第五話 激流に飲まれて
雨で水流の増したヘリックス川にシャザールは着水した。
激流の音で着水の音はもみ消される。
鉄橋に至る前に多くの土砂を飲み込んだ河川は淀んで前後がどちらかも分からない。
急流に飲まれたシャザールは激流を分断している大きな岩に体を強く打ち付けた。
くっ。
背中を強打したシャザールは口から息を漏らして濁水を飲み込む。
流れ落ちる河川の流れに逆らって水面から顔を出したシャザールは周辺にエウフェミアがいないかを確認する。
川の激流に慣れるまでに相当な時間が経過してしまっていた。
見つけたぞ。シャザールは前方にカーキ色の外套が浮かんでいるのを発見する。
激しい水流で運ばれる大木を避けながら外套の方へと徐々に泳いで近づいていく。
「大丈夫か、エウフェミア。」
川の水で張り付いた外套のフードを引っぺがし、シャザールはエウフェミアを抱き抱えて顔を水面から浮上させた。
エウフェミアからは反応がなく、大量の水を飲んで意識を失っているようだった。
シャザールは周囲を見渡して上陸出来る場所がないかを確認する。
しかし峡谷を流れる川からは反り立つ岸壁しか見当たらない。
「くそっ。」
シャザールは悪態をついて岸壁を睨みつけた。
侵食で深く削られた谷の両側は厳しい崖となっており、岸から登ることは難しい。
シャザールは河川の前方からごごごと響く瀑声が近づいている事を感じる。
シャザールの前を流れる河川は突如姿を消し、その下方へと水流を落としている。
シャザール達はその水の流れに逆らえないまま進み、突如激流から逃れるように宙へと飛び出した。
シャザールはエウフェミアを抱き抱えながら垂直に着水出来るように空中でバランスを取る。
20メートルはある高さから彼らは落下し、濁流が暴れまわる滝壺へと飛び込んだ。
水面に直撃する手前で意識を失わないように顔を鬱血させてシャザールは激流へと飲まれていく。
「ぷはっ。」
深い滝壺の中に沈み込んだシャザールはエウフェミアを抱えたまま水面へと浮上する。
河川の流れは上流と比べるとやや緩やかになり、泳ぐ分には水流は御し得る速度になっていた。
彼らの100メートルほど先のカーブにやや水流の勢いが弱い箇所があった。
一部河原のように上陸出来る浅瀬がある。シャザールはエウフェミアを抱き抱えながらその河原へと泳いでいった。
浅瀬に乗り上げたシャザールはエウフェミアを抱えたまま川から立ち上がった。
川から体を出すと水を吸い込むことで重量を増したエウフェミアの衣服がさらにどっしりとした重みを与える。
シャザールはエウフェミアの腕を自身の肩に回し、担ぐようにして河原を進んでいく。
エウフェミアの頭を注意深く取り扱いながら、ゆっくりと河川に彼女の体を横たわらせた。
エウフェミアの口元に耳を近づけて呼吸音を確認するが息はしていないようだった。
シャザールは指を交差させてエウフェミアの胸元に置くと自分の体重を掛けながら心臓マッサージを行なった。
「かはっ。」
口から水を吐き出したエウフェミアは体を少し震わせる。
「エウフェミア、大丈夫か。」
シャザールはエウフェミアの顔を覗き込みながらその横顔を優しく叩いた。
エウフェミア呼び掛けられた声に応答するようにゆっくりと目を開けると、力なくシャザールの顔を見つめた。
「ーーーあれ、私川に落ちたんじゃなかったっけ?」
自身が陥った状況を思い返しながらエウフェミアは問いかけた。
「ああ、川に流されたんだ。本軍ともかなり離れた距離まで来ていると思う。」
シャザールはエウフェミアの問いに回答すると自身の場所を把握するために辺りを見回す。
後ろの川は依然として早い流れを維持しており、その先も険しい崖が広がっているだけだった。目の前には針葉樹林の小さな林があるが、従来の山道に戻る為には十数メートルの崖を登る必要があるようだった。
「そっか、助けてくれたんだーーーありがとう、シャザール。」
