第三話 作戦開始
数刻は経ったであろうか。
カーキ色の外套を羽織った数百人の兵士が隊列を組んで岩場を登っていく。
山の天井には薄暗い雲がかかり、大粒の雨が降り注いでいた。
この大雨のお陰でアヴェルダ軍の進軍の音は完全に掻き消され、渓谷に溶け込むようにして奇襲部隊は推し進んでいった。
隊のやや前方に位置するケルビンは鋭い傾斜を登る事が出来る大型のヘラジカに乗って歩を進めていた。
岩場を登るごとに頑丈な鎧が擦れて小さな金属音が鳴る。ケルビンの後方には爆弾を背中に抱えた工兵が続いていた。
「ケルビン様、ヘリックス峡谷を見下ろせる位置まで到着しました。」
当初予定していた場所まで到着した偵察兵は後方に引き返し、ケルビンに報告する。
「皆、止まれ。左の谷側に少し下がり、鉄橋にいるブルートー軍に見つからないように待機しろ。」
偵察兵の言葉に軽く頷いたケルビンは後方の兵達に指示を飛ばす。
その指示を受けた兵士たちは体を屈め、尾根に対して左側の谷の方向に歩を進めてヘリックス川の上に建設された鉄橋の様子を見つめる。
鉄橋には多数の兵士が周囲を警備しており、その先を見ると10両ほどの貨車を連結した機関車がトンネルの前で停車していた。
貨車にはトンネル掘削で出た土砂と鉄道の動力源となる幻緑石が収容されている。
あちらもそろそろだな。
ケルビンは稜線から谷の方向に下った位置で部隊を進めるシモン一行の状況を観察し、陽動部隊とトンネル付近にいるブルートー軍の接触が近いことを予感する。
その予感はすぐに的中した。
陽動部隊の接近に気が付いた巡回中のブルートー兵士は声を上げて敵襲が来たことを伝える。
巡回する兵士の近くにいた一般兵と奏者が陽動部隊の方へと向かい、戦闘を開始する。
一般兵が奏者の前に進み出て接近してくるアヴェルダ兵との戦闘に身構える。
その後方では奏者が呪文を唱え始めていた。詠唱が進むにつれて奏者の周囲を緑色に発光する浮光体が取り巻いていく。
強い雨の中でも分かる轟音が鳴り響いた。
奏者は降り注ぐ雨の動きを支配し、崖に向かって雨で作った大玉を飛ばす事で擬似的に土砂崩れを作り出そうとしていた。
シモンの部隊の進行方向を遮る様に土砂崩れが起きる。
シモン部隊の兵士たちの多くはその雪崩れに飲み込まれる形で土砂に飲み込まれていった。
「怯むな、かかれ!」
強力な奏者の攻撃に狼狽の色を隠せない兵士に向かってシモンが檄を飛ばす。
自身の周りを囲むヘラジカ騎兵と共に厳しく切り立った崖を駆け上がっていく。その勇敢な背中に後押しされるように後方にいる歩兵達も声を張り上げて斜面を登っていった。
機動力の高いシモンらの騎兵一行はすぐに崖を登りきり、周辺にいる一般兵の前線へと突っ込んでいった。
槍で攻撃を行いながら一般兵の隊列の中央を突破すると後方で攻撃を仕掛けていた奏者との交戦を開始する。
洗練された動きで奏者を翻弄するシモン達は数々の隷術による攻撃を掻い潜って奏者を撃破し、後続の歩兵達が崖を登りきる時間を稼いだ。
その戦闘に気が付いたトンネル内で作業をしていたブルートー兵士たちもシモンの方へと引き寄せられるように進撃を開始する。
その兵士たちの後方で2名の黄泉渡しが緑色に光る幻緑石に手を当てて渡来の呪文を唱え始めた。
黒い混沌とした空気が幻緑石の前に現れ、黄緑色の稲光を発生させる。
その黒い空気の奥から蛇に似た頭を持つワームや鋭く尖った羽を持つ巨大な鳥が現れ出た。
「渡らせてきやがった。」
アヴェルダ兵は姿を現した異界の者を見ると冷や汗を出しながら表情を硬直させる。
ワームは太い胴体を蛇行させながらアヴェルダ軍に向かっていく。
進行を止めようとワームの前に立ちはだかった兵士に向かって頭部を高速で繰り出し、鋭い牙で噛み付いた。
ワームの牙は歩兵の鎧を簡単に貫き、兵士に噛み付いたまま高さ数メートルまで持ち上げる。
「うぅああ、やめろぉ。」
痛みと恐怖に感情を支配された兵士は苦悶の表情を浮かべながらワームを取り囲む仲間を見つめた。
