第30話 みっくしゅじゅーちゅ

 ――早朝。鳥のさえずりが聞こえる。


「疲れた……」


 秋鷹あきたかはリビングの扉を開け、ポツリと呟いてから疲れを滲ませた。昨晩のことで気が滅入っている訳ではないが、それが関係ないと言えば嘘になる。


 ベッド上での運動が少しばかりハードだったため、正気に戻った千聖ちさとにお叱りを受けてしまった。彼女もノリノリだったはずなのだが、すごい剣幕で激昂され今この状態――雑巾片手に後処理、要するに昨晩の事後処理を任されたというワケだ。


 とはいえ、リビングですら秋鷹のアパートと比べ物にならないくらいの広さ。泣いちゃうね、格が違いすぎて。

 ただ、そんな豪勢な家に〝ほぼ一人〟で住んでいるとなると、こちらも気を遣ってしまうというか何というか。さぞや独りでは寂しかったことだろう。


「ち~さっとっ――!」


「きゃっ、秋鷹……?」


 流し台に雑巾を置き、秋鷹はキッチンに居た千聖に背後から抱き着く。彼女はエプロン姿で料理をしていたようだが、


「なに作ってんの?」


「お味噌汁……。秋鷹も、朝ご飯食べるでしょ……?」


「作ってくれんの? やった、嬉しいな」


 千聖の頭に顎を乗せ、IHヒーターで温められている味噌汁を愉しげに見下ろす秋鷹。抱きしめている腕にもギュッと力を込めて、千聖を温めてみる。

 すると、彼女は身を捩りながらも秋鷹の抱擁を受け入れ、耳の先を赤色に染めた。


「掃除してくれたのに、なにもしないのってなんか悪いじゃん……?」


「千聖にやれって言われたんだけどな」


「そ、それは……だって、あんたがぁ……」


 今度は顔から首筋にかけて全身を真っ赤に染める千聖。昨晩のことを思い出し、純真な乙女心を搔き乱しているのだろう。


「もっかいする?」


「ぁ、やっ……」


 エプロンの下に手を入れ、千聖の下腹部を軽くプッシュする。

 今日は平日で学校もあることだし、秋鷹達は互いに制服姿だ。ブレザーこそ脱いではいるが、ワイシャツの上からでも肌の感触は伝わってくる。さわさわと焦らすように、たおやかな彼女の身体を指先でなぞっていった。


「まだ時間あるし、一回くらいならできそうじゃない?」


「だ、だめっ……料理中だから……」


「料理終わったら、いいってこと?」


「そ、そういうことじゃないってばっ……! んっ……」


 膝をすり合わせる千聖は、おたまを置いて秋鷹の手を掴んだ。その弱々しい抵抗は当然ながら秋鷹には通用せず、


「千聖……」


「――んんぅッ!」


 カプリ、と秋鷹は彼女の耳にかぶりついた。鬱陶しいツインテールを手で避けて、耳たぶをハミハミしていく。

 そしてゆっくりと、指先を豊満な胸へと這わせた。しかし千聖は、そこで反射的に――。


「っ、だめ――ッ!!」


「わっ…………」


「…………ぁ」


 胸板を強く押され、秋鷹は思わず後退した。

 どうやらまた怒らせてしまったようだ。こちらに向いた彼女の顔を見れば、秋鷹でなくとも誰だってわかる憤然具合だった。目の端に涙を溜め、プルプルとエプロンの端を握り締めている。


「ごめん……少し調子に乗っちゃたかな、俺。朝ご飯出来るまであっちで待ってるよ」


「ち、ちがっ……これは……」


「鍋、ひっくり返さないようにね」


 流石にやりすぎた、と秋鷹はリビングへ向かい、正面の液晶テレビを見ながらソファに座った。黒くて大きい液晶画面に、制服姿の秋鷹が映っている。

 

 それはそうと、朝ご飯とは一体なにを作っているのだろうか。味噌汁と合わさるものだから、きっと和食系だ。

 秋鷹は生まれてこの方、和食一筋で生きてきたと言っても過言ではない。だから朝ご飯が和食となればもちろん嬉しいし、その上千聖の料理を食すことができるのであれば、更に心躍るというものだ。


