第163話 一難去って……


「うぅ……」


 どれくらい気を失っていたんだろう……。

 目を開けると、そこは見渡す限り鬱蒼と茂る森の中。

 まだ朝だったはずなのに、陽の光も届かず、ここは嘘みたいに仄暗い。


「アレクさん……?」


 確か一緒に吸い込まれたはずだったのに、周りを見渡しても僕以外には誰もいない……。

 気持ちの悪い静けさだけが僕を包んでいる。



「こんにちは」


「!?」



 誰もいなかった筈なのに、後ろから不意に声が掛かる。

 その声の冷たさに、思わずヒュッと息を呑み込んだ。


 周りに聞こえるんじゃないかと思うくらいに、ドクドクと大きくなる僕の鼓動。

 確かめようと振り返ると、燕尾服にシルクハットを被った黒髪の男性が立っている。


「……あ、あなたは……?」


 ドクドクと煩い心臓を鎮めようと冷静を装うが、声が微かに震えているのが自分でも分かった。


「おや、以前お会いした事があるのですが……。お忘れでしょうか……?」


 男性は首を傾げ、顎を擦りながら不思議そうな表情を浮かべている。


「え……? 本当ですか……? すみません、僕……、覚えてなくて……」


 僕たちと同じ黒髪の人……。

 会った事……、なかったと思うんだけど……。


「ほら、弟さんの飲み物を駄目にしてしまったでしょう?」


「──!?」


 あの時の真っ黒な靄がかかった人……!?


「あ、思い出して頂けた様ですね! よかった! 私の名はメフィストと申します」


 男性はホッとした様に胸を撫で下ろす。

 だけどその目は、僕を見つめたままだ。


「あ、あの……! あなたは……。メフィストさんは、どうしてこんな所に……?」


 こんな何もない森の中、燕尾服なんて着ている人が汚れ一つないなんて有り得ない……。


「あぁ、契約者と約束をしていたのですが……。どうやら消えてしまったようですね……。せっかく美味しいご馳走を頂けると思っていたのに……」

「消えた……?」

「はい。消滅……? と言った方が正しいのかもしれません。欲に塗れた魂を頂く約束だったのに……。仕方ないですね」


 仰々しく天を仰ぎ、残念ですが、と溜息を吐き肩を竦めてみせる。


「魂って……。何を言って……」

「ところで貴方、どうして魔力がないのです? とても興味深いのですが」

「ヒッ……!」


 メフィストさんが音もなく、僕の鼻先スレスレに顔を近付け凝視している。

 あまりの恐怖に言葉が詰まり、思わず後退る。


「ま、魔力って……?」

「……? 魔力、ご存じないのですか……?」


 おかしいなぁ~、と首をひねりながら僕をずっと観察している。


「ぼ、僕は魔法が使えないので……! そのせいかもしれません……!」

「魔法が使えない人間はいますが、魔力がない人間を見るのは初めてです。面白いですね! 少し食べてみてもいいですか?」

「は……? 食べる……?」

「はい。貴方の魂、とても美味しそうです。食べると言っても味見程度なので、寿命が少し短くなるだけですよ?」

「冗談言わないでください……!」

「いえいえ、本気ですよ? 何でも貴方のお願い事を聞いてあげます。魔法だって使えるようになりますよ? お金だって、仕事だって、恋人だって思いのままです。その代わり、貴方の魂を頂く事になりますが」



 試してみたくはありませんか?



 メフィストさんはにこりと微笑みとても楽しそうに話し出すが、現実味がなさ過ぎて逆に落ち着いてきたかも……。


「じ、自分で頑張るので……! 結構です……!」


 こういうヤバい人は、強気に出ないとダメだ……!


「おや……? どうしてですか……? 貴方、先程の彼……、アレクさんを助けたかったのでしょう……?」

「!?」


 何でアレクさんの名前を……!?

 でも、僕が呟いたのを聞かれていただけかも……。


「質問がいけなかったのでしょうか……? あ、これならどうでしょう?」



 ──彼を助ける代わりに、貴方の魂を頂けますか?



