第四話 魔獣トリナクス
「ケルビン様、後退して下さい。」
周囲にいた兵士がケルビンの前に進み出てトカゲに立ちふさがった。
「工兵以外は前方の異界の者の討伐に移れ。工兵は鉄橋の破壊を行え。」
ケルビンは突然現れ出た魔獣に怖気づく事なく、周囲の兵士たちに即座に指示を飛ばした。
鉄橋に広がっていた兵士たちは異界の者の近くに移動して討伐を試みる。一度は動きを止めていた工兵たちもそれに続くように鉄橋の爆破作業に移った。
魔獣の討伐の為に動き出そうとしていたシャザールは敵意を感じて峡谷の斜面に向き直る。
すると岩山から無数の隷術の矢が降り注いだ。
辺り一面に突き刺さる隷術の矢は工兵を支える兵士も貫通し、ぶら下がっている工兵の体重に引きづられるように一緒に河川へと落下していった。
大雨の影響もあって激しい勢いを持った濁流は一瞬にして工兵たちを飲み込むとその河流の奥底に引きずり込んだ。
「ちくしょう、伏兵か。こっからじゃ俺の隷術は届かない。弓兵、こっちへ来てくれ。」
突如現れた伏兵にシャザールは苦々しく独り言ちた。
白兵戦を援護していた弓兵部隊に声を掛け、峡谷の斜面から攻撃を仕掛けている奏者に反撃を試みる。
弓兵の多くは後方のケルビンの近くに待機していた為、10名弱の弓兵しか呼び寄せることが出来なかった。他の弓兵は大トカゲの対応に追われているようだ。
近くに接近した隷術の矢を雷を纏った剣で叩き落とすが、シャザールのいる場所からは奏者のいる対岸には攻撃は届かない。
弓兵の援護をしながらシャザールは首を振って周辺の状況を確認した。
ケルビンの周りを囲むように歩兵が壁を作っており、その先にいるトカゲは歩兵と弓兵が剣と矢で牽制していた。
その中には恐る恐るトカゲに剣を振りかざしているユークリッドの姿があった。
アヴェルダ軍が西側の稜線を超えて鉄橋に来ることを予期していたからなのか、ケルビン部隊がいる方向には奏者の伏兵はいないようだ。
「うぅあ。」
シャザールの後方で奏者に矢を放っていた弓兵が隷術の矢で体を貫かれてその場に倒れこんだ。
くそ、このままだとジリ貧になりかねないぞ。シャザールは唇を噛んだ。
当然シャザールが対岸の奏者に向かい1人ずつ倒すこと自体は可能であったが、その間に鉄橋にいるアヴェルダ兵の多くは隷術の矢によって沈むことになる事が予想された。
「優秀で可憐な弓兵が必要って顔してるわね。助けてあげましょうか。」
後ろで倒れている弓兵のもとに駆け付けたエウフェミアが悪戯っぽく笑った。倒れている弓兵から弓矢を拾い上げる。
「エウフェミアか。お前剣士だろ、弓なんて使えるのか?」
シャザールは後ろを振り返ってエウフェミアに返答する。
目の前に接近してきた隷術の矢を今度は剣を上に振り上げる事で掻き消した。
「ふっーーー口で説明するより見る方が早いでしょ。どう?」
弦をぎりぎりまで引き絞って複合弓から矢を放った。雨を切り裂きながら進む矢は隷術矢を撃ち終わった奏者の喉元に突き刺さる。
一発で敵兵を射抜いたエウフェミアはしたり顔で告げる。
「ーーー俺が隷術の矢は撃ち落としてやるから他の奏者も任せた。」
自慢げなコメントに釈然としない面持ちでシャザールは依頼した。
「了解!」
シャザールからの要求に対して満足げに呼応すると再度弓を構えて矢を発射した。
連射性の高い複合弓から正確に矢が放たれていく。隷術矢で攻撃している奏者は一人一人とエウフェミアの弓矢で倒れていった。
「グゥアアアゥ」
鉄橋を抜けてトンネル方面にいる巨大トカゲは周囲を威嚇するように咆哮を上げた。
硬い鱗に矢じりが当たって短い金属音を鳴らす。
トカゲは後方からの攻撃に気がついて背後を見遣った。
トカゲは後方を囲んでいる弓兵部隊に向かって猛進すると鋭い牙で弓兵の体に噛み付く。
攻撃を避けた残りの弓兵に対しては鋭く尖った鱗のついた尻尾で攻撃を行った。
横薙ぎに払われた尻尾は弓兵の体に接触し、その体を分断しながら左右に大きくしなった。
いとも簡単に兵士の命を奪う魔獣に畏怖の念を感じながらも兵士たちはその感情を押し殺して一定の間合いを取りながらトカゲを包囲する。
「槍兵、前へ。鱗の間を狙って槍を突き刺せ。」
ケルビンが弓と剣での攻撃は効かないと見るとすぐに戦略を変更する。
弓兵と剣を持つ歩兵の後ろで待機していた槍兵が弓兵部隊の間を割って進み出る。
槍兵たちはケルビンを後ろに控えさせながら一糸乱れる動きで一歩ずつ行進して魔獣との距離を縮めていく。
「掛かれ!」
ケルビンの号令と共に突進する槍兵達はその穂先をトカゲの鱗の間に滑り込ませる。
