第21話 溺れる

 玄関の扉を開け、真っ先に目に入ってきたのは髪を降ろした美少女だ。その髪は腰まで伸びており、古びたペンダントライトの淡い光に照らされ、艶やかな髪筋を際限なく輝かせていた。

 そして灰色のハーフパンツに、髑髏どくろ柄のTシャツ。彼女は秋鷹が先日購入した部屋着を着ている。ダボッとして丈は合っていないが、豊満なそれが都合よく働いているようで、意外にもピッタリとマッチしていた。


 言わずもがな日暮千聖ひぐらしちさとだ。

 ともすれば、彼女のチャームポイントであるツインテールが幾らか名残惜しい。かといって今の恰好に髪型、それを変えて欲しいわけではないが。


 そうしていると――。


「ジロジロ見てんじゃないわよ。八倒はったおされたいの?」


「望むところだ。って言いたいけど、命の危険がありそうだからやめとくよ」


「八倒していい?」


「一回拒否したのにダメなの? 確定なの?」


「あんたの体中を舐めまわすような視線……耐えられそうにないわ……うぷっ」


「そこまで!? ……でもまぁ、元気になったみたいでよかった」


「元気、じゃないわよ……」


 認めたくないのか、千聖はキッチンの前で唇を尖らせて俯いた。秋鷹はそんな彼女の横を通って六畳間の畳を踏む。

 シャカシャカとレジ袋を鳴らし、壁に立てかけられた丸テーブルの近くに袋を置くと、千聖の方を見て、


「風呂は入ったのか?」


「おかげさまで……宮本くんが帰ってくるの遅いから、シャンプーとかも使わせてもらったし、乾燥機も惜しみなく……」


「そんなに遅かった?」


「うん。あたし、大家さんと話し込んじゃったんだけど、それでも宮本くんは帰ってこなかったのよね……うーん、一時間くらいかなぁ」


「あー……ていうか、大家さんと話したのか」


「無断で乾燥機使うのも憚られるでしょ? それで断りを入れにいったら、お話が長引いちゃって……」


 秋鷹がいつもお世話になっている大家さん。御年七十歳の還暦を越えたおばあちゃんだ。人がいい彼女はアパートの住人全員から好かれていると言っても過言ではない。

 

 そのため秋鷹も、千聖が話し込んでしまったという事態には得心がいく。大家のばっちゃんのトークスキルは年相応とは言えなく、どちらかといえば若者よりのハッちゃけたものなのである。


「長引いた割には……それ。凄いな、ピッカピカだ」


 秋鷹が指差したキッチンは食器類が綺麗に片づけられ、汚れていたのが嘘かのように磨き上げられていた。それを僅かな時間でやり遂げてしまったのなら、感服ものだが。


「これは……迷惑いっぱいかけてるし、少しでもあたしにできることがあればって思って……」


「迷惑だなんて思ってないよ?」


「で、でも、あたし……宮本くんに酷いこと言っちゃった……怒ってないの……?」


 と言われても、秋鷹には微塵も憤りを覚えた記憶なぞ無かった。それはおおらかな性格の秋鷹だからこそ、とも言えるわけだが、千聖の言動一つ一つが意固地なのだと理解していれば大して気にはならないからだ。


