第弍話 落ち目のジゴロさん
十軒目くらいのところで、大道芸人一家だというお宅に上がり込む。そこの一部床の抜けた板の間に、小さく丸まって寝ている男を見つけた。浄紫の娘の訪問騒動も意に介さず、大鼾をかいている。
男は、この細民窟では珍しい洋装姿をしていた。といっても、立派な背広姿などではなく、モスリンのシャツにパンツ姿のラフなスタイルだ。そしてなぜか頭の上にたんこぶらしきものができている。
「そいつァ、うちの一家の人間じゃありやせんよ。金が無ェってんで、一晩宿を貸してやったんでさぁ。一晩って言ってんのに昼まで寝てやがる。しょうもねえ落ち目の夜鷹でさァ」
芸人一家のパパさんがそう雑な紹介をしてくれる。
髪の色は染色したのか珍しい
年の頃は、芸人パパが言うには三十路らしい。身体で喰うに喰えなくなったどうしようもない穀潰しだよと、なかなか辛辣な評価だ。
とはいえ、わたしとしてはぎらぎらの夜鷹さんよりはちょっと安心できる。本当は四十路くらいの枯れたおじさんだったらより安心な気がしたけど、えり好みはしていられない。
この人が起きていきなり売り込みをしてこなかったら、この人に決めよう。
わたしはジゴロさんの寝顔を盗み見た。ジゴロというだけあって、綺麗な顔のつくりをしている。落ち目というには些か、気が早すぎるんじゃないだろうか。
そう思ったときだった。
ブッという盛大な音がして、わたしは首を傾げた。けれどすぐに漂ってきた異臭に、鼻を摘まんで飛び上がる。
「ちょ、待って、おならした?? このひと、わたしの目の前でおならしたんですけど!?」
臭い。はっきり言って臭すぎる。
鞄を置いていかれたイカスミがジゴロさんの傍でギャアギャア怒りの声を上げている。
「寝っ屁なんかまだかわいいもんでさァ。人んちのもん盗み食いするわ、隣の家の銭入れ盗んでくるわで、ボコしても埒が明かねェ。お嬢さん、そいつ気に入ったんなら、早いとこ持って帰ってくれませんかね?」
ええっ、なんかいきなりお守りを押しつけられた。正直ご遠慮申し上げたい。
そりゃあわたしだっておならくらいする。にんげんだもの。とはいえ、初対面で自己紹介もする前からかまされたら好感度ダダ下がりだよ、ピンクのジゴロさん。
しかも怒り狂ったイカスミにつつきまくられているのに全然起きないし。イカスミは繊細なお年頃なんだから、もうちょっとちゃんとしてほしい。
「ちょっと、起きて! 起きてよ~!」
わたしはジゴロさんの腕を引っ張った。
だけどジゴロさんのもう片方の手は、パンツのなかにするりと入っていく。ちょ、待て。不潔だろ!
ていうかよくよく見ると、ジゴロさんの首筋には赤い痣ができていた。これはもしかしなくてもそういうアレだ。まあそういう生業なのだから当たり前なんでしょうけども。てんで耐性のないわたしは、指示語を多用するほかない。
わたしは色々いっぱいいっぱいになって、最終的にジゴロさんを思いっきり蹴り飛ばした。
「――痛ッテェ!?」
思いのほか低い声が轟いた。どこか薄いグレーがかった眸は涙目で、わたしと目が合うと彼は訳わからんって顔をした。
「ちょ、待って? 俺ってばいきなり初対面のガキに蹴られた? 酷くない? ねえ、あんたそれでも人の子?」
親父にも殴られたことないのにバリのトーンで、しくしくとジゴロさんがお尻の辺りを撫でている。
その台詞を言いたいのはわたしのほうだ。いきなりおっさんの寝っ屁を嗅がされたんだぞ。
わたしはイカスミを抱っこして、イカスミ越しにジゴロさんもといおっさんを思いっきり睨みつけた。
「ったく、なんだよ。俺ァ、色男だが、こんな小便くせえガキと事をかまえた覚えはねぇぜ」
「……イロオトコ?」
それはいったい誰のことを指しているんでしょうか。
本気で問い返せば、ショックを受けた様子でジゴロさんがわたしを見返した。
思いがけず、塩対応をしてしまったらしい。
吹けば飛ぶ塵のように、さらさらと砂になっていく幻影が見える。
だけどジゴロさんはすぐに気を取り直した。
「……さっさと出てきな、お嬢ちゃん。俺は、今おねむでいそがしーの」
そう言って、シッシッと犬でも追い払うようなしぐさをしたかと思えば、ジゴロさんはふて寝を決め込んでしまう。
昼までぐーすか寝ておいておねむで忙しいって、喧嘩を売られているんだろうか。
だけどわたしは気づいてしまった。
あろうことか、唯一この品のないジゴロさんだけが売り込みをしてこなかった。わたしに興味がないからには、危害を加えてくる可能性も低いはずだ。わたしの感情はさておき、この人を雇うのがベストでなくともベターなんじゃないだろうか。
夕方には、賭闘が始まってしまう。タイムリミットが迫っていた。
「ねえ、ちょっと聞いてよ!」
