第34話 それぞれの笑顔

『好きな人がいるの。ごめんね、黙ってて』


 君とは友達でいたい、なんて言葉も付け添えて、震えた声で彼女はそう言った。

 いつの話だったか、それは随分と昔のように思える。雨の日か、あるいは寒くて儚い冬の日か。


 溶けることのない氷菓子が、胸の奥に深く根付いた日。甘く心を溶かしてくれるような日々が、ただの一言で終わりを迎えてしまった日。


 今日も思い出す。淡い、石竹を模した君の横顔を。



『別れよっか』




※ ※ ※ ※



「なんでまた思い出してんだろ……僕」


 教室の真ん中で談笑するクラスメイトたちを見ながら、涼は窓際の壁にもたれかかる。隅の方でひとり、亜麻色の髪をした少女のことを目で追っていた。


 自分がいなくても、彼女は笑っていられる。今もああして、友人と笑い合えているのだ。不満などでは決してない。ただ、願わくは。


 ――僕が笑顔にさせてあげたかった。


「りょうちゃん、りょうちゃんっ」


「ん? おー……すごい格好だね、結衣」


 座り込む涼の眼前に現れたのは、なにやら得意げな様子の結衣。胸を張る彼女は、真っ黒い衣装に身を包んでいるようだった。

 これは文化祭の出し物『異世界即興劇』で着る衣装なのだろう。確かクラスメイトの誰かの家が、舞台衣装屋だったはず。結衣だけしか衣装を着ていないところを見るに、今日は確認か何かでその衣装だけを持ってきたのかもしれない。


「どうかな? 黒い服なんて初めて着たから、ちょっと恥ずかしい」


「似合ってると思うよ。魔王だっけ? 結衣が悪役をやるのは、少し意外だけど」


「わたしもよく分からないんだけど、春奈ちゃんに勧められたからなってみたの。案外、悪役も悪くない、かな……?」


 ドレスのスカートをひらりとさせ、結衣は「うが~っ!」と猫が威嚇するときのようなポーズをする。なんとなく、猫ひろしみたいだ。


「りょうちゃんは村人だよねっ。頑張ってね!」


「うん、僕らしくて無難だよ」


「きっと、すごい役なんだよね? キラキラって感じのっ!」


「あまり応援されるような役柄じゃないよ。だから、そんな待望の眼差しで見られても困るんだよなぁ……」


「大丈夫。りょうちゃんなら一昨日みたいに、みんなから褒められまくりだよ」


「ははは……それはそれで嫌だな」


 思わず苦笑い。


 クラスメイトから称賛された日から二日が経った。しかし褒められたと言っても、やっぱりその瞬間だけで、すぐにいつものような〝ひとりぼっち〟の影井涼に戻ってしまった。


 それに、褒められるのが久しぶりすぎてもう懲り懲りといった感じ。こうやって隅の方で傍観していた方が、自分の性分に合っている気がする。


 涼は満面の笑みの結衣を見据えて、肩を竦めてみせた。それが結衣を安心させたのか、彼女は「えへへ」と照れた表情を浮かべて友人の元へ帰っていく。

 毎度のことながら結衣の笑いのツボがわからない。自分の顔に何かついているのだろうか、と涼は彼女の背中を一心に見つめた。ただそれでも、


 ――昔から、あの笑顔だけは変わらないな。


「その笑顔、守りたい」


「く、来栖くるすさん……!?」


 音もなく、気づいたら隣に座っていた。彼女はぼっち仲間の来栖杏樹くるすあんじゅだ。


 艶やかな黒髪から華やかな香りが漂ってくる。その髪を耳に掛けると、杏樹は気品あふれる態度で口を開いた。


「あなたの心の声。違ったかしら?」


「間違ってる、とも言い切れないのがなんか悔しい」


「私の勝ちね」


「一体なんの勝負をしてたの?」


 鼻で笑うようにして、杏樹は手に持っていた文庫本に視線を移す。そのままペラッとページを一枚めくると、


「影井君。人の心ってどうすれば理解できると思う?」


「え……聞き出さない限りその人の本心は解らないと思うよ。僕はね」


「ダメな男の典型ね。それじゃあ友達が出来ないのも当然よ」


「なんでいきなり毒づかれたんだろう。来栖さんの心はどうあっても理解できそうにないよ」


 彼女に友人が出来ないのも、この性格が原因の一つだ。

 話しかけられても無視を決め込むのが普通で、口を開けば侮辱の嵐。告白されたことも何回かあるらしいが、すべて『そこら辺にたかるハエ如きが私に話しかけないでくれる?』で断ったのだと言う。