 とはいえ本人は気にしているみたいなので、秋鷹は心当たりがある記憶を引っ張り出して、


「うん……嫌いって言われたのは思いの外、心にきたな……」


「ぁ……そ、そんなつもりじゃなかったの……その時はあたし、どうかしてて……もっと、他に言うべきことが……」


「嫌いより、もっと?」


「ち、違くて……!」


 反射的に首を振る千聖。それに対し困り顔を作る秋鷹は、しかし楽し気に彼女の挙動をじっと見る。


 秋鷹にしたらあの時の罵倒は可愛いものだった。突然だったために驚きはしたが、千聖の情緒が乱れていたのは一目瞭然だった訳だし。


「宮本くんに頼ってばっかじゃ、ダメなの……」


「頼っていいって言ったじゃん?」


「ダメ……そしたら頼り切りになっちゃう。それじゃあ絶対、あたしは前に進めない」


「……そうかな?」


 価値観や感性というのは人それぞれ。秋鷹と千聖の意見が一致しないのもあり得る話だが、一致しないからと言ってどちらかが間違いだなんてことはない。

 それ故に強く否定できない秋鷹。を演出し、そのまま彼女の続く言葉に耳を傾ける。


「それに、この関係も明日で終わり。後はあたし一人で頑張るから、宮本くんとはもうお別れ……」


「なんか、俺達がカップルだった、みたいな言い草だね?」


「馬鹿言ってないでよ。わかってるでしょ……体育祭が終わったら話さなくなるのくらい」


「俺は話したいんだけどなー」


「あたしは話さない……また、あんたがちょっかい出してきて、また、手助けしてきそうだから……」


 ピカピカの流し台に手をついて、千聖は伏し目がちに呟いた。何やら、秋鷹に並々ならぬ恩を感じているらしい。

 半ば呆れた態度で吐息した秋鷹は、儚げな彼女のもとへと向かう。そして隣り合わせになるよう突っ立つと、


「あのさ、俺……日暮が思うほど助けてもないし、日暮を助けられた覚えもないよ?」


「あんたにとっては、ね……」


「というより、俺の方が助けられてる気がする」


「意味わかんない。あたしがいつ、あんたを助けたって言うのよ。虚言? 虚言壁でもあんの?」


 眉を寄せて、ギロッとした目でこちらを睨んでくる千聖に、秋鷹はたじろぐことはしない。軽い口調で微笑むようにして、


「俺の為じゃないにしろ、弁当くれただろ。晩飯を作らなくてよくて、めちゃくちゃ助かった。それとこれ。流しを綺麗にしてくれた」


 秋鷹はトンっと流し台に手を添える。が、千聖の表情は不満足げだった。


「……それだけ?」


「そう、それだけ。でも、これも日暮にとっては、だろ?」


「あたしがしたのは、単なるお礼で……」


「その単なるお礼で助けられたんだよ。だから、これで貸し借りなしにしないか? お互いに助け合ったってことで」


「どうして、そこまであたしに……」


 無防備な背中を向け、千聖は声を震わせながら沈黙する。

 秋鷹がここまで構ってくる理由を、彼女なりに模索しているのだろう。そこに意味なんてないのに、どこまでも真正直なやつだ。


「どうしてだろうな? こういう理由だったりして――」


「なっ、ちょ……! なにしてんの宮本くん……!?」


 千聖を背後から抱きしめて、秋鷹はギュッと力を込める。彼女の鎖骨あたりに腕を当て、首回りを抱擁するように。


「……ありがとうのハグ」


「い、いらないっ。理由になってないっ。離し、なさいよ……」


 秋鷹の腕を華奢な手で掴む千聖だが、抵抗虚しくその腕を引き剥がせない。

 いや、秋鷹の頑なさに揺るがない意思を感じ取って、これ以上の抵抗は無意味だと悟ったのだろう。


 抗う力を無くして、ことを穏便に済ませようとする千聖の態度は、どこか弱々しかった。

 

「ねぇ、離してよ……今なら許してあげるから。全部なかったことにして、忘れてあげるから……」


「全部なかったこと……出来るわけないだろ」


「なんでよ……あたしたち、そういう関係じゃないでしょ……?」


「そういう関係? 恋人同士じゃないといけないの? ただのハグだよ」


「だったら、もうやめよ? ほら、宮本くん……」


 強引に振りほどこうとしないで、千聖は敢えて宥めるように秋鷹の腕をポンポンと叩く。


「ごめん、無理……」


「無理って……ハグだけじゃ……」


「俺、日暮のこともっと知りたいんだ。この先も知っていきたい。今よりも、深いところまで」


 紛うことなく本心だ。


 以前までの――昔の秋鷹なら、好意を向けられていない相手には興味すら抱かなかった。知りたいと思えるのは、矢張り真情を明らかにしてくれた相手だけだったのだ。


 しかし今、秋鷹は自ら相手を知ろうとしている。それは、千聖の想いが届かなかったことに起因するのかもしれない。

 これだけ真っ直ぐに好意を向けているのに、その相手である涼は、一向に彼女の想いに気づきやしない。それがどれだけ、彼女を傷つけ悲しませたか。


 他にも同じような相手がいるのなら、秋鷹は涼に対しての怒りを沸々と煮えたぎらせてしまう。知ろうとしないことは、酷く不誠実で、阿保らしいことなのだから。


 そんな彼の代わりに、秋鷹は自身が千聖の想いを受け取ってやろうと思った。ほんの少し、欠片ほどではあるが。


 ――幸い、内面を知るすべは熟知している。

 

「千聖……君を知りたい」


「……へ?」

 