ワームは噛み付いた兵士を地面に叩き落とし、反動をつけた頭部で周辺の兵士をなぎ倒す。
ワームから少し離れた場所では鋭い形の羽を持つ巨大な鷲が降り注ぐ雨を切り裂き、地面にいる兵士たちを鋭い爪で攻撃している。
複数の兵士は遠方から弓矢で大鷲に攻撃を仕掛けるが高速で動き回る大鷲に当たることは叶わなかった。
大鷲は攻撃を狙う兵士を双眸で捉えると、その羽から無数の激しい雷を落とした。
ばちばちと空気を切り裂いて降り注いだ雷は周囲の兵士に無作為にその触手を伸ばした。
『うわぁ。』
大鷲の下にいた兵士達は突然の落雷を受けて持っている武器を手放しながら後方へと吹き飛ばされた。
大鷲は地上へと滑空してその鋭い爪で兵士たちの臓物を抉り出すと、自身の強さを誇示するように両翼を広げて泣き叫ぶ。
その咆哮に呼応するように周辺に雷鳴が鳴り響いた。
「なんなんだあの魔獣達はーーー」
ケルビンが率いる奇襲部隊は無残に襲撃されていく同士達を見下ろし、待機している奇襲兵は畏怖で表情を曇らせた。
「ーーーくそ、やっぱり半端ねーな、異界の者は。こっちもバリスタとか使って広範囲に展開できる攻撃しない限り勝ち目ねーぞ。」
ユークリッドはトンネルの前で繰り広げられる惨劇を見ながら苦々しく心中を口にした。
「バルザック将軍の初陣はヘルカイトだ。それに比べればあんな魔獣屁でもねえよ。」
鉄道の線路に沿う形で猛威を振るう魔獣達を見ながらシャザールは自分が得るだろう今回の戦果に胸を躍らせる。血走った目を少し見開き、口元には笑みが溢れていた。
「マジかよ、お前、、、」
眉を顰めたユークリッドは戸惑いが混ざった表情でシャザールを見遣った。
「よし、敵の注意はほぼ陽動部隊に移った。我々は今からこの山稜から斜面を降り、鉄橋を警備する敵兵を蹴散らし、工兵をサポートしながら鉄橋の爆破を行う。」
シャザール達の後方にいたケルビンはジョセフ達の陽動が上手くいったことを確認すると、腰から引き継いた銀鼠色に光る剣を掲げて周囲にいる兵士たちに奇襲の開始を告げる。
強力な魔獣によってシモン軍が蹂躙される様子を見て少し腰が引けていた兵士たちを尻目にシャザールは間髪入れず斜面へ飛び出していた。
「あ、ちょっと。また勝手に行かないでよ。」
突然進み出たシャザールに対してエウフェミアが引き止めるように声をかけた。しかしシャザールはその声に気を向けず、稜線から鉄橋の方へ滑り降りていく。
「おらぁああ。」
雨に濡れた斜面を雄叫びを上げてシャザールが駆けていく。
その姿に感化された奇襲部隊の兵士たちは我に返って自身の役割を思い出し、シャザールの背中を追いかけながらその後ろに続いていった。
何人かの兵士は斜面でバランスを崩してそのまま転げ落ちていくが、多くの兵士は武器を振り上げて鉄橋を警備しているブルートー軍へと向かっていった。
陽動部隊によって警備は手薄になっている。
「敵襲だ!」
シャザール達の襲撃に気がついた兵士が周囲にいる警備兵に警戒を促す。シャザールを始めとした奇襲部隊は既に斜面の終端まで到達し、そこから鉄橋へと進軍を加速させる。
鉄橋の上に待機していた奏者が奇襲部隊に向き直って杖を掲げた。
その杖の周りを雨が取り囲むよう渦を巻き、激流となった水の塊がシャザールに向けて放たれる。
「遅ぇ。」
先んじて奏者の攻撃を予測していたシャザールは地面を蹴って水流の下に間一髪で潜りこむと、地面を擦り上げながら滑り込む事で直撃を回避する。
シャザールは腰に下げている短剣を右手で掴むとその切っ先を奏者の喉元に向けて放り投げた。
寸分の狂いもなく直線に進んだ短剣は奏者の喉に突き刺さる。
奏者は天を仰ぎながら鈍い声を漏らし、その喉元から細い糸のような鮮血が何本か吹き上がった。
膝から崩れ落ちで絶命した奏者の喉元から短剣を回収したシャザールはその奥に展開している兵士たちに向かって突っ込んでいく。
