第19話 できっこないをやらなくちゃ
「……
――桜色の便箋を携えている少年。
眼中にないとでも言うように、彼の真横を
昇降口を出て、無情にも冷酷さを知らしめてくるのは雨だ。逃げてきた千聖に冷ややかな視線を向け、罰するように重たい雫を降らせている。
「あぁ……」
負けないと言ったのに、自分から敗北を選んでしまった。逃げたということは、勝負を放棄したとも同然だ。
――逃げて、どうなる。
きっとその先は、望みのない行き止まりだ。千聖が追い求めたゴールではなく、絶念がはびこる奈落の底なのだろう。
だから引き返さなければ。そう思い立っても、濡れた制服が鉛のような重しをかけ、全身を撫ぜる冷たい雨が千聖の感情を押し殺していった。
「うぅ……」
けれどこの一点だけ。
タガが外れたかのように千聖の情動が咽び泣く。それはもはや、心身までもを侵す胸臆の嘆きだった。
「……うぐっ…………あたし……っ、あだし……」
泣いてなんかいない。
堪えて、堪えないと。今日まで耐えて来たのに、泣きそうになっても抑えてきたのに。こんなちんけで、何でもないことで泣くなんて、認めない。認めてなるものか。
――止まれ、止まれ、止まれ。
唇を噛み締め、天を仰ぐ。降りしきる雨で泪を隠し、顔全体に溢れて伝う水滴は混同していった。
これなら上手く隠せている。たとえ誰かに見られたとしても、泣いているなんてわからないはず――。
「泣いてんの?」
「――――ぁ」
雨空がビニール傘で覆われた。
傘を打ちつける大量の雨が猛烈に音を響かせ、しかし千聖の目尻からは
顎を下げ、地面を見据えた。傘で雨は防がれているが、足元で飛沫を上げる水の粒。それは千聖のふくらはぎを汚すように飛び跳ねている。
「泣いて、ない……」
誰に対しての返答か。
千聖は傘を持った少年とは反対を向き、びしょ濡れになった自身の体を抱きしめる。
「目にゴミが入った?」
「入って、ない……」
「誤魔化さないの?」
「誤魔化せない……」
オウム返しの要領で否定し続ける千聖は、すぐ背後にいる少年へ投げやりな態度をとった。言葉にはなんの意思も込められておらず、空っぽで心無い。
それを見かねてか、少年は千聖の正面へと回る。と、男性にしては細長く綺麗な指先を千聖の頬に当て、
「止まらないな……壊れた下水管みたいだ……」
「……例えが汚い」
「なら、普通に泣いてる」
「……ひねりが無い」
「手厳しいな」
くすりと唇を綻ばせた少年――
当然、掬い取れてはいない。指の関節を伝って泪が零れ落ち、ハッキリ言って無駄な行いであった。
ハンカチでなければティッシュでもない。拭い去る事なんてできやしないのに、彼は休む間もなく指を働かせながら、
「何があった……?」
こんな雨の中、一人立ち尽くしていた千聖への純粋な疑問だろう。疑問を抱かない方が無理があるのだ。
奇行的で、いかにも由々しい雰囲気。故意に作り出した状況ではないけれど、千聖は自分が「助けてくれ」と言っているような状態であったことに少しの戸惑いを見せて、
「失敗した……」
言えたのはこれだけだった。
そしてゆっくりと、至近にあった秋鷹の手を握って下へ降ろす。依然、泪はとどまるところを知らない。が、無用な気遣いをいつまでもさせる千聖でもなかった。
「届かなかった……」
次に言えたのは、悔恨の情を込めた言葉。絞りかすのような声で、しっかりと秋鷹に聞こえていたかどうか。
かといって、言い直すことはしなかった。何せ降り募る雨に負けじと、千聖はぽつぽつと言葉を降らせていったから。
「逃げたの……臆病者なの、あたしは……」
思い返して、またも千聖の心は水浸しになる。しゃくり上げそうになるのを懸命に堪え、それでも平静でいようと乱れる言葉を整えた。
先刻の話に嗚咽を混ぜながら、秋鷹へ千聖の失敗談を語る。その度に悲愴の嵐が千聖を襲い、耐え忍びながら言葉を紡いで。
言い終えた直後、それまで酷く神妙な面持ちで口を噤んでいた秋鷹が、
「ごめん……俺が、告白の練習しようなんて言ったから……」
「違うの……宮本くんは悪くない……」
首を振り、握っていた彼の掌をもっと強く握り、千聖はか細い声音で、