「な、何言って……」

「そう言えば貴方、この娘にも情が湧いていたでしょう?」


 メフィストさんが指をパチンと鳴らすと、その足下に黒い靄がゆらゆらと揺らめき、路地裏で出会ったあの傷だらけの女の子が現れた。


「──……!?」

「れ、レティちゃん……!?」

「あ、あのとき、の……?」


 レティちゃんは何が起きているのか分かっていない様で、辺りをキョロキョロと不安げな様子で見回している。


「まさかあの魔導士が幾重にも魔術を掛けたこの娘の姿が見えるなんて……っ! 素晴らしいですね! ますます興味深いです!」


 両手を大きく広げ、何か面白いものでも見つけた様に楽しげに笑う姿は不気味以外の何者でもない。


「あ、あなたがこの子に……。こんな酷い扱いをしていたんですか……!?」


 レティちゃんは数日前よりも痣が増えているように感じる。

 こんなにボロボロになるまで放っておくなんて許せない……!


「いえいえ! とんでもない……! この娘は私の持ち物ではありません。契約者が勝手に奴隷を連れてきたのですよ。魔族は特に魔力が豊富なので……」

「だからってこんな……!」

「私はただ、きっかけを与えただけにすぎません……。魔力が足りないというので、知恵と力をほんの少し貸しただけの事。魔力はある者から奪えばいい。確かに私が魔力を吸収出来る様にしましたが……。とても喜んでいましたよ? 城の人間や屋敷の使用人を洗脳する姿は、私共にも引けを取らないでしょうねぇ」


 何が悪いのか本当に分からないのか、この人は困った様に眉を下げている。

 その契約者って人が、レティちゃんがボロボロになるまで魔力を吸い取ってたって事……?


「こんな幼い子に酷い扱いをして……! 心が痛まないんですか……!?」

「痛むも何も……。私はただ、契約の為に呼ばれただけですし……」


 チラリとレティちゃんの事を見ると、首に掛かっている首輪の様な物を指差し、人差し指を上にクイッと上げる。


「う……、ぐぅ……!」


 すると、息が出来ないのかレティちゃんが首輪を取ろうと首を掻き毟っている。


「レティちゃ……!? うわぁっ!?」


 僕はレティちゃんの傍に駆け寄り首輪を取ろうと掴んだが、掴んだ両手にバチバチッと電気が走る。

 あまりの衝撃に、思わず手を放してしまった。


「ほらほら、早く決断しないと首がどんどん締まっていきますよ? どうします? 見捨てますか? 助けますか? 貴方次第ですよ」


 ニコニコと微笑みを浮かべ、抑揚のない口調で近付いてくる。


「そんな……、いやだ……! 見捨てるなんて出来ない……!!」

「ほぅ! なら、契や……」



 ──ヒュッ……!



 僕の肩に触れようとメフィストさんが手を伸ばした瞬間、物凄い速さでナイフが飛んできた。

 刺さるかと思ったが、メフィストさんは寸でのところでナイフを躱し、飛んできた方を睨んでいる。

 その頬には刃先が掠めたのだろう、スーッと血が流れ出ていた。


「チッ……! 外れたか……!」

「アレクさん……!」


 よかった! 無事だった……!!

 アレクさんの姿を見て安堵し、このまま駆け寄りたい衝動に駆られる。

 だけど、このままじゃレティちゃんが……!


「テメェ……! 薄汚い手でユイトに触ろうとすんじゃねぇ……!」


 眉間に皺を寄せ、アレクさんは今にも怒りで爆発しそうだ。

 右手に持った剣が、ユラリユラリと炎を纏わせ揺れている。


「随分なご挨拶ですねぇ……? 貴方、アレに捕まったでしょう?」

「え……!?」


 次の瞬間、距離を一気に詰めメフィストさんの鋭く尖った鉤爪がアレクさんの喉元を掻っ切ろうと襲い掛かる。

 アレクさんはそれを躱すと、剣でメフィストさんの心臓を貫こうとした。

 しかしそれも鉤爪で防がれた様だ。

 あまりの速さに、僕は土埃が舞う中、必死に目で追う事しかできない。

 レティちゃんの首輪が緩んでいるうちに、何とかしないと……!


 メフィストさんは後ろに大きく飛び、アレクさんから距離を取ると、ハァ、と溜息を吐きながら頬に流れる血を拭っている。


「ハハッ、お前にはバレてたか……! 黒幕の正体を取っ摑まえる為だ! これが一番手っ取り早いからなぁ!」


 アレクさんも殴られたのか、口元に血が滲んでいる。


 まさかアレが作戦だったなんて……。

 じゃあ僕、ただアレクさんの邪魔をしただけなんじゃ……?


