第22話 君が教えてくれる

 母親がいないということを知ったのはいつだったか。周りとの違いを意識し始めた頃、といえば小学校に上がった頃かもしれない。


 千聖ちさとは引っ込み思案だったために周囲の人間とのコミュニケーションが上手くできなかった。当然だが友達も出来なかったし、一日の中で人と会話しなかったことなんてざらにある。

 毎日がつまらなくて、ロボットのように義務的行動に勤しんでいた日々。茫然と雲を眺めては意味もなく数えてみたり、周りの騒がしい雑音を拾っては投げやりに聞き流したり。ただ淡々と小学生にとっては小難しい授業を真正直に受け、背丈の合わない大きめな椅子に座りながら空気として扱われていた彼女の過去。


 学校に行けばそんな毎日だった。それは家に帰っても同じで、リビングに千聖の挨拶が響こうとも出迎えてくれる家族はいない。あったのは、テーブルの上に置かれた一週間分の食費――よれよれの和紙一枚だけだ。

 千聖が人付き合いを苦手とするのも、これが原因であったのだろう。親と最後に会話したのは何日前だったか。それすらもわからない。母親の顔は一度も見たことがなく、いつも一言二言、言葉を交わすのは酒臭いにおいを漂わせた父親なのか疑わしい男。

 

 ――空っぽだった。


 心を埋めてくれる感情の欠片がなくて、それを埋めてくれる温かさを千聖は知らなかった。ひとり虚無感を抱えるのが普通で、独り寂寥の渦の中じっと蹲るのが日常で、どこまでも終わりのない明日を迎えるのが自分の人生だと諦観していた。


 心苦しさを飛び越えて、千聖の精神はどろどろに溶けていく。溶けた先には何もない。価値のない生き方をして自分を殺し、そして何も成せずに死んでいくのだ。


 そうやってこの世の不条理に嘆き、我が身可哀想に悲観しているだけの憐れな少女とは違って、彼女の近くには底抜けの明るさで周りを照らす太陽みたいな人間がいた。


 彼らは影のような存在の千聖にだって声を掛けてくる。照らされたら消えてしまうのに、そこに遠慮なぞ必要ないとばかりに笑顔を模った。


「千聖も遊ぼうよ。きっと楽しいよ」


 眩しさで固められた表情は自ずと睫毛を伏せさせる。住んでいる世界が千聖とは大きく異なった。家は隣同士だというのに、悲しいな、悲しいかな。

 千聖がどれだけ手を伸ばそうと思っても、思っているだけでは決して救われない。彼らがどれだけ明るさを振り撒こうとも、千聖の心を照らしてくれるとは限らない。


「ちさちゃんも一緒に笑おう?」


 ――笑っていられる人生になれば幸せなんだろうな。彼らみたくそこはかとない、濁りのない日常を謳歌できれば楽しいんだろうな。


 友達と日が暮れるまで駄弁って、遊んで、泥だらけになりながらも笑顔を作っていられる。それでも千聖の意思は強情で、自分からはいつまで経っても一歩を踏み出すことはできなかった。


 その内向的な性格は歳を重ねて中学生になったところで、安易に変わってくれるものでもなかった。月日が流れれば心が浄化される、そんな迷信にも似た言葉にないものねだりをしたって意味がないのだから。


 そしてこの頃には千聖も、家庭の内情にはそれと無く理解を示していた。ただ、それが彼女の心情を揺さぶるに値するものだと言えば、そうとは言えない。

 母親の浮気がきっかけで、千聖が物心つく前に両親が離婚していたこと。それからというもの、父親は男で一つなんて立派そうな肩書を背負って千聖を育てていたこと。


 真っ先に湧いて出たのは、空虚な感情だった。生んでくれたことや育ててくれたこと、これらに感謝しようにもその根源である感情が湧いてこない。

 何も与えられてこなかった千聖は、感情の隙間を空っぽな何かで埋められてしまっていたのだ。かといって、人形のような感受性皆無な生き物に成り果てていたという訳ではない。


 千聖にだって不満を垂らす時くらいある。


 それはもう、退屈なんか通り越して学校に通うのは鬱屈で仕方がなかった。ろくにクラスメイトの顔なんて覚えてもいないのに、他人の顔色ばかり窺って千聖はビクビクする。

 他人にどう思われようと関係ないはずが、周囲の視線が千聖の恐怖心を煽って震え上がらせた。それ故に彼女の風貌は人を避けるような暗さ加減が板について、性格はと言えばまだまだ内気のままで変化も何もない。