 そんな人を寄せ付けない杏樹だが、なぜ彼女に話しかけられているのかは涼自身いまだに分っていない。


 友達ができなくて、彼女も少し寂しかったのだろうか。


「寂しくないわ」


「読まれた!?」


「その、他人に同情するような目つき、あなたらしくて何とも滑稽ね」


「そっか、そんな目してたんだ。気をつけないといけないのかな」


「人によっては偽善ととられる場合もあるけれど、私は好きよ。影井君の他者を思いやる目。少し鳥肌もの」


「最後のいる? 不覚にもドキッとした僕が馬鹿だったみたいだ」


 くすくすと笑う杏樹を見て、またもやドキッとしてしまう。不意に見せる笑顔は魅力的で、昔の千聖を見ているようで何だか懐かしい。

 だから放っておけないのかもしれない。固く閉ざされたその真情に、深く踏み込んでしまいたくなる。そんなのは絶対にいけない事なのに、寄り添ってしまう自分は馬鹿だと思った。


「……他人なんて言ったけど、私は影井君のことは友達だと思ってる」


「あ……うん、僕もそう思ってるよ。まさか、来栖さんから言われるとは思いもしなかったけど」


「言っとかないと、影井君の性格上ずっと他人のままにされるでしょう」


「そんなことないよ。いや、あるのかな。言われるまで、来栖さんには嫌われてると思ってたから……」


 なんだかんだ一緒に居ることが多い涼達だが、杏樹の人を侮る態度が治まった試しはない。兆しもない。それが蓄積されていけば、嫌われていると錯覚してしまっても仕方なかった。


「そうね……あなたみたいなタイプの人間は、むしろ好きな方よ。一緒にいて楽でもあるし、常に新しい自分を知れるもの」


「貶し言葉のレパートリーがどんどん増えていってるからね。その点で言えば、毎日生まれ変わってるよね、来栖さんって」


「そういう意味じゃないんだけど……まぁ、いいわ。私が嫌いなのは……ああいう人間」


 文庫本から視線を外し、杏樹が見据えたのは教室の奥――廊下側の陽キャグループがたむろしている場所だ。

 涼たちとは明らかにタイプの異なる人種。対極に位置し、クラスの中心となるのはいつだって彼らだった。そこに不平を持っているわけではないが、杏樹が嫌厭してしまうのも解らなくはない。


「中身のない薄っぺらい生き方で、先のことなんて少しも考えない。今が楽しければそれでいいって、あの害虫どもは全員思ってる」


「害虫は言いすぎだよ」


「軽薄なのよ。行動の一つ一つに、重みが感じられない。きっと、彼らは後悔するわ。たらればばかり呟いて、砂浜に打ち上げられた魚みたいにゆっくりと息絶えていくのよ。苦しみながらね」