「ほら、ごらんなさい……。彼が落ち込んでいますよ? いいんですか? せっかく貴方を助けようと飛び込んできてくれたのに……。お可哀そうに……」


 僕を哀れんだ目で見つめるメフィストさん。

 微かにだけど首輪の締め付けがさっきより緩んでいる気がする……!

 レティちゃんの息も、心なしか安定しているのが分かる。

 もしかしたら、アレクさんに気を取られているのかもしれない……!


「ぼ、僕は……! アレクさんが、死んじゃうと思って……! 必死で……」


 あの瞬間、アレクさんが捕まって頭が真っ白になった。

 ちゃんと話を聞いていれば、気持ちを伝えていればって……!


 すると、アレクさんは剣を構えながらも焦った様に僕の方へジリジリと近付いてきた。


「ユイト……! 伝えなくて悪かっ……」

「ゆ……、許しませんっ!」

「「え?」」


 僕の言葉に、二人は声を揃えて呆然としている。


「こんな……、こんな危ない事、一人で背負わないでくださいっ!」


 本当は、もうこれ以上誰にも傷付いてほしくない……。

 トーマスさんもオリビアさんも、誰一人僕の前からいなくならないでほしい……。


「うっ……、うぅ~……っ」


 力にもなれない自分が情けなくて嫌になる。

 ボロボロと溢れてくる涙を、自分では止める術が見つからない。


「ユイトさん……!」


 すると突然、メフィストさんが僕の名前を叫んだ。


「貴方の魂はとても美しい……! 今まで見てきた誰よりもです……!」


 情けない姿を晒しているのは分かっている。

 だけど、恍惚の表情を浮かべ、嬉しそうに僕の事を呼ぶこの人が何だか無性に腹立たしい。

 抑揚のない口調も、どこか人間味を帯びてきた様に感じる……。


「貴方の魂はさぞかし美味なるモノでしょう……! 是非私と……」

「さっきから聞いてれば……! 魂魂って……! あなたはそれしか食べた事がないんですか!?」

「……は、はい……?」


 ボロボロと流れる涙をグイっと手の平で拭い、メフィストさんを睨み付ける。


「大体、あなたがその契約者とかいう人を唆さなければ誰も傷付かないし、こんな事にもなっていません!! 違いますかっ!?」

「そ、そうです、ね……?」

「ゆ、ユイト……?」

「アレクさんもアレクさんです! ちゃんと言ってくれればよかったのに……! 今日で最後だなんて聞いてませんっ!!」

「ご、ごめん……!」

「僕の勘違いのせいだけど……! こんな……、こんなお別れなんて嫌です……!」


 次から次へと溢れ出る涙をゴシゴシ拭い、メフィストさんを再度睨み付けた。


「メフィストさん! 僕はあなたの契約に応じるつもりはないし、魂をあげるつもりもありません!」

「そうですか……、残念です……」

「分かってくれまし……」

「なら、殺して食べてしまいましょう」

「え?」


 いい考えです。


 そう言ってニコリと微笑むと、メフィストさんは僕とレティちゃんを目掛けて魔法を放った。

 何とかしようとレティちゃんを庇うが、襲い来る真っ黒い靄が僕とレティちゃんを一瞬で包み込む。


「ユイトッ!!」


 アレクさんの焦った叫び声が遠くで聞こえてくる。

 あぁ、どうしよう……。

 まだちゃんと謝れていないのに……。

 ハルト、ユウマ、トーマスさん、オリビアさん、皆に会えないなんて……。


 こんな所で死ぬなんて、絶対に嫌だ……!



 ──僕は生きて帰るんだ!!



 すると、僕の左手首に着けていたブレスレットがチリチリと光を放ち始めた。


 な、何……?