わたしは両手でジゴロさんの背中を引っ張る。服が伸びて、ぐえっと蛙の潰れたような声が上がった。
「なんなんだよっ」
「あ、あなたを買いたいっ」
人の耳もあるので、本当のことは言えない。自然ぼかした言い方になってしまう。だけどわたしの言い方では、まるで本当にこのジゴロさんとそういうことがしたいみたいな感じになってしまった。
生理的に無理すぎるのに。
ジゴロさんは盛大な舌打ちをした。
「なんだァ、ユキシロ。願ったりかなったりじゃねェかよ。こんなかわいい嬢ちゃんとやることやって金までもらえんだ。御の字じゃねェか!」
芸人パパが背後から揶揄する。
ジゴロさんの名前はたぶん、ユキシロというらしい。どんな字だろうか。
「うるせェ。俺はガキとはヤんねぇ。引っ込んでろ、ハゲ」
ユキシロさんはそう吐き捨てるなり、ちゃぶ台を蹴り飛ばして長屋を出て行った。
うわーお、なかなかヤバイ人だ。
全然顧みられることなく置いて行かれそうになったので、芸人一家の皆さんにぞんざいなお礼を言って、慌ててその背中を追いかける。
ぶっ飛んでいるようだし、性根は腐っているようだが、先ほどの発言を聞くにロリコンではないらしい。
ますます組むには最適な相手な気がしてきた。
「ねえちょっと、話だけでも聞いてよ!」
わたしが追い縋ってもにっちもさっちもいかないので、見かねたイカスミが援護射撃をしてくれた。イカスミの嘴ドリルアタックで、ユキシロさんがすこーんと勢いよくすっ転ぶ。
三拍後、ユキシロさんはゆらりと立ち上がった。
「おい、あんた痛い目見ねェと分かんねぇの――っていッた!? 痛い、ヤメテ? やめてね、鳥さん、痛いから。ね? ヨワイモノいじめ、反対ッ!!」
わたしへの脅し文句は、イカスミが事前に阻止してくれる。イカスミってばよく出来た烏だ。めちゃくちゃ頼もしい。
散々ユキシロさんをつつき回したあげく、イカスミはわたしの肩に降り立つ。ユキシロさんはそれを恨みがましい目で見やって、壁によよよ、と身を寄せる。
わたしは勢いづいて、ひと気のない路地にユキシロさんを引っ張り込んだ。それからひそひそ声で交渉を始める。
「今夜の賭闘にどうしても参加しなきゃいけないの。だけど、男の人の連れがいなくて。だから、あなたにわたしの付き添いをしてほしい」
わたしの申し出に、ユキシロさんはなぜか拍子抜けした顔を見せた。
強張っていた身体が弛緩して、わたしを真正面から見つめ返す。
「あァ? 俺は割りのいい仕事しか受けねぇぜ。少なくとも銀貨一枚。それ以外はびた一文まからねェ」
「……金貨二枚」
わたしの言葉に、ユキシロさんは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。
この八嶌で金貨二枚といえば、庶民がひと月はゆうに暮らしていける額らしい。
ひと晩の付き添いにしては破格の額だが、わたしの身の安全を考慮して、絶対に裏切りたくなくなるような額を報酬とするよう、篝が頑として譲らなかった。
もちろん八嶌にわたしの財産は一円もないので、篝の財産が元手だ。
なんだか一介の小娘一人のためにそこまでしてもらうのは申し訳ない気もするけれど、ここは篝の厚意に甘えることにする。
「金貨二枚で、わたしの付き添いをしてください。条件は、わたしの言うことを聞く。わたしに害をなさない。周りに迷惑をかけない。わたしがピンチの時はわたしに加勢する。報酬の受け渡しは、賭闘が終わって会場を出てから行います。ちなみにお財布を持っているのはイカスミなので、わたしから強奪しようとしても無駄だから」
そう言って、わたしは上空を指差す。お財布袋を抱えたイカスミはお空を悠々と飛翔していて、簡単には手出しができない。これも篝の入れ知恵だった。
「……ただし前金として銀貨二枚を払う用意はあります。どうしますか?」
わたしの問いに、ユキシロさんはぷるぷると震えながらその場にガバッと額づいた。
「お嬢様! マイレディッ」
それまでわたしをガキ呼ばわりしていたのが嘘のように、ユキシロさんは恥も臆面もなくわたしの手を取った。
「謹んで、ご下命を拝します!」
わたしは目をお金の形にして輝かせているユキシロさんを見下ろしてから、イカスミと目を合わせた。イカスミが「本当にこいつにすんのかよ」と呆れ顔でわたしをつつく。
わたしも一瞬後悔しちゃったけど、まあもう契約しちゃったものは仕方がない。
わたしはユキシロさんの手から自分の手を引っこ抜くと、たちまち犬のように纏わりつき始めたユキシロさんを雑に遠ざけて、遊戯場へと急いだ。
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