「それは魚が可哀想だよ。海に帰してあげよ」


「ざまぁないわね。悔やむなら、それまで何もしてこなかった自分を恨みなさい」


「どうしたの? いつもの来栖さんじゃないみたいだよ」


 背筋が凍るほどの冷然とした瞳で、杏樹は陽キャたちを見下した。

 彼らは決して悪くない。一般的な高校生なら今を楽しむのは普通だし、第一この学校はかなり偏差値が高い。彼らも将来を見据えて勉学に勤しんだのだろう。


 未だ授業について行けず、花生はないけ高校にまぐれで合格した涼とは違う。もう、天と地の差。雲泥の差。月とすっぽん。歳の差カップル。


 ――だから、どうか許してください。うちの杏樹が大変な不敬を働いて申し訳ございませんでした。


「ねーねー。それって俺のこと?」


 涼の胸中の叫びは当然ながら届かず、チャラい見た目の少年が軽い口調で問いかけてきた。彼は反対向きにした椅子に座り、背もたれに手を置きながら小さく笑みを模る。


「み、宮本君……あの、彼女も悪気があって言ったわけじゃないんだ。そうだよね? 来栖さん……?」


「――チッ」


「舌打ち!? 反省の色なし……!?」


 クール美人な顔をしかめっ面にした杏樹は、目の前の秋鷹には一切の目もくれず、文庫本に視線を落として沈黙を貫いた。


「いいよ、気にしないよ。来栖さんがこういう子だってのは分かってる」


「なんか、僕が言うのもなんだけど……ごめん」


「ははっ、ほんとそうだよ。影井が謝るこたねーよ」


 秋鷹はけらけらと笑うと、何かを想起して表情を落ち着かせる。


「それで、一昨日は大丈夫だった? 勝手に帰って悪かったな」


「あーうん、結衣のお陰で何とかなったかな……だから、その場は丸く収まったんだけど……」


「けど?」


「結局まだ妹と喧嘩中です……」


 一昨日の夕飯時、救世主だと思っていた秋鷹が帰ったことで絶望した涼だが、憤ってしまった陽を諭してくれたのはやっぱり結衣だった。

 しかし現状、陽との関係は全くと言っていいほど改善していない。晩飯抜きの苦しみが再来し、涼の日常は絶望ループへと突入していた。


「喧嘩するほど仲がいいって言うしな。ま、ガンバ」


「喧嘩するほど仲が悪くなってるのはなんでだろ……でも、こればっかりは自分でなんとかしなきゃいけないよね」


「お、やる気はあるんだ」


「あってないようなもんだよ。ループから抜け出すのは不可能に近いから……」


「ループ……? またアニメの話?」


「あ、うん。こっちの話」

 

 不思議そうにする秋鷹に、涼は出そうになった言葉をあやうく呑み込む。

 幼心が抜け切れていない所為で、中二病気質なところがたまに痛い。このままアニメの話をするのもいいが、秋鷹にとっては受け入れがたい事柄だろう。

 

 陽キャにアニメを勧めれば仲良くなれる、というのは幻想だ。アニメなどでよくあるあれ――陽キャにアニメを勧めてみたら次の日「アニメって面白いな! 徹夜して観ちまったよ」なんてのは現実ではあり得ない。


 大体、秋鷹の見た目的にアニメを好むような感じは伝わってこない。どちらかといえば、四六時中、女遊びでどこかに出かけているような風貌。

 酷い偏見だが、涼からしたら彼らのような陽キャは雲の上の存在なのだ。口が滑っても、月曜深夜一時放送の『恋する魔法少女ときめきバタフライ』の話はしてはならない。


 すると、秋鷹の後ろから金髪ギャルが現れた。


「ういうい~、どっすか秋鷹。オークの進捗具合は」


「いや、他の役には衣装があるのに、なんでオークだけ手作りで作んなきゃなんねーんだよ」


「楽しいっしょ? 作れなかったら、自分の身体を緑に塗ればいいじゃん!」


「あー? それただの変態の露出狂じゃねーか」


「秋鷹なら大丈夫っしょ。この筋肉、そんじょそこらの露出狂じゃ比にならないべ? ほれほれ~」


「つんつんすんな。おいやめろっ――」


 ――はぁ、これだから陽キャは。


 クラスメイトの目がある中で、平然とイチャついてみせる。

 もしかして付き合っているのではないか、と思わせるくらいの距離感で、彼らはイチャこらと密着し合っていた。でもこれで、普通なのだろう。

 

 涼だったら秒で鼻血を噴いて倒れる自信があるし、なんなら出血多量で死んでみせるというのに。


「隙ありっ――」


 金髪ギャルの春奈が突如、秋鷹の座っていた椅子に無理やり座り込んだ。短いスカートに隠された臀部を押しつけ、秋鷹と尻相撲をしている。

 

 椅子取りゲームですらそこまで白熱しない。どっちかが席を譲ればいいのに、腕を組んでお互いを押し合っている。いや、それじゃあ離れられないではないか。しかもパンツ見えそう。


「あのなぁ……実行委員のお前がふざけてどうすんだよ」


「いいのいいの。まだ一週間以上あるし、放課後残れば一瞬じゃん?」


「俺は残らないよ?」


「えー……残ろうよー、明日とかさ」


「明日って……実は切羽詰まってたりする?」


「うーん、思いのほか大道具とか作んの大変でさ、時間かかりそうかも? 異世界とか全然分かんないし!」


「分かんないし! じゃねーよ。お前が決めた出し物だろ……」


「お願い! 手伝って秋鷹ー!」


 打ち合わせをするなら、向こうでやってくれませんかね。


 眼前で繰り広げられる応酬に、涼は気まずい表情で溜息をつく。隣を見てみれば、杏樹が煩わしそうに文庫本を睨みつけていた。多分、本の内容に影響されたのだろう。どんなに陽キャを毛嫌いしていようとも、それなりに節度のある子だ。彼女は。

 すると――。


「うっ……なんだ、急に悪寒が……」


 キャッキャッとじゃれ合う彼らの背後、そのもっと奥、廊下側の方面にいる千聖がこちらを凝視していた。


「えっ……」


 彼女はツインテールを逆立たせ、顔を真っ赤にさせながら憤激していた。

 








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