第29話 敵は本能寺にあり
「――――」
頭をゴシゴシされる秋鷹。
そこまで濡れていない髪が、千聖によって拭かれている。そして玄関の段差が彼女の背をちょっとだけ伸ばし、目線の高さを秋鷹と同じにさせていた。
されるがままになっていると、彼女の背後――廊下からオレンジ色の光が秋鷹の目元を掠めてくる。
先刻まで薄暗い夜道にいたからか、急な明るさの影響で視界はぼやけ気味だ。仕方なく、鮮明に映り込んでくる彼女の胸にピントを合わせてみる。が、
「――っ! 自分で拭きなさいよこのウスラトンカチッ!!」
「なんで――!?」
千聖自らが打って出た行動だというのに、彼女はあろうことか秋鷹にタオルを投げつけた。
何を照れているというのか。腕を組んで背中を向けてしまった彼女へ、秋鷹はタオルを握り締めながら、
「それ俺の服じゃないか? 新品の服それしかないんだから、借りパクされると困るんだが」
「か、借りパクじゃない!」
「じゃあなに? 返そうと思ってたら間違えて着ちゃったとか?」
「そっ、それは……っ」
千聖は背中を向けたまま、
ぶかぶかの丈のため、千聖の部屋着っぽいショートパンツがいいように隠されてしまい、彼Tの下から晒されるのは肉感のある太ももだけだった。
借りパクされた灰色のハーフパンツの行方が気になるところだが、
「タイミング悪いのよぉ、もぅ……っ――」
独りごちる千聖が、鼻を鳴らして振り向く。彼女は秋鷹の体をじーっと見ると、
「それよりっ! なんであんたがあたしの家知ってるワケ!? 変態なの?」
「ん、影井の家で晩飯食べてたんだよ。そしたら雨が降ってきたからさ?」
「涼の家に……!? それもそれで意味わかんないんだけど……」
何故か彼Tの話から秋鷹が変態だということに。
まぁそれはいいのだが、そろそろ家に上がらせてはもらえないだろうか。玄関で立ち話ってのもな――と秋鷹は千聖を見やるが、
「ううん、関係ないわ。あんたがここで何していようとあたしには関係ない……知ったこっちゃないのよ!」
「聞かなくていいの? 気になんない?」
「べつにっ、興味ないし」
「千聖の話で盛り上がったって言っても?」
「んなっ……」
千聖は秋鷹の手元にあったタオルを奪い取ると、
「興味ないって言ってるでしょ!!」
「え――!?」
秋鷹の顔をタオルで往復ビンタ。べしべしと白い残像が頬を打ちつけ、秋鷹はわけもわからず直立不動だ。
「早く帰りなさいよっ! 制服もあんまし濡れてないし、ここに居る理由もないでしょ!?」
「お、い、や、めっ、ろ――」
「傘ならあたしのを貸してあげるわよ! だから消えてっ、あたしの前から消えてよっ!」
「おい千聖……」
「――っ!? それともなに、あたしと一緒に居たいからとか言うんじゃないでしょうね!? 黙りなさいよこの薄ノロ頓智気野郎っ!!」
「何も言ってないだろ千聖っ――」
「…………ぁ」
ガシッと千聖の手首を掴み、弱々しく振るわれていた手を止める。小刻みに震える千聖を真っ直ぐ見つめ、それから秋鷹は口を開いた。
「傘、ないよ」
「え……?」
「傘がない。俺はびしょ濡れで帰りたくないな」
その言葉にふと、千聖が見据えた先は玄関の端にある傘立て。そこには一本も、影も形も、傘の痕跡すらない。
誰かが持ち去ったのか、あるいは元から傘なんてなかったのか。ただ単に、千聖が学校に傘を置いてきてしまっただけなのかもしれない。
だが、秋鷹を引き留めるための口実としては充分な程に役立った。彼女にはその気がなくとも、やってきた偶然が正しい道筋なのだと告げている。
「なんで、無いの……」
千聖は瞳を揺らしながら、ぎゅっと唇を結んだ。
※ ※ ※ ※
二階――とあるドアを静かに開けた秋鷹は、開けた先に見えた光景に目を見張る。
一階の内装からしてどことなく裕福な家庭だとは考えていたが、どうやらこの推理は正解だったみたいだ。