 小刻みに震える千聖を抱きすくめ、耳元で囁いてやった。衣服越しではあるが、肌と肌を重なり合わせれば感じられる。

 戸惑いも、憂いも、この状況を呑み込めていない彼女の真情も。秋鷹を強引に引き離せないのは、それらの感情がひしめき合っているからとも言える。

 

 反応からして初めての異性の部屋。更にはその異性に抱きしめられているのだ。勢いで秋鷹の家に訪れてしまったと言えど、対処の仕方がわからないのも当然だった。そこが千聖の悪い癖であって、可愛らしい部分でもある。


 ただ、千聖が無垢だからといって、秋鷹の決意が変わる訳ではない。遅かれ早かれ、結局はここに帰結していたはずだ。

 故に秋鷹は、手順を入れ替えて千聖の内面に踏み込むと決めた。今までの――布石を打ち、待つだけであった秋鷹ではない。


 先走って、好意を向けられる前に行動してしまったと言えよう。なればとことん、欲望に忠実にならなければならない。

 好意を向けられた先の、秋鷹が相手を知るためにしていた行為。肌を重ね合い、互いを求め合う探究を軸とした行為。逆説的に言っても、今までとなんら変わらない。つまるところ、秋鷹がやろうとしていることは昔と同じなのだ。


 けれどこれじゃあ、


「――――っ!」


 ――俺が一番、クズではないか。

 

 人差し指と中指を千聖の顎に添え、親指を頬に軽く押しつける。そのまま彼女の顔をぐいっとこちらに向けると、秋鷹は流れるように顔を近づけた。



※ ※ ※ ※



「んむっ……」


 ――ファーストキスを奪われた。


 この事実を認識できたのは、果たして数秒後か、数十秒後か。


 自分の唇に当てられた彼の唇。想い人である幼馴染のものではなくて、何でもない、最近仲を深めつつあった男の子のもの。


「んっ……」


 空白で埋められた千聖の脳裏は、これでもかと真っ白に塗りつぶされる。

 じわじわと瞼の裏が熱を帯びて、意識が朦朧としていく。


 ――わからない。自分が何をされているのか。自分が、何をしているのか。


「ぷはっ……」


 唇が離されたことで呼吸を思い出し、視界が鮮明になった。そしてそこにあったのは、真っ直ぐと千聖を見つめる秋鷹の瞳だ。


 鼻先が触れ合い、彼の息遣いが色濃く感じられる。


 一歩間違えればまた、唇が重なってしまうのではないか。そう思ってしまうほどに、この状況は自然だった。


「いやっ――」


 ハッとして、千聖は押しのける形で抵抗を試みるが、嫌だと言っている割にはとても軟弱で、非力な抗いだ。


 左手で秋鷹の肩を丹念に押し、身じろぐように体をひねる。しかし咄嗟の判断だった為に、千聖の膝はガクッと体勢を崩した。


 ――はずだった。


「……ぁ」


 半身が逸れ、トイレ側の壁に危なげなくもたれかかる千聖。腰には秋鷹の手が回されており、顔のすぐ真横にもまた、彼の手が壁を突くように置かれていた。


 簡単なことだ。転びそうになったところを、秋鷹の手によって助けられたのだ。原因は秋鷹だというのに、千聖は一瞬の間その思考を止めてしまう。

 

 ――僅かな油断だった。


 これは何もかも、秋鷹が仕組んだ戯事であって。きっと最後には、冗談だと笑い飛ばしてくれる。そう信じていた。

 もしくはちょっとした出来心、何かの間違いであって。誠心誠意、秋鷹から謝ってくれるのではないか。そう信じたい。


 キスされたことは許せないが、言ってくれるだけでいいのだ。一言、全部嘘だったのだと。

 この現実を、否定してくれるだけでいい。今この時、少しの間だけでも納得できるような理由、それを千聖に提示してくれればいいのだ。


 なのに、彼は――。


「は、むっ……んっ、ぁ……」


 真実を。現実を。

 千聖の体に叩き込むかのように、否応なく唇を重ねてきた。重なられた唇はもてあそばれ、秋鷹にいいようにされる。

 