「最後まで付き合わせたのはあたし。それに練習しなきゃ、告白は出来なかったと思う……届かなかったけど、無駄じゃなかった……」
ぽろぽろと熱い何かが頬を濡らした。と共に、
「言えないあたしが悪いの……言えばいいのに諦めて、伝わらないからって逃げてきちゃったんだもん……笑っちゃうわよね。自信と、態度だけはいっちょ前なんだから……」
「……言えないことの何が悪い?」
「…………ぇ」
千聖の掌はギュッと握り返される。
そして秋鷹のもう片方の手は、傘の
「俺は知ってるよ、
「……あまり賛同したくはないけど、それくらい恥ずかしいかもしれない」
「だったらいいじゃんか。迷って葛藤しても、責める奴なんて誰もいない」
「そんなの……」
わからない。寧ろ千聖が、自分自身を責めているではないか。そうである限り、やはり千聖の考えることは正しいのだ。
ただの腰抜け。高圧的に振舞えど根っこは怯弱。二の足が踏めない千聖は、あの日からちっとも変わっていない。
「でも俺は、日暮には最後まで諦めて欲しくないかな」
「――――」
簡単に、言ってくれるものだ。
千聖の葛藤を理解したように、心情を見透かしたように、涼とは違うのだと、見せつけるかのように――。
「こうやって、日暮が頑張ってるのを見てきて思ったんだ。その、ひたむきで真っ直ぐな気持ちが報われないのは理不尽だって」
「真っ直ぐじゃない……回り道して、ぶつかってばっかで、結局はゴールの前で転んで……あたしは、何も……」
「――わかってないなー日暮は。うん、全然」
「な、なに……?」
唐突に、シリアスな空気感をぶち壊すように秋鷹が笑い出した。彼はテンションそのままで、
「頼ってくれてもいいのに。やっと仲良くなれたわけだし、相談でもなんでも、遠慮なくしていいんだよ」
「…………」
「あれ、仲良くなれたって思ってたの、俺だけだった?」
「……いや、あの……あたしも、なかよく――違うっ。まったくもって仲良くなんかないっ」
「うわ、ショック……俺は結構、心開いてたんだけどなぁ……」
「あ、いや、そうじゃないの……」
秋鷹の流れに乗せられて、調子がくるってしまう千聖。認めたくないがための拒絶と、彼を傷つけたくないという本音との揺らぎ。狼狽えが前面に表れると同時、
「――ッ」
手を繋いでいたことに気づくと、即座に振り払う。カァッと顔が熱くなるが、雨音が耳を掠めて冷静さを取り戻した。
「そんなに強く振り払わなくても……」
「……あんた……やっぱりあたしのこと好きなんでしょ……!? 頼んでもないのに構わないでよっ!」
「えっ……!? 日暮……?」
――至って冷静、などではなかった。
「女の子が弱ってるからって、見計らったように現れないでよ、優しくしないでよ! 慰めたりなんかしないで、ほっといてよ……! 解ったような笑顔を向けないでよ、解ったふりして近づくのはやめてよ。仲良くなんかない。仲良くしようともあたしは思わない。お願いだから……あたしに関わらないで……。っ……嫌い……あんたなんか大っ嫌い……!! 仲良くなれたと思ってるなら、大間違いよっ! どっか行きなさいよバカっ!」
キッと睨みつけ、秋鷹へ罵声を浴びせた。
――失望しただろうか。幻滅しただろうか。助ける気はなくなっただろうか。これでほっといてくれるだろうか。
最初から、こうすればよかったのだ。千聖の内情に関わらせる必要なんてないし、頼るなんて尚更、秋鷹に迷惑をかけるに決まっている。
無益に手助けさせるとは、なんて浅はかなことか。そんな無意味で無価値な気遣いは、千聖に心苦しさを植え付けるだけだ。
千聖みたいな愚かな人間は相手にしなくていい。秋鷹にだって、他にやるべき事が沢山あるだろうに。こんな弱虫な女、こんな面倒臭い女、こんな最低な女に掛かりきりになのは、秋鷹にとっては時間の浪費に過ぎないはずだ。
けれどもう一歩。踏もうと試みた時、
「――好きだよ」
「…………は、え?」
手首を掴まれ、軽く引き寄せられた。
ビニール傘で再度、雨から守られてしまった千聖。眼前の秋鷹と目が合い、息が堰き止められる。