千聖の部屋は秋鷹のアパートの部屋より幾分か広く、女の子一人が使用するには少々大きすぎる。
全体的に白を基調としたもので装飾され、閉められたカーテン、床に敷かれたカーペット、小さな四角いテーブルに、奥に見えるのはテレビ台の上に置かれた液晶テレビだ。その大きさはそこまでではない。
が、秋鷹はテーブルに置いてあったリモコンを手に取る。そしてポチリとボタンを押した。
『――ではお次の出演者さんは……なんと! 今をときめくトップアイドル、【コットンラブリー】の皆さんで~す!!』
『は~い! 早速ですが、私から自己紹介しちゃいますっ! ――砂糖菓子は甘さの秘訣、溶けるのはあなたのハートっ。ずっきゅんっ、狙い打たれた君の心は私色だよ? はい、コットンラブリーみんなのカワイイ担当、サクラ・カントリー・キャッスルで――』
音楽番組のスペシャルか何かだろうか。テレビを消し、秋鷹はそっとテーブルにリモコンを置いた。
しかし――。
「ちょっ、なに勝手に入って来てんのよ!? 玄関で待っててって言ったよね!?」
それまで部屋に入ってきた秋鷹には気づかずに、隅の方で枕に顔を埋めていた千聖。彼女はうつ伏せで足をパタつかせていたかと思いきや、いきなり叫び声を上げた。
その勢いで真っ白なベッドから起き上がると、腰かけた状態で口をパクパクさせる。
「いやー、独りだと寂しいじゃん?」
「それで『はい、そうですか』とはいかないでしょーが!! ここは女の子の部屋なのっ! 不法侵入って解ってる?」
「襲わないから安心してよ」
「安心出来るわけないでしょ!?」
できるわけないわな、と秋鷹は自分で言っておいて納得したように頷く。というか、もう既に一回、襲ってしまっているではないか。
どう取り繕おうと彼女には不節操な男として見られてしまう。実際、文字通り不節操な行為を働こうとしているのだが。
「大体、朝挨拶してあげたじゃない。それくらいで満足しなさいよ」
「え、どういうこと? 多分だけどそれくらいじゃ満足しないよ」
「あ、あんたねぇ……」
恨めしい顔で睨んでくる千聖は、ツヤツヤ光る赤縁メガネをくいっと上げる。
「いくらあたしのことが好きだからって限度があるでしょ……」
「…………は?」
「あたしは、あんたの好意は受け取れない……だから、ねぇ……惑わさないでよ、迷わせないでよ……」
「え、ああ……」
なんだ、そういうことか。と秋鷹の中で何かが腑に落ちた。今日の、朝の挨拶は彼女なりに秋鷹を抑制しようとした結果の行動。
つまり千聖は、秋鷹が自分に好意を寄せていると勘違いしているために、少しでもの情けで秋鷹に近づいたのだ。
きっと、想い人に無視されることが可哀想などと思ったのだろう。かつ声さえ掛けておけば、秋鷹は満足してこの前みたく襲ってこない、そう考えたのだ。
なにせ、心が満たされる程の千聖なりの精一杯を与えた。これ以上なにかを望むとは、強欲以外の何ものでもない。
けれどそれは千聖にとっての主観。秋鷹にしてみれば、彼女の行動は欲深さを増幅させるだけの阿保らしい行動であった。
いや、そもそも体を許してしまった間柄なのだ。千聖とてそれを理解していないわけではない。
彼女は迷っている。今も。間違ってしまったのかと、悩んでいる。本当はそんな建前なんか全部捨て去って、誰かに助けてもらいたいと願っているくせに。
――ただ現実を受け入れられなくて、逃げているだけなのだ。
「それなら、一緒にいるだけでいい。傍に居させてくれないか?」
「なに、言ってんの……」
「前もそうだったよな。雨が止むまで……なんなら、あと数時間で俺は帰るから。一緒に居ちゃ、だめか?」
「…………」
千聖は何も言わない。
仮に秋鷹が千聖を好いているのであれば、彼女はとんだ悪女だ。肌を重ねておきながら素知らぬ振りをして、秋鷹の問いかけにはただひたすら口を閉ざして、答えてくれなくて。