「んん、ふぅ……んっ!? むっ……!」


 下唇を吸われ、上唇をなぶられ。見悶えするも意味がない。キスをされる度、徐々に自分の力が抜けていくのがわかる。

 ムードもへったくれもない。ただただ強引にキスされているだけなのに。千聖の思考は甘やかに溶かされ、馬鹿みたいに鈍らされた。


「んぁ、はむっ……んっ、んむっ……」


 せめてもの抵抗で、秋鷹の服をこれでもかと掴む。両手で皺ができるくらい思い切り。そして、彼の胸板に両こぶしを突きつけてやった。

 けれどビクともしない。千聖のか弱い反抗程度で、彼の大柄な体をどうこうしようなんて、初めから無理があったのだ。


 ――どうして、こんな……。


 それ故にわからなくなる。何故、秋鷹はこうも千聖を愛撫し続けるのか。彼なら、千聖のような柔弱な少女を組み伏せるなんて容易なはずだ。

 少しばかり手荒に、襲ってしまえばいい。それができるというのに、彼は千聖を求めるように唇をついばむだけで。


「んっ、ぁむっ……ぁっ、んぁっ……」

 

 後頭部が壁にくっつき、後ろに逃げようとも逃げ場がない。 

 顔を逸らせば、彼の唇が追いかけてきて。再び、千聖の自由は奪われる。


 ――こんな不節操な行為を、いつまで続けるのだろうか。


 わからない。彼が何をしたいのか、何をしようとしているのか。けれどそれらを差し置いても、今の状況を受け入れてしまっている自分自身が、一番理解できなかった。


「んぁ、んっ……は、んっ……ぁ、ぷはっ……?」

 

 秋鷹の唇が離れていくと同時、千聖は湿っぽい息を吐いて項垂れた。


 息を止めていた所為で呼吸が儘ならない。整えて、状況を整理しようとするが、熱っぽい頭がクラクラしだしてそれどころではない。

 きっと今、自分の顔はゆでだこのように朱く染まりあがっているのだろう。彼の行いを問いたださなければならないのに、ぼうっと秋鷹のことを見つめてしまう。


「ごめん……乱暴にしちゃって。今度は、優しくするから……」


 言いながら、秋鷹はそっと手を伸ばしてきた。


 不思議にもその表情は千聖と変わらなく、彼には似つかわしくない初心うぶさを醸し出している。

 それが可笑しくも意外で――だからだろうか。千聖は頬に触れてくる彼の掌を振り払うことができなかった。


 されるがままに頬辺を撫でられてしまい、邪魔な毛髪は耳にかけられる。触れられた場所には彼の体温がじかに伝わってきて、気づけばまた、 


「――ん……」


 柔らかな口づけを施されていた。


 ちゅっちゅっ、と甘く優しいキス。繰り返し繰り返し、千聖の精神を陶然とさせていく。

 先とは打って変わって、しっかりと彼の感情が沁み込んでくる。冷静になれば、それは安易に理解できるものだった。


 腑に落ちて、わだかまりが解ける。

 

 ――ああ、そうか。


 思えば秋鷹は言っていたではないか。冗談めかして口にしてはいたが、『千聖のことが好き』なのだと。


 もしも彼の言葉が冗談ではなくて、照れ隠しを交えた本心だったのなら――彼の言動すべてに納得がいく。あるいは、そう納得したいのかもしれなかった。


「はぷっ……んぁっ……んんっ……」


 言葉通りなら、秋鷹は千聖に三週間ほど恋をしている。たった三週間とも言えるが、時間なぞ関係ない。れっきとした恋なのだ。


 それが秋鷹ではない他の男子なら、千聖は軽くあしらってその想いを遠ざけていただろう。 

 それこそ告白されたことは何回もある。でも、みんな千聖の顔と体だけで判断して、内面を知ろうとしてくれなかった。知ろうともしなかった。そもそも、千聖は涼が好きな訳だし、彼らの告白を断るのは当然と言えば当然なのかもしれない。


 けれども秋鷹は別だ。彼は千聖に想い人がいるということを知ったうえで、密かに好意を向けてくれていた。

 かつ、全部ではないが千聖の性格も理解していた筈だ。そんな秋鷹だからこそ、心を揺れ動かされてしまう。痛くて苦しくて、千聖にはどうしようもない抉られるような気持ち。


 ――すると。

 その隙を狙ってか、秋鷹が突然、


「あっ、んんんッ――! んっ、へろっ……ぁうあっ……」


 千聖の口内に侵入してきたのは舌だ。


 絡みつくように粘っこい肉同士が接触し、漏れ出るなでやかな吐息が混ざり合う。それは口腔内を甘い香りで満たし始めて、千聖の意識を漠然と蕩けさせると共に、秋鷹の存在が間近にあるという驚きと羞恥をはっきりと刻み込んできた。