エウフェミアは状況を理解すると薄っすらと力の無い笑みを浮かべながらシャザールに感謝の言葉を述べる。
「英雄だからな、俺は。でもらしくないな、お前がそんなこと言うなんて。いつもの軽口叩いてる方がお前にはお似合いだ。」
「へへっ、それはそうかもね。」
殊勝な態度のエウフェミアに毒気を抜かれたようにシャザールは答えた。その言葉にエウフェミアは同意して小さく笑う。
「まずは体を温めないとな。その林から枯れ木でも取ってくる。」
「うん、任せたー。」
腰を上げたシャザールに対して他人事のように空返事を返す。
いつものエウフェミアの様子に満足したようにシャザールは口元を吊り上げて笑みを零した。
林の中から焚火に使える枯れ木を集めてきたシャザールは、木の間に自分の着ていたマントを使った簡易的なターフを作ってその下に木々を配置する。
湿気を帯びた木を着火する事は手間取ったが電気によるアーク放電によって火をつける事に成功した。
暖を取れるようにエウフェミアをターフの下まで移動させる。
そうこうしている間に雲に隠れている太陽は地平線へと沈み始め、辺りが段々と薄暗くなっていく。夜に時刻が近づくにつれて雨脚も弱まっていった。
「くしゅん。」
焚火に横顔を照らされたエウフェミアがくしゃみをして体を震わせた。
川から出た時と比べたら顔色が良くなってはいるが、まだ顔に血の気は戻ってはいなかった。
「服濡れてんだろ、脱いで乾かせば?」
「何?私の裸を見たいの?スケベなのね、あなたって。」
シャザールが焚火を挟んでユーフェミアに助言すると、口元に笑みを浮かべたまま物言いたげな目でエウフェミアが軽口を叩いた。
「興味ねえよ、お前の体なんて。別にお前の体力無くなったとしてもすぐに本隊の連中が見つけてくれると思うし、勝手にすれば。」
少し不貞腐れたかのようにシャザールはエウフェミアから目線を外す。
自身のスケイルアーマーを取り外すと肌に張り付いている麻布の肌着も脱ぎ、木の間に通した紐に引っ掛ける。
肌着も脱いだシャザールの右上半身には樹状の火傷跡が広がっていた。
その火傷跡を見たエウフェミアは驚いたようにシャザールの体を見つめた。
「ああ、これか。これは俺が小さい時に雷に打たれて出来た火傷の跡だ。ホメスと繋がってこの世の理りと深く繋がる為には、扱う事象自体を体で経験させる事が一番効率的だったからな。」
シャザールはエウフェミアの視線に気がつくと左手で右半身に広がる火傷跡をなぞった。
「経験させるってーーーそれじゃあ自分で希望したんじゃなくてさせられたって事?」
慎重に言葉を選ぶようにしてエウフェミアが質問する。
「ああ、そうだな。俺の両親にやってもらったんだ。俺もほぼ記憶がない幼少の時に落雷を受けたらしいから記憶には全く残ってないけどな。」
「ーーー死んでたかもしれないのに、、、それってひどい。」
「俺は一つも親の事を恨んだりはしてないよ。強い戦士になる為には必要な事だった訳だし。」
「それでも自分の子供にそんな仕打ちをするなんてーーー」
自分の受けた経験を全く気に留めない口調でシャザールは答える。
より深刻に捉えていたエウフェミアだったが自分の火傷を誇らしそうに見つめるシャザールの表情を見ると思っていた言葉を発する事は出来ずに喉の奥にしまい込んでいた。
「俺の両親はもう死んでるんだ。母さんは病気で、親父は併合される時の戦争で。だからこの火傷は親父と母さんとの絆なんだ。武勲を上げて英雄になれば二人にも俺の名前が届くと思うんだよ。」
焚火で照らされる横顔は寂しさと儚さが入り混じったような表情だったが、自分の腕に広がった火傷の跡を感慨深く見つめるシャザールの目の奥底からは強い決意が伺える。
「ーーーよっと。」
地面に何かが放り投げられた音が聞こえてシャザールが視線を移すとエウフェミアがスケイルアーマーを脱ぎ捨ていた。
「ちょっと手伝って。」