 この前のしょっぱい卵焼きはあれど、千聖の料理の腕前は確かだ。

 期待と食欲を膨らませ、秋鷹は腹の虫を「きゅるるぅ~」と可愛らしく鳴かせるが――。


「――あ、秋鷹っ」


「ん、どうした?」


 顎に手を添え、黙考していたところを千聖に邪魔された。彼女は座り込んでいる秋鷹に対し、何やら強張った表情で佇んでいる。

 くまさん柄のエプロンが装着されたままだが、今それはいい。なぜ彼女が秋鷹の目の前にやってきたのかを考えねばならない。もしや、気が変わって朝ご飯を作る気が無くなったとか――。


「ごめんなさい……」


「え、なんで謝るの」


 突然、千聖が秋鷹の胸に飛び込んできた。膝の上に跨るようにして、ポスンっと頭をくっつけてくる。


 彼女の身体は震えていた。俯いていて表情を見ることは出来ないが、秋鷹は彼女の気持ちが汲み取れないほど薄情でもない。なにか察して、彼女の背中をさする。


「ほんとにどうした? 気分悪い?」


「…………ならないで」


「……ん?」


「……嫌いにならないでっ」


 顔を上げ、泣きそうになりながらも見つめてくる千聖。彼女は秋鷹の胸に手を置くと、掠れた声で、


「秋鷹に嫌われたくない……あたし、秋鷹に嫌われたら、もう……」


「嫌いになんてならないよ? さっきのことで勘違いさせちゃったなら、俺の方こそごめんね?」


「やっ、違うの……秋鷹は悪くなんかないっ」


 再び俯いてしまった千聖。

 先程の秋鷹の態度がそうさせてしまったのだろうか。だとしたら、そんな表情や態度をしてしまった自分に落ち度がある。

 もっと言えば秋鷹は、彼女が弱い人間なのだと理解していたはず。それなのに悲しませるような態度を取り、今こうして彼女の葛藤に手を差し伸べてやれていない。


 それは好意を受け取る以前に、男としてやってはならないことだった。それに、千聖は笑っていた方が断然可愛いのだ。そんな泣き顔なんて見たくない。


 秋鷹は彼女の頬に手を添えて、


「こっち見て」


「――――っ」


「悩んでるなら言ってごらんよ? 言ってくれなきゃ、わかんないよ」


 零れそうになる涙を目元から拭い、瞳が見えやすくなるように千聖の前髪を避けた。そうして彼女と目を合わせながら、


「それとも、俺じゃあ頼りにならない?」


「ううんっ、ううん……」


 千聖は懸命に首を振った。


「わからないの、あたし……」


 ぎゅっと秋鷹のワイシャツを握り、鮮やかな朱い唇を震わす。


「どうしたらいいのか、わからない」


「……うん」


「秋鷹のこと考えると胸がジュクジュクして、前まではそんなことなかったのに……いつのまにか苦しくなってて」


「……うん、続けて」


「っ……考えれば考えるほどわからなくなって。でもね、なんでか秋鷹を思うと温かくなるの……ここが……」


 千聖は自分の胸に手を置くと、何かに浸るように固まった。そして、頬を少しだけ紅潮させる。


「これってやっぱり、そうなんだよね……? 涼が好きだったはずなのに……あたし、秋鷹のことばっかで……」


 この関係性、こんな間柄になってしまったのであれば、少なからずそういった思いは心のどこかに存在していたはずだ。

 それは彼女自身も、無自覚に理解していた。だから、認めたくないがために逃げて、これまでずっと何でもない振りをし続けてきたのだ。十年来の想い――幼馴染の彼への想いを、否定することになるから。