 それだけならば、千聖は不満を抱くことなく平穏な日常を歩めていたのだろう。だって、今までと何ら変わりがないのだから。

 けれど人生はそう甘くはないのだと、独り離れた世界から傍観していた千聖は痛感することとなる。


 別の世界の人間が千聖の領土に攻め込んでくるといった、まるで彼女のすべてを奪い、破壊しに来るような侵略者が目の前に現れた。

 平たく言えば、その侵略者は千聖の日常をぐちゃぐちゃに崩壊させたのだ。これまで悪事を働いてきたわけでも、恨みを買うような蛮行を積み重ねてきたわけでもない。隅っこの方で独り寂しく、消しカスの山を作って机の上を掃き溜めにしていただけなのに、自分がゴミ箱に入れられるだけの不要物に成り下がるなんて思いもしなかった。


「キッモ。臭いんで散ってくれます? こいつ、風呂入ってんのかマジ怪しいんですけど~」


 女子トイレに響く嗤い声。水浸しにされた個室の向かい側で、数人の女子たちが愉しそうに嗤い合う。この声を聞いたのも、この仕打ちを受けたのも、果たして何度目か。千聖はびしょ濡れになったパサついた髪を掻き分け、泥で汚れている土色のセーラー服を延々と絞ることしかできない。


 ――それが日常に変わりつつあって。


「みてみて、海藻女が声出してるよ」


 カピカピに乾いた薄汚いセーラー服を揺らせば、周囲からはひそひそと千聖に向かって貶すような声。

 浴びせられる軽蔑じみた視線。机の落書き。ボロボロの教科書。千聖が授業中に音読を強いられたとして、それすらも侮蔑の色に染まる。


 ――それが耐えられなくて。

 

「うわぁ……あいつとは関わっちゃダメだよ。ゲぼかけられるよ。あははっ」


 とりとめのない人生を歩んでいたつもりが、さも自分の置かれている状況が悪に染まるにつれ精神が傷ついていく。

 投げかけられる言葉の暴力は悲惨で、身体にまで及ぶ彼女らの暴虐さは千聖を苦しめた。


 いじめ、と言うには少々過激。下駄箱に入れられた虫の死骸に、上履きに潜んだ画鋲がびょうらしき物体、粘着質な椅子には座ることすら叶わなくて、孤立なんて可愛らしい言葉では片づけられない絶望的な孤独感に苛まれる。だから、


 ――あたしは初めて泣いた。


 誰もいない家で夜通し泣くのが千聖の日課。助けてくれる者なぞいない。教師に話したところで本当に助けてくれるかどうか。

 千聖は自分が生徒からだけではなく、教師からも嫌厭され蔑まれていたことを知っている。受け答えが覚束ないまではよかったが、何も喋らないのではいつしかそれは不気味な者を見る目に変わっていく。

 もっと言えば、千聖に危害を与えてくる連中の陰湿さは教師なんかには決してバレないところまでいっていた。


 そこまでして千聖を苦しめる理由があったかと聞けば、きっと彼女らはこぞって首を横に振るのだろう。

 有り体に言えば思春期ならではのよくある事態でもあって、加害者の本人たちは成長していくにつれ自分たちの犯した罪を忘れていくのだ。中学の青春じみたひと時が淡い記憶の中で揺れ続けるように、高校生になって、大学生になって、社会人にもなって、その頃にはもう綺麗さっぱり日暮千聖という醜い少女の存在なんて忘却してしまう。


 ――そうして彼女らの記憶の踏み台にされていくのが堪らなく悔しかった。そうして、何も出来ずにただ泣いているだけの自分が何よりも憎たらしかった。


 それからは言わずもがな学校へ行くことには抵抗があって、欠席を繰り返した。とはいっても不登校というわけではなく、嫌々ながらも勇気を出して学校には登校しなければならなかったのだ。

 これは最後の砦、賭けでもあった。なんせ今の生活を抜け出すには学校に通うことが先決だと、当時の千聖は未成熟子ながらも真っ直ぐに前を見据えていたから。それにこれ以外の生き方を、誰からも教えられてこなかったから。


 小さな希望に、縋っていたのかもしれない。


 こんな彼女の考えを父親は一ミリも知らなかっただろうが、学費だけは千聖に手渡しでくれた。

 「早く出ていけ」だなんて言葉を添えて、未だに鼻につくアルコール臭を体中に纏わりつかせながら言う。一週間に一度、一言だけ交わす親子の会話だった。なんて、年端の行かぬ少女に投げつける言葉でもないだろうに。


