第35話 不意打ちは心臓に悪い

 朝。まだ日も昇らぬ時間に、私の頬をするっと撫でる指の感触で目が覚めた。普段なら絶対に起きないけれど、初めて泊まる宿屋ということで眠りが浅かったのかもしれない。


「ウィル様……?」


「あぁ、すまない。起こしてしまったか」


 目を開けると、そこには大好きな人の顔。神様もびっくりの美しい笑みが眼前にあり、驚いて一気に覚醒する。


「はぁっ……!えっ……!?」


 上掛けを鼻の上まで持ち上げ、思わず顔を隠してしまった。もう遅いことはわかりきっているのに、そうせずにはいられなかった。


 そんな私を菫色の瞳が優しく見下ろす。


「おはよう」


「お、おはようございます」


「これから身体を動かしてくる。声をかけようか迷っていたんだが、寝顔を見ているとつい……」


 つい!?ついって何!?

 顔が熱くて困った私は、おもいきり両手で顔面をこすった。薄暗い部屋、ウィル様がクスリと笑う声が聞こえた。


 昨夜はきちんとそれぞれのベッドに別れて眠った。

 一緒に寝たいなぁなんて思ったけれど、それはさすがに口に出せず。ただ、疲れていたので一瞬で眠りに落ちてしまった。


 私の方こそ、ウィル様の寝顔が見たかった……!

 ちょっと残念。


「井戸のある裏庭にいる。支度が出来たら、下りてきて欲しい」


 返事をする前にウィル様の顔が近づいてきて、額に柔らかな唇が触れた。

 叫ばなかった自分を褒めてあげたい。


 前髪をするっと撫でた指にすら緊張して、私は心臓が強く打つのを感じていた。

 ふっと笑って、何も言わずに去っていくウィル様はずるい。私ばっかりドキドキして今にも死にそうになっているのに……!


 寝起きの不意打ち、ダメ。

 しばらくは別の部屋を取ろうと思った。



 それからウィル様は宿屋の裏庭で剣を振り、その間に私は身支度を整えて荷物を確認した。

 ハクからもらった、侯爵宛の手紙もちゃんとある。

 多分、私の銀髪と銀杖ぎんじょうで顔パスなんだけれど、念には念を入れて手紙を用意しているのだ。


 ポケットに銅貨や銀貨を入れ、私は朝食を摂るために宿屋の一階へ下りていく。

 通路のところから、ウィル様が井戸の前で手拭きを濡らし、汗を拭っていたのが見えた。


 彼は私の姿が目に入ると、右手を上げて笑みを向ける。

 その目が優しくて、ドキッとしたのは内緒だ。


「ウィル様……」


 私はふと思った。

 今さらだけれど、どれくらい前の姿に似ているんだろう。城に近づいた瞬間、騒ぎになるくらい前の顔と似てはいないよね?


 今の姿を初めて見たとき、ウィル様は自分で言っていた。生き返ったことに気づかれるほどは似ていない、と。


 でも菫色の目だけは、私が覚えていたウィル様の印象を強く反映しているから、もしかしたら親しい人には気づかれるかもしれない。


 普通に考えたら、死者が二年も経って蘇っているなんて思わないだろう。

 ただし魔女がそばにいれば別だ。

 呪術の中には魂魄召喚術というものがあり、死者の魂をこの世に引き戻すものがある。


 今はもう、それを使える人物はいない。私の祖母ならできるかもしれないけれど、やったことはないと思う。

 ウィル様の再出発は、冥王様のご厚意みたいなものだからなぁ……。


「ユズ?」


 その菫色の瞳をじっと見ていた私に、ウィル様が少し首を傾げ名前を呼んだ。


「朝ごはん、食べに行きましょう!」


 いや、きっと大丈夫。

 バレたとしても、こちらが認めない限りは大事にならないだろう。


 懸念を胸に押し込め、私はこちらに歩いてくるウィル様の手をきゅっと握った。

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