無自覚のまま男心を弄ぶ。そんな千聖を尻目に、秋鷹は壁際にある本棚に向かった。
「たくさんあるな……これ全部買ったのか? 相当金かかっただろ」
秋鷹の身長ほどある本棚。
そこにはぎっしりと本が詰まっており、読むのであれば一日二日では不可能な本数だが。
「……千聖?」
「――ぁ、な、なに……?」
固まっていた千聖が、動揺しながらも表情を作り始めていた。
「本たくさんあるし、テレビもあるしで羨ましいなって」
「あー……テレビは物心ついた頃にはあったんだ。ほらうち、お金持ちっぽいでしょ? 昔は色んなもの買ってくれてたんだと思う」
「今は?」
「今は……まったく。本は自分でバイトして買ったものよ。この三週間の間はお休みさせてもらってたけど」
「へぇ」
秋鷹はこちらの様子を窺ってくる千聖から目を逸らし、本棚に手をつける。
「別に、あんたのために休んでたとかじゃないんだからね……?」
「んなこたわかってるよ。あ、これかな――」
「違う。あんたが探してるのって、あたしが前に教えたやつでしょ? それはそっち」
「ああ、これね」
後方から人差し指だけで伝えてくる千聖の指示通り、秋鷹は目的の代物へと手を伸ばした。本を取り、ぺらっぺらっとページをめくっていく。
「あんたそれ、ちゃんと読めてんの?」
「もっとゆっくり読んだ方がよかった?」
「読めてるんならいいけど、適当に読んでるようにしか見えない」
「だよな。ご指摘通りしっかり読むよ」
最初の一ページに戻し、一文字一文字を記憶に叩き込むかのように読み進める。
本棚の隣の壁にもたれかかって、秋鷹はページをめくると共に正面のベッドに腰かけている千聖へ、
「恋愛要素すごいなこれ。それとエロい」
「そこが魅力なんだけど……合わない?」
「面白いよ。まぁ、いまどきベッドの下にエロ本隠す奴はいないと思うがな」
「……え」
「そうなの?」みたいな顔で呆ける千聖。何か思い当たるふしがあるらしく、釈然としない面持ちで首を傾げていた。
「ないとは思うが、まさか俺の家でエロ本探したりした?」
「ま、まさか……」
「押入れ開けたりした?」
「し、してないわよ……!」
「そっか、なら心配ないな」
これは見たな、と秋鷹は自分の家の押入れを思い起こす。
確か、当時そこまで仲良くなかったクラスメイト――田中が、友好の証に貸してくれた『痴漢モノ』のエロ本が押入れの奥深くに収納されていたはず。
間違っても貰い受けたものではなく、貸してもらったもの。しかも彼が相当大事にしていたものだ。
失くすなぞあってはならないことなのだが、千聖が訪問した日を皮切りにエロ本は姿を消した。
「どこいったんだろうな、あれ」
「なんのこと……?」
「なんでもない」
「……それはそうと、どこまで読んだの?」
「ん、三分の一くらい……? キスシーンの挿絵があるところ」
「もうそこまで読んだんだ。いいわよね、そこ。なんかロマンチックって感じで」
すると、千聖は「ああっ」と言って何かを想起する。
「それね、最初のページにカラーバージョンのがあるんだよ」
「へー……どこ? わかりづらいな……」
「んもうっ、なんでこんな時だけ不器用キャラ?」
千聖はベッドから腰を上げ、膝立ちになって秋鷹の目の前に向かった。そして上から覗くようにして、秋鷹の手元にある本のページをめくる。
「これこれ。素敵じゃない?」
「なんか女の子の方、千聖みたいだな。性格も棘っぽいし、頭から二つも尻尾ぶら下げてる」
「癪に障る言い方するわね、ツインテールよ……でも、似てるのも確かだと思う。素直になれないとことか、特に」
千聖は一泊置いて、
「結局はこの絵みたいに素直になれて、笑顔になれちゃうんだけどね……似てるだけで、あたしとは全然違う」
「そう? じゃあ、本当はこんな風に手繋いで、キスしてみたかったり?」