「んッ、ぁ……へあっ、れろっ……ンッ」


 溢れる唾液が唇を濡らし、滑らかに深い接吻を加速させる。そして、千聖は不可解な自分の感情に微かだが狼狽した。

 

 込み上げてくる情動は何か。認めたくないのに、それは快感ともとれる悦び。この行為を気持ちいいと思ってしまっている自分がいる。

 いけない事なのに、体は正直だ。脱力していく千聖の心身は、火傷しそうなくらい火照っていった。


「やっ、ンッ、んぷっぅ……んんぁっ……は、ぁ……っ!」


 舌の次は口腔を探られるようにイジメられる。


 千聖の歯並びを確かめる秋鷹の肉片。歯の隙間をなぞり這っていくと、宝物を見つけた子供とばかりに千聖の八重歯を舐めた。 


 瞬間、千聖は痺れるような感覚に陥った。秋鷹の、想いの籠った言葉を思い出して。


――俺は日暮のことが好きだ。


――日暮の笑顔を考えない日はないよ。


――日暮のことをもっと知りたいんだ。



 想いが届かない辛さは、痛いほどわかる。千聖なら尚更、それがわかってしまうのだ。

 秋鷹が自分を想ってくれている、それはつまり、千聖と同じように彼も悲痛を胸に秘めていた。そうに違いない。


 想い人の恋路に手を貸すなんて、相当辛い思いをしただろうに。 


 それをずっと隠していたのだ。


 千聖に好きな人がいるから。自分の想いが届かないのだと、哀しくも理解してしまったから――。


「はぷっ……んあっ、んっ、へろっ……は、ん……」


 これは同情とか罪悪でもない。


 助けてくれた秋鷹への、ささやかなご褒美。千聖ができうる限りの、心ばかりの恩返し。


 ――そうだ、悪い事なんてない。


 秋鷹の望みは叶うのだし、千聖が感じる虚しさもこの時間ときだけは紛れる。理にかなっているではないか。

 

 別に、千聖は涼と付き合ってるワケではないのだ。

 一方的な片想いであって、罪の意識を覚える必要はない。後ろめたい気持ちになる方が、おかしいのだ。


 だから今だけ、今だけだ。


 自分に言い聞かせるように、滲み出るやり場のない感情を秋鷹に向ける。さすれば、肩の荷が下りたような解放感が千聖に降り掛かってきた。


「んっ……ちゅっ、ふぁ……んぅぁ……あッ……」


 身を委ねて、度し難い充足感を堪能する。


 唾液が跳ねる音。独りでに奏でてしまう嬌声。リードするように、舌を絡めとってくる彼の熱い舌先。

 息が苦しくて、きゅうっと胸が締め付けられて、でも、離れたくないというチグハグな思いが千聖の睫毛まつげを伏せさせた。


「あぅ……へあっ、んっ……んちゅっ、んんっ、は、ぅ……」


 ――最低だな、と思う。


 我ながら愚かしい。秋鷹の好意は受け取らないで、自分だけが気持ちよくなろうとしている。


 寄る辺ない気持ちを彼にぶつけて、ただただ温もりを求める自分。彼を心の拠り所にしようとも、涼が好きな事だけは変わらなくて。


「はむっ、ちゅぱっ……んっ、むちゅっ……んぁ、はっ、れろっ……?」


 舌を吸われている。


 そんな考えをよそに、秋鷹の舌が千聖の口内から抜き出された。ゆっくりと、透明な唾液の橋が互いの唇を繋ぐ。

 だが茫然としていた所為か、千聖は気づけない。自身の舌先が、物足りなそうに突き出ていたことを。


 すると秋鷹は、千聖の頭を優しく撫でた。

 それをぼんやりと瞳で捉えていた千聖は、馬鹿になった思考のままだ。


 それでも彼は、待ってくれず――。


「千聖……俺、もう我慢できない……」


 名前を呼ばれ。意図のつかめない言葉が頭を巡り。シャワーを浴びたというのに、体中が汗ばんでくる。いや、既に千聖の全身は汗だくだ。


 返事ができない。何か答えなければならないと躍起になっても、適切な回答が浮かばなくて。


 ――けれど、これが答えなのだろう。


「んっ……」


 すっと近づいてくる秋鷹の唇を拒絶することなく、千聖は唇を差し出すことによって受け入れた。


 何も考えられない。考えたくない。


 淡紅色に染められた千聖の思考は、もはや溺れ切っていたのかもしれない。陶酔するように浸って、満たされていく胸の内に悦びを感じ得たのだった。


 

 

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