はぁ…………」
呼吸を整え、ブレザーを持って立ち上がると、やけに頭がクラクラした。が、決して動けないわけではない。
――笑いが出るくらい、まだ自分自身に余裕があった。
初めからここまでの気力があったことに、どうして気づけなかったのか。自分の未熟さを悔い、結衣は震える唇を引き結ぶ。
無論、今しがたの出来事は忘れていない。脳裏に鮮明に刻み込まれ、未だその恐怖で身体が強張っている。だとしても、それ以上の決意に結衣の心は衝き動かされた。そしてこれも、恐怖で押しとどめられていたものの内の一つ――結衣は乾いた唇を舌で湿らせ、窮屈だった喉をこれでもかと震わせる。
「――どけぇえッ!!!」
「ゆ、結衣ちゃん……!? ぐふッ」
扉の前にいた男を乱暴に押し退け、結衣は体育館倉庫から外に出た。開襟されたワイシャツを雑に整えながら、ブレザーで身体を包み走っていく。
――痛い、怖い。
それらの言葉がどれだけ結衣の心に沁みついているか。我武者羅に前だけを見据えて走っているが、ざわざわと不快感だけが頭の中を巡る。
一度は死のうとすら考えた。あのまま生き永らえたところで、死んだように生きていくのが目に見えていたから。
鳥になって、空を飛んでみれば、それで救われると思い込んでいたのだ。でも、やっぱり生きていたい。最悪な事態が免れたからじゃない、初めてを奪われなかったからでもない。
きっと、結衣はまた笑っていたかったんだ。それが自分に出来ることのすべてだったから。
――諦めて終わるくらいなら、そっちの方が死んだも同然だった。
「う、ぐっ……はぁ、はぁ……」
つまずき、何度も転びながら、擦り傷を増やして見慣れた河川敷を走る。短絡的だった結衣の思考は、少しだけ前を向けた気がした。
それが良いことなのかは結衣自身わかっていない。だって、嫌な思いをして成長するなんて認めたくない。
どうせなら笑顔で、そうなれるような楽しさの中で、自分は成長したい。
だから負けない。不安も、怯えも、打ちのめされてしまった精神をも気丈に――そうして結衣は、明日に向かって走っていく。
「あぁぁぁああああ――ッッ!!!」
街の静寂を切り裂いて、蒼白く染まった宵の空の下、ひとりの少女の掠れた声が響き渡った。
※ ※ ※ ※
「はいはい、ちゅっちゅっ。いや、ちゃんと気持ち籠ってるよ? そう、わからない? え……もっと欲しいの? 欲しそうな声してたじゃん。……うん、うん。あー、はい。……俺も、好きだよ」
古びたアパートの玄関を閉め、秋鷹は通話を切る。画面に映し出されていたのは、彼女である千聖の名前だ。
千聖の家に行くことは、もはや恒例になりつつある。いつもなら二十一時くらいまで居座るのだが、明日が文化祭ということで今日は早めに切り上げてきた。
二十三時になればまた、電話をかける予定である。こちらもお決まりの行事ごとだ。
すると、通話したばかりなのに新たな着信が入った。サンボマスターの『青春狂騒曲』が流れる。
「ん、エリカ……?」
不思議に思いながらも、秋鷹はスマホを耳に当てた。
「どうした……?」
『…………彼氏に、浮気された』
「は?」
かなり暗めな声で、突然そんなことを言われた。土砂降りの中で傘もささず突っ立ているような、そんな声。
『なんでだろ……ボクがいけないのかな……? これでも、頑張ったんだよ? 積極的になれなかったのは悪いと思ってるけど……キス、できたのに……やっと、忘れられると思ったのに、なんでかなぁ……。しかも、相手がゆいゆいって、もう……』
「わかった、わっかたよエリカ。今から会える?」
『え……? 会える、けど……』
「じゃあ、今すぐ花生公園まで来て。俺も速攻で行くから」
『え!? ちょっ、秋鷹? 公園って――』
ブチッ、と通話を切り、脱ぎかけの靴を履きなおす。それから近くの壁にもたれかかると、秋鷹はスマホを操作しながら、
「たく、明日は文化祭だってのに……」
鬱陶し気な表情を浮かべ、しかし口角だけは嬉しそうにつり上がっていた。
静まり返った家の玄関で、スマホのスワイプ音だけが物寂しく鳴る。その音が止まり、画面に映ったのは最近使うことが多かった写真アプリ。
それを開き、秋鷹は中身を確認する。
「ま、少ないけど、足りるよな」
言って、スマホをポケットの中に仕舞い込んだ。
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