「うん……こうなりたかった、かも。ぎこちなくてもいいから、物が言えないくらい恥ずかしがっちゃっててもいいから、ありのままの自分でいられたらなって……あたしはっ――んむっ!?」
ぐいっと腕が引き寄せられ、千聖の唇は塞がれる。
それは勿論、正面にいた秋鷹の唇が合わさったから。柔らかい唇同士を押しつけ、しかしいつかの時みたく激しくはならない。
ただ合わさっているだけの、誰もが経験するような幼気な口づけ。それでも伝わってくる甘さは尋常ではなくて。
「ん……」
腕を引き寄せられたことで、千聖の身体は秋鷹に預けられてしまっていた。先程まで読んでいた本はいつの間にか床に置かれていて、邪魔立てする者もいない。
そして千聖の華奢な体が秋鷹に抱きしめられる。それは優しく包み込むような、添えられているだけのふんわりとした抱擁。
「んぁ……」
それ故に顔が離れる動作だけで、自ずと抱擁は解けてしまう。
千聖は予備動作なく行われた不測の事態であっても、その影響なのか、反射的に声を上げたり反抗したりなどはしなかった。
――未だに、迷い続けているのだ。
「あたし……なんで、違うのにっ……あたしは涼が好きで、涼が、涼が好きなはずなのに……」
「……千聖」
「…………っ」
ズレた眼鏡を外してあげて、秋鷹は千聖の瞳を真摯に見つめた。
「俺の気持ちは変わらないよ。君が誰かを好きでいても、ずっと」
嗚呼、やっぱりこうなるのかと、秋鷹は少しだけ後悔。でも今の言葉は偽りじゃない。
千聖が他の誰かに好意を向けていたとしても、秋鷹の行動原理は変わらない。最終的に、自分のところにきてくれればいいのだから。
「……ばか」
か細い声音と同時、秋鷹は彼女の体を押し倒した。
※ ※ ※ ※
「なんであんなに怒ってたんだろ……」
涼は自分の妹――陽が何故あんなにも、あの場で怒りを煮えたぎらせていたか理解ならない。
もしかしたら涼が、千聖のことで思わぬ失言をしてしまったからか。どうにも、そこのところは幾ら考えてもわからない。
陽が昔から千聖に懐いていたのは知っている。だから何をするにも千聖の真似をしようとするし、千聖のことで何かあればその時だけは感情を爆発させていた。
それ自体は構わないのだが、もっと兄を慕ってくれてもいいのではないだろうか。涼は込み上げてくる疎外感を身に感じながらも、
「まぁ、僕を好きになれるわけないよね」
想い人を傷つけてばかりの涼では、人に好かれようとしたとしても無駄。
きっと陽もそれを解っている。好きな女の子に対し男の子が意地悪をする、といった行動としてはもう遅い。
それは幼い子供だから許される行動であって、心身共に大人に近づきつつある涼がしたとしても関係を悪化させるだけなのだ。
「恋愛って難しいな……」
果てに涼は、気がつけば好きになってしまっていた千聖を思い馳せる。
恋愛に打ちひしがれている時に、「大丈夫だよ」と彼女は手を差し伸べてくれた。そんなヘタレな涼を、率先して引っ張ってくれていた。
彼女が他の誰かを好きでいても、きっとこの想いは変わらない。彼女にもらったものは、ちょっとやそっとのことじゃ掻き消えないほどに積み重なっているから。
涼は自室の扉を閉めると、想い人のいる場所へと目を向けた。
「千聖、なにしてるかな……」
窓の外に見えるのは、隣の家の窓。白いカーテンの垂らされたそれが、部屋の明かりによって控えめに光り輝いている。
その明かりは、しばらくすると独りでに消えた。かつては気にもしていなかった、手の届きそうなところにある彼女の部屋。
届きそうなのに、距離が離れているように思えて仕方がない。涼は張り裂けるような胸の痛みを堪え、そのままベッドにダイブした。
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