幾つかの槍は鎧のような硬い鱗で弾き返されたものの、何本かの槍はその合間を縫って魔獣の体に突き刺さっていた。
漆黒のトカゲは痛みに上体を仰け反らせながら声を漏らす。刺さった槍からは赤い血が流れ出した。
大トカゲはその黄色い瞳を兵士を指揮するケルビンに向ける。それは本能的な勘であったのかは分からないが魔獣はケルビンに向かって突如突進し始めた。
「ケルビン様を守れ。」
急な攻撃対象の変更に対してもケルビンの横で戦況を見守っていた高位の兵士が前方にいる歩兵に対して命令を下す。
周りを囲んでいた槍兵を吹き飛ばすとユークリッドを含む歩兵の隊列に向かってトカゲが接近する。
漆黒のトカゲは隊列の目の前で地面を蹴り上げると歩兵の真上まで跳躍しユークリッドに襲い掛かった。
「うぅお、マジかよ。」
ユークリッドは恐怖と驚嘆の声を漏らし、自身に向かってくる前足に向かってブロードソードを構えて防御の姿勢を取った。
途轍もない力で倒されたユークリッドは仰向けの状態になり、魔獣の右前足で押さえつけられている。
なんとか押し潰される事はなかったものの、鋭い爪はユークリッドの肩口に刺さって真っ赤な鮮血を流していた。
ユークリッドを救うために近づいた他の歩兵は横薙ぎに払われた左前足によって後方へと吹き飛んでいった。
抵抗するユークリッドに対して一度前足を戻した魔獣はユークリッドを圧殺するべくさらに反動をつけて前足を振り下ろした。
「なんなんだよ、ちくしょう!」
ユークリッドは横に転がる事で前足による踏み潰しを間一髪で避けると、すぐさまトカゲの顎下にブロードソードを突き上げた。
背面と比べて硬度の低い腹部側に攻撃を受け、トカゲは狼狽したように一瞬体を硬直させた。
「これでも喰らえ!」
ユークリッドは上体を起こして立ち上がると、顎下に刺さっている剣をさらに奥に突き出した。
剣はトカゲの顎下から舌を貫通し、さらにその上の脳天まで突き抜ける。
目を見開いた魔獣は上体を支える力を失ってユークリッドに覆い被さる形で突っ伏した。
「やったぞ。」
トカゲに乗っかられて身動きを取れない状況ながら異界の者を討伐した達成感にユークリッドは歓喜の声を上げる。
「何をしている、早くとどめを刺せ。そんな事で魔獣は死なないぞ。」
後方で戦況を見ていたケルビンは安堵の色が見える兵士たちに語気を強めて命令した。
ケルビンの言葉の通り魔獣は絶命しておらず、目を見開くと剣を引き抜きながら地面を踏みしめて突進を開始した。
突然の動きに隊列も揃わないまま迎え撃つ歩兵たちの前線はすぐに突破され、数騎の騎兵と歩兵のみが取りかこむケルビンの方向に猛追する。
「何をやっている。」
ケルビンの横に位置する騎兵が不満を噛み殺しながら口にした。そして騎兵と歩兵を前に出して高速で接近するトカゲを迎え撃つ体制を整えた。
「大尉、下がれ。」
自分の前方に立ちはだかった騎兵に対してケルビンが告げる。
バチバチっと空気が爆ぜるような音が聞こえた。
ケルビンの護衛部隊に勢いよく飛びかかったトカゲの横顔に超高電圧を帯びたシャザールの剣が叩きつけられる。
峡谷の奏者を全て撃退して魔獣の討伐に向かっていたエウフェミアもケルビンの後方で息を整えながら救援に回っている。
シャザールの剣は強固な黒い鱗を貫通して前頭部の途中までを切断していた。激しい電撃は一瞬にして魔獣の体を駆け抜けていく。
しかし強力な剣撃はトカゲの進行ベクトルをやや右にずらす事しか出来なかった。
トカゲは勢いそのままに鉄橋の入り口にいるケルビンのもとへと突っ込んでいく。
エウフェミアは怯えて身動きの取れなくなっているケルビンの乗るヘラジカに斜め後方から体当たりをしてトカゲとの直撃を回避させた。
「エウフェミア、避けろ!」
ケルビンを逃がす為に体当たりをしたエウフェミアに向かってトカゲの巨体が接近していた。
トカゲの頭部が先に鉄橋の端から峡谷の方に滑り落ちていき、その動きに連動して尻尾が回転しながらエウフェミアに迫る。
エウフェミアは橋の逆側に走り込むが遠心力で加速した魔獣の尻尾は無情にもエウフェミアの腹部を叩きつけ、その力のモーメントで彼女を鉄橋の外へと吹き飛ばした。
「エウフェミア!」
シャザールは谷底に落ちる巨大トカゲとエウフェミアを追って鉄橋の方へと走り出す。
「シャザール無理だ、諦めろ!」
後方でユークリッドが思い留まるように忠告する声が聞こえる。
しかしシャザールはユークリッドの制止を振り切り、走りながら外套を脱ぎ捨てた。
シャザールは鉄橋の入り口を突っ切ると激流が蠢く河川へと姿を消していった。
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