彼の問題発言が頭の中をぐるぐると巡り、わけのわからない緊張感が千聖を苦しめた。近い、そんな思考も秋鷹の唇が開いた時点で消え去って。
「俺は日暮のことが好きだ。たぶん、二回目の会議で見せてくれたあの笑顔、それで堕ちたんだと思う」
「お、堕ちた……」
「ああ、屈託のないその笑顔で、恋に落ちたんだ。だから日暮の笑顔を考えない日はないよ。また見れるんじゃないかって期待、してる……」
「きゅ、急に言われても、宮本くん……えと、何て言えばいいか……うぅ……」
「本当は言うつもり、なかったんだが……仕方ないよな。身を引こうって決めてたんだ……それでも、気持ちを伝えるだけ、伝えるだけだ。…………日暮、聞いてくれないか……?」
「ひゃ、ひゃい……!?」
「……俺は――――」
告白。
この二文字が千聖の脳裏を掌握し、今起こりうる事象に困惑の叫びが上がった。
千聖が苦悩していた告白だ。彼はそれを、よりにもよって悩んでいた本人に向けて投げつけようとしている。
文字通り、それは想いを告げるという重大事項。告げて、受け取るか受け取らないかを選択して、自分たちの行く末を決めるのだ。
選択するのは千聖。しかし、どう答えればいいのか困り果ててしまう。断るのは決まっているが、傷つけずオブラートに断る方法が見つからない。
――どうすれば、一体どうすればいいのだ。
いや彼は、想いを伝えるだけなのだと言っている。ただ、千聖は聞いてあげるだけでいいのだ。
とはいったものの、はっきりと断言し、答えてあげなければならない。そんな罪悪に似た思いが堂々巡りして、千聖は緩まぬ思考の中で「もう少し時間をください」と秋鷹に言った。
無論、秋鷹から返事は返ってこない。返ってくるのは熱い視線。そして今こそ告げられるであろう彼の想い。
息を呑んで、千聖は待つしかなかった。その僅かな時間が途轍もなく長く感じられて、遂には沸騰しそうなくらい顔が真っ赤に染まり上がる。
それを瞳に映し、秋鷹は――。
「うっそぉ~!」
「――――はぁ?」
「ぁ…………じょ、じょーだん冗談! はーい、スマイルスマイル……」
自分でも驚く程に、千聖から発せられた低音ボイスは大気を揺るがせた。秋鷹にも効果抜群のようで、声が掠れて苦笑いになっている。
それを保ったまま、秋鷹はガラガラした声音で気を取り直して、
「まぁ……なんだ。濡れたままだと風邪ひくし、シャワーでも浴びないか? 丁度俺の家がすぐそこに……」
「今の話の後でそれ? 下心しか見えない」
「あっと……笑ってくれると思ってさ……」
「これっぽっちも笑えないんですけど。ほんと、嫌いになりそう……」
「ごめん……取り敢えず、体は温めて欲しいな。このままだと冷えるから」
と言うと、秋鷹は片手で器用にブレザーを脱いで、千聖の肩に羽織らせた。意味を成しているのか定かではない行動だが、並の女性ならこの気配りでコロッといくのだろう。
鼻で笑って、自分はないなと不愛嬌になる千聖。むすっとして、キャパオーバーになりかけている頭を思いっきり抱えた。
先程の衝撃の数々によって疲弊が溜まり、重要な事なのに考えが及ばない。告白に失敗して嘆き苦しんでいた筈なのに、今は怒りと疲れに翻弄状態。加えてこの男は――。
「どうする? ていうか寒くない?」
とかなんとか、下を向く千聖に声を掛けてくる。
千聖は涙痕を手の甲で擦り、から返事で乗り切ると沈黙。鳥肌がたっている身体に目線を送って、雨だれに耳を澄ました。
選択は、果たして――。
※ ※ ※ ※
狭苦しい玄関に、狭苦しい部屋。目線の先には六畳一間のワンルームが窺え、右手にはトイレ、おそらくはシャワーもそこで浴びられるのだろう。
そして左手にはキッチン。一人暮らしだというのに異常に溢れかえってる食器類があり、思わず千聖の顔は引きつってしまった。
とはいえ、そんなこんなで迷い込んだ秋鷹の家。異性の――男の子の部屋と呼称するのは一旦置いとくとして、『成り行き任せで』と判断した数十分前の自分を殴りたい。
学校に戻ることも考えはしたが、
なにしろ未だ上履きで、鞄は学校に忘れてきたのだ。春奈には詫びの連絡を入れ、タピオカは次回にお預けという形となった。これが一番の心残りなのかもしれない。