 ――そんな毎日が、ずっと続くんだと思っていた。


 いや、〝続こうとしていた〟が正しい。変わっていく毎日に順応し、適応し、それが千聖にとっての普通になっていくんだと思っていたのに、またもや日常は変化する。


「なーめーろ! なーめーろ! なーめーろッ!」


 教室に、歪んだ笑みを浮かべる女子たちの手拍子が響き渡っていた。

 ハサミで切られた千聖の毛髪が、教室の床に無残にも散乱している。そして、短髪になった千聖の頭の上から、ゆっくりゆっくり、水に浸けられたばかりの雑巾が絞られた。

 びちゃびちゃに汚れていく床。その灰色に染まったタイルを、千聖は舐めようとしていた。舐めろと促されていた。自分の心が、やめてと叫んでいた。

 悔しさのあまり目尻に涙が溜まる。不埒で不潔な目の前の光景が手足を震えさせる。喉奥から、吐き気が込み上げてくる――。


「お゛ぇぉっ……おぇ、え゛ぉっ……げほっけほっ……」


 ぶちまけられた吐瀉物が酸っぱい匂いを運んでくると共に、千聖の視界いっぱいに米粒交じりの黄色い汚物を溢れさせた。

 

「きゃははっ! こいつまた吐きやがったぁ」

「うっわぁ……給食の残りカス汚な」

「無様ぁ……あとでちゃんと掃除しなよー? 日暮さーん」


 耳鳴りにも似た悪罵が至る所から飛んできて、救いようのない理不尽が千聖の精神を蝕み、再びやって来る耐えようのない嘔吐感が体の奥底を灼き尽くしていくような気がした。寂しいという感情がちっぽけに見えるほど大袈裟な、これまで通り自分は空虚な中にしか存在しないんだという疎外感に押し潰される感覚を。もしかしたらそこには一筋の希望があって、しかし何の取り柄もない醜い自分が本当に望みを持って良いのかという期待を抱くことと縋ることへの恥ずかしさを感じた。

 ならば、生きることそれ以上の価値を、自分はこの先見出せないのではないか。数多くの同じ年齢の少女たちがいる中で、自分一人だけが何もかも不自由な人生を歩んでいくのではないか。そういった千聖にとって何の意味も持たない無数の問いが、近くから聞こえた教室の扉が開く音よって、間違いだと否定される。



「何してんだお前ら! 僕の幼馴染が泣いてるじゃないか!!」



 怒気を孕んだ声音で、恥ずかしいことを言ってくれる。いつか、縋れる存在が現れてくれるのではないかと期待していた自分。

 その心の片隅に居座っていた消極的な思いが、颯爽と現れたヒーローみたいな少年――ずっと傍で見守ってくれていた幼馴染によって爆発させられた。



「気づけなくて、ごめん……大丈夫だから、僕が傍にいるから」



 それこそ、千聖は人生で初めて泣いたのであろう。


 抱きしめられる温かさ、肌のぬくもりを知った。撫でられることが、こんなに優しくて安らぎを覚えるものだとは思わなかった。掛けられた言葉が、千聖の暗闇を晴らしてくれているような、そんな気がした。


 ――この日から、あたしはいじめられなくなった。


 彼女が救われた日――泥水をすするような日々が少年の手によって終わりを迎える。彼はやっぱり、千聖とは違って学校では人気者だったから、いじめっ子を撃退するのは苦も無く容易で、千聖の事情なぞいとも簡単に解決へと導いてしまった。


 歯噛みして睨んでくるいじめっ子らが怖かったわけではない。平気でいられたのは、違うクラスの幼馴染たちが積極的に千聖へ関わりを持ちに来たからだろう。

 それもまたいじめっ子たちへの牽制のようなものでもあって、千聖が嫌な思いをすることは益々ますますなくなった。


 幼馴染の彼ら二人。周りからは夫婦だなんて揶揄われる程に仲が良くて、自分なんかが二人の間に割り込んでいいものか。と、千聖はキラキラと光り輝く彼らとは対照的な己の姿を見て、終始、場違いな自分に対し悩み続ける。