 けれどもう、彼女にとってここが潮時なのかもしれない。もはやその想いは見て見ぬふりなぞ出来ない。

 膨らんでいく想いは鮮明で、天秤に乗せれば彼女の心に迷いを見出させるほど、大きくて。選択を決めあぐねてしまうまでには、秋鷹のことを想ってくれていた。


 それならば、秋鷹のやることは決まっている。最後の一押し、彼女の背中を押してあげるだけでいいのだ。


「どうしたらいいの……? ねぇ、秋鷹……」


「なんだ、そんなことか……」


「……へ?」


「なら、俺しか考えられないようにさせてやる」


「――ひゃぅ」


 柔らかに、千聖を抱き寄せた。その華奢な身体を包み込んで、耳元で囁く。


「好きだよ千聖」


「ぁ、あぅ……」


 秋鷹が千聖に好意を寄せているという彼女の勘違い、それを利用する形になってしまうが、下手に彼女を惑わせるのも秋鷹的にはナンセンスだ。

 ここで『実は千聖のことが好きではない』と明言して、無駄な荒波を立てればどうなるか。最終的に彼女の想いは変わらないのかもしれないが、色々と面倒な上に美しくない。


 それに、こっちの方が面白そうだ。これまでのつまらない人生とはまた違って、これから先の日常を楽しめるような気がする。



「不甲斐無いヤツだけど……俺と、付き合ってくれないかな?」



「ぁ……あたし……」



 〝付き合う〟こと自体に苦い思い出はあるが、そこまで嫌っているというわけではない。そんな秋鷹の、初めての告白だった。

 一世一代と言えばちょっとだけ真剣身に欠けるし、それに伴った熱情的な気持ちもない。けれど千聖には、響いてしまったのだろう。


「…………っ」


 抱きしめられている千聖は、秋鷹の胸の中で小さく頷いた。



※ ※ ※ ※



「で、デートとかって、したりするのかな……?」


 大テーブルを挟んだ正面――お茶碗片手にチラチラとこちらを見てくる千聖。彼女は釣り目がちな瞳を若干垂れさせ、おちょぼ口で声を裏返させていた。


「デート……いっぱいしよっか?」


「あ、あぅ、えぁ……」


「取り敢えず普通にしろよ。それじゃあ変人だよ」


 噴火寸前なのか、ぷしゅぅっと煙が出そうなほど千聖の顔は紅一色。秋鷹は味噌汁をすすって、


「でも、そうだな……夏休みは過ぎちゃったから……ああ、クリスマスなんかは一緒に過ごせるといいな? クリスマスデート、楽しそうじゃない?」


「気早すぎ……」


「そうかな? 正月も一緒に年越せるといいなって思ってるんだけど」


「だ、だから、気早いって……そのまま行ったら、け、け、けっ……結婚とかになるでしょ……」


「千聖の方が気早くない? いや、むしろ先見据えすぎだよ。結婚したいの?」


「――ばっ!? ばっかじゃないの!? それには段階って言うものがあるのっ! 恋人になって、デートを重ねて……ど、同棲してぇ……それからぁぁ……」


「自滅してどうすんだよ」


 よからぬイメージを膨らませてしまい、千聖は縮こまるようにして口籠った。


「同棲はまだ先だとしても、千聖の家には沢山遊びに行きたいな」


「そ、それって……えっちなことしたいからじゃ……」


「まぁ、それもあるけど」


「や、やっぱりっ! さっきからあたしの身体ばっか見てると思ったら、そういう理由だったのねっ……!」


「え、マジ? そんな見てた?」


 無意識だろうか。自分では見ていたつもりはないのだが、どうやら男としての情欲的何かが湧き上がってしまっていたらしい。

 千聖のパイ乙を視界に収めてしまえば無理もないのだけれど、この欲望は今は仕舞っておこう。鞘に納めるのは後にしておこう。


 コホンッと一つ咳ばらいをして、秋鷹は気を取り直し、


「それもあるけど……もっと、千聖と一緒にいたいからだよ」


「……ほんと? それ」


「うん、信じられない?」


「し、信じるわよ……だって、あんたはあたしの……か、か……しなんだもん」


「ごにょごにょ言ってて全然聞こえない」


「うるさいわねっ! 早く食べなさいよっ、冷めちゃうから!」


「……へいへい」


 照れ隠しが度を越えて、訳が分からなくなっている千聖。


 というか、そんなに見られると食べづらいのだが。そう思いつつも、秋鷹は湯気が立っている黄金色の卵焼きを口に入れた。


「……美味しい」


 自然と笑顔になれるような、そんな味。千聖に視線を向けてみれば、彼女の表情も喜色に満ちているようだった。

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