ソフトコルセットを着た背中を向けてエウフェミアが背中の紐を外す補助を依頼した。
「なんだよ藪から棒に。」
突如の依頼に戸惑いながらシャザールが答える。
「んっ。」
言葉少なにエウフェミアがコルセットの脱衣の補助を促す。
シャザールは観念したかのように無言でコルセットの紐を解いた。
コルセットを取り外すとエウフェミアは外套で体を隠しながら腰丈のシュミーズを巧みに脱ぎ、それらをシャザールの衣服の隣に吊るした。
「あんまりこっち見ないでよね。」
エウフェミアは外套で上半身を隠しながら恥ずかしそうに目線を逸らして述べた。
「見ないっつーの。」
反対方向に視線を外したシャザールが答える。
暫し無言の時間が続き、焚火にくべられた木々が沈黙によって際立つように弾ける音を奏でる。
視線が外されていることを確認したエウフェミアはシュミーズのポケットに入っていた幻緑石を持つ左手を外套からもぞもぞと引っ張り出した。
焚火の灯りに照らされて幻緑石が神秘的に光る。
エウフェミアは幻緑石を握りしめたまま目を閉じて祈りを捧げる。エウフェミアの周囲に蛍のように光る物体が取り巻く。
「ーーーホメスへの祈りか。」
祈る様子を傍目で見ていたシャザールが口を開いた。
「ホルストの人たちって確かあんまり信心深くないんだったっけ?」
閉じていた目をゆっくりと開いてエウフェミアはシャザールを見遣った。エウフェミアの周りを舞っていた光体は徐々に姿を消していく。
「まあな。」
シャザールは前に視線を向けたまま言葉少なに返答する。
「この幻緑石は私の家に代々受け継がれているものなの。私の祖父からそれよりもっと前の私のご先祖様がこの石には眠ってるのよ。川から助け出してくれたのはもちろんシャザールだけどきっと私が見つけられたのはこの石のおかげ。」
エウフェミアは鉱石を持った左手を伸ばして幻緑石越しに空に浮かんだ月を見る。
翠色の半透明な鉱石は月の光を反射して幻想的に光を放っている。
「幻緑石って一体なんなんだろうな。ブルートーでは異界の者を呼び出す媒体としてまた列車を動かす燃料としても使われてるけど、アヴェルダでは祈りによって人の魂が戻る依代と考えられている。」
「それって幻緑石には人の魂が還ってないと思っているって事?ブルートーが幻緑石に宿る先祖の魂を使って異界の者を呼び出しているのに?」
立ち上がって空を見つめ自問自答するシャザールに対してエウフェミアが不満そうに質問を投げかけた。
「俺には分からないよ、どっちが正しいかなんて。でも幻緑石は人の魂や祈りが入っているって言われてるけどさ、俺は幻緑石に対してじゃなくて自分自身の未来の為に祈りを捧げたいんだ。自分が待ち望んだ事を現実にすることにさ。」
シャザールはエウフェミアの問いに満足する回答を持ち合わせていなかった。
アヴェルダとブルートーはそれぞれ確固たる思想や考えがあったが、敬虔な宗教観を持ち合わせていないホルスト出身であるシャザールはそのバックボーンがなかった。
ホルストは併合された国であり、シャザールの目的としてはバルザックのような誰もが知る英雄となる事、そしてそれによって故郷であるホルストを一連邦国家として地位を高める事だった。
「祈らなくてもさ、ずっと信じていれば案外簡単に実現出来るもんだと思うんだよな。」
シャザールはエウフェミアの問いに対する答えは持ち合わせていなかったが、母の病死や父の戦士、自国の滅亡を経験し、自分なりの考えは持っているつもりだった。
林の先の崖から何か物音がする。
見上げると松明を焚いた兵士たちがシャザール達を探し周っているようだった。
「な、すぐに本隊の奴ら来ただろ。」
シャザールは吹っ切れたような表情でエウフェミアに視線を向けると屈託のない顔で笑った。
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