すると、前方から白い影が飛来――。
「――わぷっ」
「新品のタオルだ。気にせず使え」
言いながら、秋鷹は押入れの方へと戻っていく。
――女の子の顔にタオルをぶつけたことへの謝罪がない。千聖は顔からズレ落ちた白色のタオルを掴み取り、
「新品を渡してきた配慮に免じて許す……」
独り言を少々。それから、玄関で濡れた髪をぽすぽすと柔らかいタッチで拭いていく。あまりゴシゴシしすぎると、髪が痛んでサラサラ髪への道は遠いものになる。故の慎重なる拭き方だった。
「――――」
浸み込んだ制服からは若干の水滴が落ち、それすらも聞こえそうなくらい静謐な場所だ。質素で、飾り気がなくて、あるのは端に寄せられた敷布団だけ。
どこか共感してしまうような光景、けれどガサゴソと押入れを漁る音に重なるよう歌声が響く。
「あきらめないでどんなときも、君ならできるんだどんなときも――」
「ご機嫌ね……あんた……」
千聖へのエールにも思えない。
その口ずさむような歌は、秋鷹の勝手気ままな独唱だった。それならば許せたものを、彼が歌っているのは千聖が好きな『サンボマスター』ではないだろうか。
「あったあった」と探し物を見つけたような声を上げた後、秋鷹が玄関まで何かを携えて来たため、千聖はタイミングを見て切り出す。
「あんたもサンボマスター好きなの……?」
「うん? 好きだよ、そりゃあね」
「……そ」
好きなアーティスト被りとは、少しばかり気恥ずかしい思いになる千聖。打ち解けるのならば、ここで互いの趣味について語り合うのが定石なのだろうが、千聖にはそこまでの意気は無かった。
「いいよね、サンボマスター」
「そ、そうね……あんたはもっと、ロックなの聞いてるんだと思ってた」
「俺、どう思われてんの? 自分で言うのもなんだけど、ヒップホップ系じゃない?」
「うん、そっちのが似合ってるかも……革ジャンよりかはダボダボパーカーよね」
「どんな偏見だよ。実を言うと、俺のファッションは革ジャン多めだよ?」
「聞いてない」
「知って欲しかったんだよ」
「なによ、それ……」
くつくつと相好を崩し出す秋鷹。彼の、何を知ればいいというのだろうか。考え始めると、また解らなくなりそうで。彼が何を思っているのか、誰を想っているのか、先刻の『冗談』で垣間見えたそれが千聖にわだかまりを残す。
「じゃあ、服はここに置いとくよ。これも買ったばっかで新品だから、安心して使って」
「……どこか行くの?」
「コンビニ。この状態だとさ、料理なんかできないし……というわけで夜ご飯、買ってきますっ」
ビシッ、と敬礼ポーズをとった秋鷹は、キッチンと呼べない禍々しいキッチンを通り過ぎ、千聖の真横で靴を履いていく。
濡れているために玄関から動けない千聖が、その様子をぼーっと見ていると、
「帰って来るのに三十分くらいかかると思う。その間に風呂、入っときなよ。入らないと来た意味ないだろ?」
「う、うん……」
「それと、乾燥機はアパート一階にあるから、風呂上りにでも使えばどうかな?
タオルを胸の辺りで握り締めていた千聖は、秋鷹の勢いに押されて閉口させられてしまう。彼は勢い劣らず、靴を履き終えると立ち上がって、
「それじゃ、いってきます」
「……い、いってらっしゃい……?」
千聖の慌てる姿が可笑しかったのか、秋鷹からくすっと一笑が飛んだ。扉が開かれ、雨音の激しさが再来。
不意に、秋鷹が思い出したかのように、
「……影井のことは、一先ず忘れとけ。考えても、悲しくなるだけだよ」
そう言い残して、秋鷹の姿が
「なにしてんだろ、あたし……」
逃げて、泣いて、困って、気づけばここにいた。
これが千聖の望んでいた結果なのか。考えてもわからない自分の気持ちに嫌気が差し、考えたくないと惑乱気味の頭を壁にもたれさせる。
枯れた泪を呼び起こすも、千聖の呼びかけには応えてくれない。そうやって哀しみという感情に逃げるのが、正解とも思えない。
――しとしとと降り止まぬ雨。それが何故だか、千聖を嘲笑しているようだった。
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