 そうしている内に、彼らと一緒に行動することが当たり前になっていた。

 クラスが違うのに休み時間ごとに駆けつけてくれるのが嬉しくて、放課後は家が隣同士だからって駄弁りながら三人で帰ったりと、そんな初めての経験が心より楽しかったのだろう。


 千聖は、もはやいじめられていた記憶なぞ心には留めていなかった。そこにあったのは変化、一人の少女がまっとうに生きようと変わっていく姿。

 彼女に芽生えたのは、哀しいとか虚しいとか先の見えない感情ではなく、それはきっと、思春期にありがちな誰もが知るであろう必然的な想いだったのだ。



「千聖の八重歯、無邪気で可愛いね」



 彼に惹かれ始めているのだと、その時自覚した。花のように咲き誇った千聖の笑顔が、幼気なゼラニウムを模して真っ赤に染まる。

 色々と、本当に色々と教えてもらった。千聖が知らなかった気持ちを、空っぽな引出しに詰め込んでくれた。仕舞い込めない感情の欠片が溢れて、彼と話すことすらままならない程に想いがこぼれだした。


 されど千聖には、その想いを曝け出すまでの勇気はない。彼の隣には自分よりも素敵な少女がいて、結ばれる相手が自分にはなりえないのだとハッキリと分かっていたから。

 だから陰ながら。陰ながら、彼を想い続ける。彼が好きだという漫画やアニメ、男の子が好むというゲームなんかにも手を出してみた。こっそりと溜めていたなけなしのお金を握り締めて、千聖はそうやって小さな想いを実感すると共につまらない妬みを発散した。

 

 ――気づけば趣味になりつつあったライトノベルは、漫画派の彼にはちょっとばかし合わなかったみたいだけれど。



 そんなある日、それは起こった。

 趣味に没頭し、想いを胸の内に沈め込んでいた千聖にとって理解ならない事態。



「りょうちゃん……! でてきてよ! 閉じ籠ってないで、何があったか教えてよ……! りょうちゃん……」



 傍に居た彼女ですら、彼が部屋に閉じ籠ってしまった理由はわからないらしい。きっと辛い何かがあったのだろう。同じような体験をしてきた千聖にはわかる。

 だからこそ、助けてやらなければならない。彼に救われ助けられた千聖が、次は助ける側に回って元気を分け与えてやるのだ。そのために必要なことはやはり、自分自身も明るく生まれ変わらなければならないということだった。


 ――大丈夫。できる。それくらい、あたしにだって。


 そうだ、そんなのはお茶の子さいさいだ。

 差し当たって己の性格を変えるという暴挙に出た千聖は、それでも先ずは見た目から変えてやろうと努力した。

 しらみでも湧いて来そうなボサボサの髪に、錆びついて見える汚らしい丸眼鏡。これらを一掃したら無駄な脂肪を燃焼させて、ニキビだらけだった顔をつるつるにする。本を買いまくってこれでもかと調べまくって、どうしたら自分も可愛くなれるのかと研究した。

 目標は幼馴染の少女。彼女が千聖の近くにいた者の中で一番かわいかったから、『打倒幼馴染』を掲げてもっと頑張れた。それ故に成果は追って出る。



「これが……あたし……」



 元々の顔が良かったこともさることながら、見違えるほどに千聖は変貌した。そのむっちりとした体形は決して太っているというわけではなく、男好きするような魅惑的――グラマラスなボディであって、中学生ながらも無駄に育った胸の塊はとてもではないが我儘だった。

 男子はこういう体が好きなのだろうかと思う反面、彼にどう思われるかが心配。でも、後悔はない。これから千聖は、変わるのだ、生まれ変わるのだ。そして、彼を助けてやるのだ。



「涼!! 起きなさい! 学校行かないとぶん殴るわよ!」



 少しばかり行き過ぎた言動をもって、千聖は幼馴染の少年を立ち直らせる。


 何があったかは知らないが、彼が立ち直ってくれるのならば千聖は性格を変えることすら厭わなかった。表面上を取り繕った偽物の自分でも、それは傍から見れば〝変わった〟とも同然。

 幼馴染の少女に負けている所が無いようにと自分を磨いて、彼女に勝てるまで努力を怠らなかった。


 ――どうかな? あたし、勝ててるかな?