皮の鎧を身に纏った複数の兵士がシャザールに肉薄し、近接戦を挑む。
シャザールは自身に振り下ろされた剣を左、そして右へと薙ぎ払う事で剣撃を叩き落とすと、返す刀で相対した兵士の首筋と脇腹を切り裂いた。
「なんだよ、あいつ。強さめちゃくちゃじゃねーか。」
無双にも見える戦いぶりを見せるシャザールの後方でユークリッドが感嘆の声を漏らした。
ユークリッドの周囲でも白兵戦が繰り広げられるが主力部隊をトンネル方面に移動させていたブルートー兵士達は高い士気に支配されたアヴェルダ軍の前になす術なく打ち倒されていく。
シャザールは鉄橋の対岸の方まで歩みを進めており、彼の後ろには一瞬で組み伏せられた何十人の兵士の亡骸が横たわっていた。
シャザールの視線の先には残った最後の奏者が立っていた。
幾何学模様のマントを羽織った奏者は杖を掲げて呪文を唱える。杖の先端が青白く光り、細長い閃光が形作られた。
奏者はその閃光をシャザールに向けて放出する。
閃光は途中で雷へと形を変え、幾重にも枝分かれした電撃がシャザールに襲いかかった。
「ーーーふっ、効かねえよ。」
シャザールは短く息を吐き出して剣を振り下ろす。
奏者が放った電撃はシャザールの剣に纏い付いた別の電撃によって地面に撃ち落とされた。
シャザールは奏者の前方で飛び上がると、万策尽きて立ち尽くす奏者に無慈悲の剣撃を叩き付けた。
袈裟掛けに斬りつけられた奏者は生気の失った顔でシャザールを見つめながら仰向けに倒れこむ。
「おおぉー。」
最後の敵兵を斬り伏せたシャザールは剣を天に突き上げて雄叫びをあげる。
興奮冷めやらぬシャザールは切れた息を整えながら天を仰いでいた。
「彼は法剣の使い手なの。ブルートーとの東の戦地でもアヴェルダ軍の前線を一気に押しあげる働きをしていたわ。本来は詠唱が必要な奏者は近接戦闘が苦手だけど、近距離でも中距離でも戦える稀な存在。バルザック将軍みたいになりたいって事も案外でまかせとも思えないでしょ。」
鉄橋を制圧したエウフェミアは初めての戦闘に圧倒されて地面に座り込んでいるユークリッドの肩に手を置いて話掛けた。
「ーーー法剣?」
ユークリッドは聞き馴染みのない言葉を反芻する。
「近代隷術の一つよ。ホルストが立地的に海を挟んでクロイチェン王国に近い事も理由だと思うけど、最も隷術が発達しているクロイチェンで生みだされた新しい隷術の形。杖みたいな媒体や呪文を唱えなくてもこの世の理に繋がる事ができる技術よ。」
エウフェミアはシャザールの方を向きながらユークリッドに説明する。
隷術においては後進国であるアヴェルダの人からすると知らない概念である事は当然だった。
「工兵は命綱をつけて橋脚に爆弾を設置しろ。」
完全に鉄橋を支配下に置いたケルビンは手際良く工兵に指示を出す。工兵たちは運んできた金属製の箱を置き、その中で厳重に保管されていた円柱型の爆弾を取り出した。
4人1組となった工員は1人が命綱を体に巻きつけて鉄橋から下に降り、鉄橋の支柱に爆弾を設置しようと動き出す。
するとエウフェミアの後方から耳を擘く轟音が響いた。
音の聞こえた方向に目をやると漆黒の鱗に覆われた巨大なトカゲと真っ黒に変色した幻緑石の塊が線路の上に落下していた。
鱗は鎧のようにトカゲの背面に段々となって広がり、その鱗同士が擦れ合って剣が擦れるような金属音を奏でた。
トカゲの口元には恐らくこのトカゲを渡来させたであろう黄泉渡しの首が咥えられており、力無く横たわっている。足元にある線路は巨大なトカゲの衝突で大きく凹んでいた。
巨大なトカゲは強靭な太い足で一歩また一歩進むと鋭い眼光で周辺の兵士たちを見回す。
無残な姿に変わっている黄泉渡しの姿が兵士たちに更なる恐怖を想起させ、大きく後ずさりさせた。
黄泉渡しの体の奥から迸る翠色の光の塊が吸い込まれる様に異界の者の中に取りこまれる。
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