 見る見るうちに光が膨れ上がり、靄全体を搔き消すほどの閃光となって溢れ出した。

 思わず目をぎゅっと閉じるが、閉じていても瞼に強い光を感じる。


「な……!? これ、は……!?」


 メフィストさんの叫び声が響いたかと思うと、辺りはまるで何事も無かったかの様に静寂を取り戻していた。


「ゆ、ユイト……!」

「アレクさん……」


 アレクさんは剣を投げ捨て、僕の下へと駆けてくる。

 その姿は所々血が滲んでいて、とても痛々しい。

 そして僕を抱きしめると、無事でよかった、と小さく呟き額にそっと口付けを落とした。


「アレクさん……、ごめんなさい……。僕、勘違いしてて……」

「いいんだ、そんな事……! ユイトがいなくなったらと思うと、オレ……」

「ごめんなさい……」


 久し振りにちゃんと顔を見れた気がする……。

 アレクさんのこんな表情、初めて見た……。


「あ……」

「……ん? どうした……?」

「あの、アレクさんに謝ろうと思って……、お菓子を作ってきたんですけど……」

「ハハ、うん。嬉しいよ」

「あ、いや……。それが……」


 僕が視線を下に落とすと、アレクさんも僕の視線を辿って肩掛け鞄を見る。


「あ……」

「えへへ……、潰れちゃってる、かも……」


 中から取り出したのは、昨日ライアンくんたちと作ったオムレットケーキ。


「うわぁ……、やっぱり……」


 箱もぺしゃんこになり、中身は想像した通り見る影もない。


「見事に潰れてるな? あ、これフレッサ?」

「……はい、ショートケーキは作れなかったから……。代わりに、と思って……」


 ちゃんと美味しそうなの渡したかったのに……。

 落ち込んでいると、アレクさんはその潰れたオムレットケーキを手に取り、パクリと口に放り入れた。


「あ! ダメですよ!」

「ん、潰れてるけど美味いな。ありがとな」

「……はい。今度はちゃんと、キレイなの食べてください……」


 僕が俯きながら呟くと、アレクさんは僕の肩を抱き寄せ、楽しみにしてると答えてくれた。


「ん……」


 すると、横でレティちゃんの声が微かに聞こえた。

 あ、首輪……!

 慌てて見ると、大分緩んでいるがそこから覗く締め付けた痕が痛々しい。

 こんな物、消えて無くなればいいのに……!


 そう強く念じると、ブレスレットの石が不気味な音を立て始めた。


「え? 何……?」

「ユイト、それ……」


 すると、石がレティちゃんの首に巻き付いた黒い靄をシュルシュルと吸い込み始める。

 そして暫くするとそれは収まり、石の中にはグルグルと黒い靄が渦巻いていた。

 レティちゃんの首輪は黒色から何の変哲もない革に変わっている。

 いや、もしかしたら元々こちらが本物だったのかも……。


「レティちゃん、起きれる?」

「んん……?」


 僕が声を掛けると、レティちゃんは瞼をゆっくりと開いた。


「……あ、おにぃ、ちゃん……」

「うん、体は大丈夫? 痛いところは?」

「……んーん、だいじょうぶ……」

「そう、よかった……!」


 それを聞いてホッとし、レティちゃんを抱き寄せると、一瞬体が強張ったがすぐに力を抜いて僕の背中に恐る恐る手を回した。

 こんな小さな体でよく耐えたね……。


「あ、村に戻ったらカーティス先生に診てもらおうね」

「わたし……? おにぃちゃんも、いっしょ……?」

「うん、怖くないからね。一緒に行こうね?」

「……うん!」


 ようやく笑顔を見せてくれた。

 それだけで何故か涙が込み上げてくる。


 あ、でもここって何処だろう……?

 ちゃんと戻れるのかな……?


 そんな事を考えていると、アレクさんが僕の肩を揺すりだした。


「ユイト……、あれ……」

「え? どうしたん、です……、か……」


 アレクさんの視線の先には、先程までメフィストさんが身に着けていた服が一式……。

 すると、その服の中で何やらもぞもぞと動くものが……。


「な、何ですかアレ……!?」

「いや、オレにもさっぱり……」

「わたし、みてくる……」

「え、レティちゃん!? 怖くないの!?」

「……ん、こわいものじゃない……」

「ほ、ほんと……?」


 レティちゃんがその服の山をごそごそと探ると、そこから出てきたのは……、



「あ~ぅ!」



「あ、あかちゃん……!?」



 そこにはレティちゃんに抱きかかえられ、キャッキャと笑う可愛い赤ん坊の姿が……。


 これはまた、一騒動起きそうな気がする……。


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