 自分が天才ではないのなんてわかっていたし、寧ろ凡人以下なのだから人一倍頑張らなければいけないのもわかっていた。

 そうして努力した結果を、幼馴染の彼に褒めてもらいたかった。彼の為に変わったんだ。明るい性格とは程遠いが、独りでも怖いなんてことはない。

 もはや周囲の視線を気にして怯えていたあの頃の少女の姿はなく、この時の千聖は誰から見ても自信に満ち溢れているように見えたことだろう。


 生まれ変わった姿で『閉じ籠っていた少年』を強引に引っ張り出して、その瞬間千聖の日常は新たなスタートを切ったのだ。

 

 けれど結局は、千聖自身なにも変わっていなかった。これまでの自分を隠すように、彼女は脆くてちっぽけな内面を虚勢を張ることでカモフラージュしていた。

 彼女の横暴さ、そして高慢な態度での物言いは気に障ったであろう。それ故に幾ら千聖が努力しようとも、幼馴染の彼が振り向いてくれることはなかった。


 ――そう、今までずっと。


 閉じ籠っていた彼を連れ出して、立ち直れない彼を励まして。朝が弱いと言うからわざわざ起こしてあげたり、彼の為に料理を勉強したりもした。

 勉強と言えば受験の手伝いもしてあげて、奇跡的に普通は受からないような頭のいい高校にも入学できた。日に日に想いが膨れ上がってくる中、それは生殺し感覚の日常で――彼が元気になったからと言って胸の痛みが消えることはなかった。


 ――ずっと、報われない。


 もし千聖が最初からこんな性格だったのならば、彼は少しでも自分を気にかけてくれていただろうか。もっと素直であれば、あるいは慎重に物事を進められる程の器用さがあれば、また違っていたのかもしれない。

 壁にぶつかってばっかの千聖ではなく、行き詰まることのない実直で積極的な千聖。そうすれば告白だって成功していたかもしれないし、失敗したからと言って悩むことはなかったはずだ。


 けれど、そんな夢物語を思い描いたって過去は変わらない。千聖はあるはずだった未来を夢想しながら疲れを滲ませる。

 もう、充分頑張っただろう。もう、やれるだけやっただろう。もう、彼が振り向いてくれないことくらい解っていただろうに。


 これまでの苦労を吐き捨てるように、千聖は成就しない恋愛について思い馳せた。諦めを前面に押し出し、これからのことを考える。

 新しい、他の誰かとの未来。それは千聖がもっとも想像していなかったあり得るわけがない未来。でも、目の前にあるそれが、彼女の心を大きく揺さぶったのも事実だった。




 ――もう、頑張らなくていいよね。




※ ※ ※ ※




「……諦めて、いいかな?」


 隣で心地よさそうに眠っている少年に問いかけても、返ってくるのは和やかに流れてくる寝息だけ。浅い呼吸を繰り返す彼を他所に、窓から入ってくる太陽の光は千聖の瞳を細めさせる。


 肩にかかったタオルケット。ひんやりと冷たい布団のシーツ。絡まった互いの脚と、聞こえる心臓の鼓動。千聖は上下する彼の胸板を見て、そっとなぞるように指先を触れた。


 この体に抱きしめられた記憶が脳裏にびっしりと刻み込まれている。すべてを曝け出し、快楽に溺れて自分が自分じゃいられなくなった先刻の夜のこと。

 乱れ、甘い言葉すら囁き合った。触れられ、体の隅々まで知ってもらった。優しさに包み込まれたその時間が、過去も現在も何もかもを溶かしてくれたような気がした。


 千聖の過去を知って、彼はどう思ったのだろうか。勢いで口走ってしまったけれど、決して慰めて欲しかったわけではない。

 頑張ったねと、褒めてもらいたかったのだ。彼ならわかってくれるから。想い人には届かなかった千聖の気持ち、それを汲み取って自分のことのように考えてくれる。


 だから教えて欲しい。自分は、これからどうやって生きていけばいいのか。悩んで、悩んで、悩み抜いても、千聖には答えすら導き出せなかった。


 選択を間違えてしまったのか。今あるこの状況は間違いなのだろうか。きっと千聖では、何時まで経っても決められない。



 ――ねぇ。



「秋鷹……」



 ――あたしはどうすればいいの?



 彼の胸元に顔を埋めて、千聖は頼らないと言ったはずなのにそれを破ってまで助けを求める。反応を示さない彼の腕を枕代わりにしながら、答えを待ち続けた。

 

 刻々と過ぎていく時間。胸の痛みが叫び声を上げる中、下腹部に残る微かな痛みが教えてくれる。


 もう、戻れないのだと。そして、千聖自身戻りたくないと思っていることも。




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